しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 詩篇126篇 <夢のようだった>

2017-07-13 | 詩篇

白い芙蓉「主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。」(詩篇126:3新改訳)

バビロン捕囚から解放され、聖地に帰還できた喜びを歌ったものとして有名な詩。1節は、「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いてわたしたちは夢を見ている人のようになった」(詩篇126:1新共同訳)と訳される。▼帰還の許可はペルシャ王が発布したが、背後には異邦人の歴史さえ支配しておられる全能者の御手があった。つまりそれより70年前、預言者エレミヤによって語られた宣告が、時満ちて実行されたのである(エレミヤ書29:10同)。神がお語りになったことは聖書に記されているが、それは時が来たとき必ず実行されるもので、人間が約束するいろいろな契約などとは全く異なる。主が言われたように、天地宇宙が崩れ去っても、神のことばは微動もせず、粛々(しゅくしゅく)と成就していく(マタイ24:35)のである。▼ともあれ、廃墟となったエルサレムに、ふたたび立ったユダの人々はどんなに嬉しかったことか。それから二千五百年が過ぎ、エルサレムは今なお神殿のない状態にある。が、まもなく活ける神殿であられる主イエスが再臨されるであろう。そのときこそ私たちは永遠の喜びに入ることになるのだ。▼現在、エルサレムの神殿跡、西壁(なげきの壁)に行くと、ユダヤ人たちが祈り続けているのを見る。彼らは(すべての人々ではないにしても)メシアが来臨されるのを待っているのだ。私たちはキリストの来臨とイスラエルの回心を求め、80年以上祈って来たが、彼らは2千年以上メシアの来臨を待ち続けている。人の力だけでこのような祈りが続かなかったのはたしかだ。これが「涙とともに種を蒔く者」の真意ではないだろうか。やがて喜びの収穫のとき、すなわちイエス・キリストの再臨を迎える。待ちに待っていたメシアの姿を見たとき、それがナザレのイエスであるのを認め、彼らはどんなに驚愕し、泣くであろうか。「彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10同)▼神の国出現という最終プログラム、幕が切って落とされるのはこのときである。