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20221117 何もあたみません。

2022-11-17 15:33:09 | 本の要約や感想


本日は20221117でございます。
寒くなく暑くなく風もなく、とくに何もなく、そんな日でございます。

先日11/8このブログに、太宰治と壇一雄について少し書きましたが、それに関する本を確認の意味で読みましたので、あらためて以下に要約を書きました。

今回読んだ本は、壇一雄が太宰治と坂口安吾との思い出などについて書き遺した短い記述の数々を一冊の本に編集した「角川ソフィア文庫「太宰と安吾」壇一雄」です。

11/8は昔読んだ私の記憶で書きましたが、今回読むと少しだけ違っていました。とはいっても、当の壇一雄も年代で記述が少し変わってますから、まあいいでしょう。今日は私が書き直したかったからです。


────────昭和11年11月。(1936年 ちなみに226事件の年のこと)

太宰治(27歳)は熱海の宿で何かを書くつもりだったが、連日、酒を飲んだり、女を買ったりで筆はちっとも進まず、とうとう熱海の各所にツケが溜まり、どうにもならなくなっていた。

金が足りなくなり送れと太宰は東京の妻初代に連絡をした。初代は苦労して金を工面した。額は70円ほど。おそらくは今の15~20万円ほどではないか。初代は太宰の友人壇一雄(24歳)を訪ね、その金で清算をし、早々に連れ戻してきてほしい、と頼んだ。

壇が熱海に着き太宰を訪ねると、太宰は機嫌よく壇を迎えた。預かった金を渡すと、太宰は「行こう」と天ぷら屋に誘った。しかしそこは高級な店で、壇の不安は的中し、食後に28円(5~8万円くらい?)を請求された時にはさすがに太宰の顔も血の気を失っているように壇には見えた。

ミイラ取りがミイラになったのだった。壇は初代の顔を思い浮かべ、苦い酒になったが、早くも金は決定的に足りない。しかし諦めによって二人ともやけくそになり、酒と女に(さらにツケで)連日溺れた。

太宰は「菊池寛(48歳 芥川賞創設者)のところに金策に行ってくる」と壇に言い、壇は人質よろしく宿に残され、太宰は東京に戻った。

壇は数日待ったが、太宰は宿に戻らない。その代わりに太宰が手配したらしい女が毎日慰めにやってきた。ツケを溜めてある料理屋の主人が痺れを切らし「待っていてもどうにもならないから、先生(太宰)を見つけましょうや」ということになり、おそらく料理屋の主人はツケ回収の熱海代表なのだろう、宿も承諾し、壇は料理屋を連れて東京に戻った。

壇の考えでは、まずは荻窪の井伏鱒二(38歳)の家に行き、太宰の足取りを探るつもりだった。井伏鱒二は近隣作家の小ボスのようになっていて、太宰治も井伏に師事しているような関係だった。井伏も人の世話をよくし、多くの人が井伏を頼った。

壇は料理屋を連れて井伏邸を訪ねた。期せずして太宰がいた。しかも井伏との将棋の真っ最中だった。壇は激怒して見せた。訝る井伏。説明する料理屋。黙っている太宰。

井伏から返済の確約を得て料理屋は帰った。井伏のいない時に太宰が壇に弱々しく言った。

「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね」

井伏が文京区の佐藤春夫(詩人作家44歳、面倒見の良い人。東京の作家の大ボス的?)にわけを話し、100円ほどの金を用立ててもらった。足りない分は井伏の持ち物や初代の着物などを質に入れ作った。井伏と壇が熱海に行き、総額300円(60~80万円?正しくは調べてください)をようやく清算した。(ほとんど全部を佐藤が払ったという記述も別にある) ほっとした二人は温泉に浸かった。────────

以上が壇と太宰の「熱海行」の顛末であるらしい。(角川ソフィア文庫「太宰と安吾」壇一雄)より要約。

壇一雄は太宰の「走れメロス」の創作に、この「熱海行」が発端になっているとすれば幸せであると書いている。

「熱海行」の顛末記から私が感じた太宰の心情を書いておくと、太宰はけっして宿に残した壇を忘れていたわけではなく、それまでにも世話になりっぱなしの井伏にさらに多額の借金を申し出ることを躊躇していたようだ。まして極端に心の弱い太宰のことである。話を切り出せずに将棋などを指していたのだろう。

初代の願いを果たせずミイラになった壇にしても、自分も飲んで買った当事者側であるから、誰にも偉そうなことを言える立場でもなく、太宰を恨んだわけでもなく、井伏邸で激怒したのは、「この場はそうすべき」という気が働いたようである。

その初代(小山初代)さん。彼女も太宰の妻として苦労したわけだが、しかしこの人もWikipediaを読むかぎりでは波乱万丈の人で、太宰と離婚後、日本は北から南まで、果ては満州チンタオにまで行って、ついにまだ若くして白木の箱で帰国する、というアグレッシブさを今の世にまで伝えられていて、もしお墓が近くにでもあれば、私も行って手を合わせてあげたいが、そこまで詳しくは書いてなかった。

いや検索したらすぐにわかった。弘前だった。写真もあって、古い墓石が傾いて立っている。すでに無縁仏らしい。寺もそろそろ整理したいが、太宰のファンが時々来るから迷っている、と書いてある。サイトリンク

もう少し検索したら、2019年に有志たちによって整備されたとのこと。傾きも直された模様。「太宰を支えた人を忘れないで」ということらしい。まったくだ。素晴らしい。なかなかできないこと。

さて、この壇一雄の「熱海行」という文章の中で、とくに私の心に残った行があり、それを以下に書き写しておく。

────────文学を忘れてしまって、虚栄を抜きにして、おのおのの悲しみだけを支えながら、遊蕩にふける時間が、私達の僅かな、安静な時間だったといえるだろう。────────

これを「ああバカだなあ、弱いなあ」と思う人はいるだろう。その人たちに私は言いたい。「その通り」と。
しかし、バカで弱いからこそ書ける文章もあるということではないだろうか。
もちろん彼らは本当のバカではないしね。

もうひとつ。巻末に吉本隆明が解説を書いている。そこからも抜粋しておきたい。

────────太宰治、坂口安吾の他、織田作之助、石川淳、壇一雄といった、いわゆる無頼派と呼ばれた作家たちは、それぞれ良質な作品を残しているが、彼らは女、薬、酒といった表層的なデカダンス(退廃的なこと)と裏腹に極めて強い大きな倫理観を持っていたように思う。────────

この吉本の言葉の意味は、彼ら無頼派は戦前戦中戦後でその主張に違いはなかった。ということ。戦中は戦意高揚を、戦後は民主主義を、と変遷した作家も少なくなかった中で、彼らは変わらなかった、ということ。変わらずにいた、ということを今になって文字にすることは簡単だが、当時の日本の燃え上がった戦意の中で、変わらずにいることは難しかったと推察される。

E V O L U C I O


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