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自灯明法灯明

「自らを灯(ともしび)とし、拠り所として、他を灯とすることなかれ。」

松本智寿夫に見る罪と罰

2012年06月04日 | 日記

松本智寿夫の思想と「ドフトエフスキー」の罪と罰を重ね合わせて見た

小説の中の主人公である元大学生は「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」とする考えの下に、金貸しの老婆と妹を殺して社会に良い行いをすれば償われるとして決行する。     

しかし罪の意識により発狂し、自分より更に貧しい娼婦の家族の為の自己犠牲の心にうたれ自首すると言う小説である。

では、松本智寿夫はどうかと言うと、盲目(実際は弱視らしい?)の自分の境遇を社会に対して逆恨みをし、社会に対して復讐を企てたとも言われている。

インドに於いて修行したとされているが、ブッダガヤの菩提樹のお釈迦様が座禅を組んだとされる台座に勝手に座り、松本智寿夫は座禅を組み、信者の怒りを買い、台座から引きずりおろされたとの事である。

又、実際は現地の人達の話によると修行の途中で逃げ帰り、信者には言い訳に自分は悟りを開いたと言ったそうである。

実際に信者が増え、自分の言いなりに成る事が分かってくると、自分が神に成ったと勘違いをしたのだろう、実に傲慢で愚かな事だ。

オウム真理教はヒンズー教と仏教のごちゃまぜの、 松本智寿夫にとってのご都合主義の宗教と言わなければならない。

サリンの被害者はもとより、殺人や、幇助の信者の親も又被害者である

我が子の幸せな人生を願って苦労して育てて来たのに、我が子が一瞬にして殺人犯と成った事で、親はこの上ない苦しみを味わう事に成ってしまった。

松本智寿夫の野望の犠牲者は親子共々と言ってもよい、確かに物の分別をわきまえた年齢の者に取って実行犯としての責任は免れないが、松本智寿夫の教えを正しいと信じたが故に、余りにも悲しい出来ごとだ。

その松本智寿夫は何も語らずして終わってしまうのだろうか。

ドフトエフスキーの「罪と罰」とは違い、反省の色も無く逮捕後は無様な姿を晒し続け

独房では糞尿の垂れ流し極刑を免れる為の詐病では無いかと言われている

昨日はオウム真理教の逃亡犯の1人が捕まった

しかし未だ終わりは見えず、ダラダラといつ迄も尾を引く

都会の闇に紛れている、残るもう一人はどこに息を潜めているのだろうか. . . . .

 

    

 

 

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