goo blog サービス終了のお知らせ 

「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

『引き潮』

2006年09月30日 | Yuko Matsumoto, Ms.
『引き潮』(松本侑子・著、幻冬舎)
 小説を読む醍醐味にもいろいろなものがある。時間や空間を超えた見知らぬ世界へと誘ってくれるのもそのひとつだ。そこで繰り広げられる物語に、胸がわくわくしてくる。知らず知らずのうちに、ページをめくる手も早くなってくる。そんな小説とは対極的に、どこかなつかしさや身近な親しみを感じさせてくれる小説もある。自分が行ったことのない時代や場所であるのに、あるいは架空の設定であるにもかかわらず、むかし見たことのある風景や、味わったことのある情感を想いおこさせてくれる。なつかしさに浸ろうとするからなのか、むしろページをめくるのがもったいなく思うこともある。ここに収められた9編の短編は、そんな小説である。
 やはり歳をとったのだろうか。田舎へ帰ると、とくに目的もなく、実家のまわりや通っていた学校のあたりを散歩したくなる。小学校や中学校へ行くには、かならずローカル線の踏切を渡らなければならない。そのルートも二つあって、小学校のときは、すぐそばに材木置き場がある踏切を渡って通っていた。その踏切のすぐよこで、老夫婦が小さな文房具屋を営んでいた。老夫婦とはいっても小学生の目から見てのことだから、まだ五十代くらいだったのかもしれない。おじいちゃんはちょっと目が鋭くて怖い感じの人だったが、おばあちゃんはいつも笑みを浮かべていた。あるとき、小学校からの帰り道で急に大便を催してしまった。いまになってみれば実家までの距離はそうたいしたことはないのだが、小学生の自分にはがまんができなかったのか、意を決してその文房具屋でトイレを借りた。身体が弱いだけでなく、人見知りがはげしくて、ろくに人とはしゃべれなかった自分がトイレを借りたのだ。これはすごいことだ。だから、いまでもそのことが記憶に残っているのだろう。おじいちゃんとおばあちゃんが亡くなってからもう何年になるのだろうか。文房具屋のあとを継ぐ人もなく店はたたんでしまったが、その小さな平屋の家は、幸いにもいまでも踏切のそばに残っている。入り口や窓には日に焼けた白っぽいカーテンがかかっていて、なかを見ることはできないが、家屋に接した線路をローカル線のディーゼルカーが轟音をたてて通っていく光景は、あのころとそんなにちがいはない。自分が歳をとったことなど忘れて、ひ弱な小学生にトイレを貸してくれた、あの老夫婦がいまでも住んでいるような気がしてくる。9編の冒頭を飾る『赤萩の家』を読みながら、そんな情景を想いうかべていた。
 だれが見ても恋多きオトコなどではない。自分でもそう思う。それどころか、恋の数など片手でたりる。たしかに、トイレを借りるにも勇気がいったあのころにくらべれば、いまでは人と話すのがずいぶんうまくなったと思う。だからこそ、数は少なくても、恋のひとつもできたのだろう。しかし、その想い出はやはりほろにがい。時代も場所もあきらかにちがうけれど、『葉桜』で「香里奈」を思う気持ちは自分のものだ。「香里奈」の一言ひとことに高揚したり落胆したりする自分は、やはり「彼女がウェディングドレスを着る時、となりにいる幸福な男」にはなれなかった。葉桜には葉桜の美しさがある。真剣に恋をして、その恋が実らなかった者には、たぶんそのことがわかるだろう。しかし、自分が「葉桜」であることを受け入れることができるかどうかは、また別の問題だろうと思う。そのことには諦観ということが関係してくるのかもしれない。もちろん、これは『葉桜』とは無関係な蛇足の想いだ。
 『山里にて』に描かれた「修」のふるさと。あのバス停は自分も知っている。「歌子」が『帰郷』で生まれ育ったふるさと。雪おこしの雷鳴の鳴る冬に、自分も紅白歌合戦を見ていた。一つひとつ挙げればきりがないくらいだ。なつかしくて、せつなくて、ふと涙がにじんでくる。中学生や高校生のころは、小さな田舎町を出て都会へ行くことばかり考えていた。そんな自分がいまでは、ふるさとの山並みや田畑の匂いがなつかしく思えてくる。雪に閉ざされた冬でさえ、至福の季節に思えてくる。そんな情感を引き出してくれる松本侑子氏の筆致は見事というしかない。自分にとって『引き潮』はけっして恋愛小説ではない。「歌子」が帰郷するために身体をあずけた飛行機のようなものである。その機体から眺めるふるさとは、なつかしさに満ちている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『ヴァニラの記憶』 | トップ | 『ヨーロッパ物語紀行』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Yuko Matsumoto, Ms.」カテゴリの最新記事