しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 ヘブル11章 <神のことばで造られた>

2017-06-30 | ヘブル書

白アジサイ「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3新改訳)

今日、世界を支配する科学思想、合理的精神は根本的な誤りを持つ。それは、聖書が証しする創造主を信じ認めない、という誤りである。多くの科学者や教育家は言う、もし絶対者の存在を認めると科学は成り立たなくなってしまうと。しかしそのようなことはなく、創造主を受け入れてこそ、科学思想やすべての精神は初めて正しく機能し、発展することができるのである。▼百年ほど前、相対性理論を提唱したアインシュタインは、「時間は相対的で伸び縮みする」と言い、世界をおどろかせた。しかし聖書は初めから言っている。「あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、1日は千年のようであり、千年は1日のようです」(Ⅱペテロ3:8同)と。これを記したのは、もと漁師だったペテロである。▼この世的な思想の根底には、神への不信仰と反逆性が存在するが、人々はこれも認めず、一笑に付す。すなわち、それがあらゆる間違いの原因であることを認めないのである。主イエスが、「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです」(ヨハネ8:43同)と言われたとおりだ。父なる神と、そのひとり子イエスのもとに立ち返る、人として真に正しい生き方はそこから始まることを知ろう。「輝く日を仰ぐとき、月星ながむるとき、いかずち(雷)鳴りわたるとき、まことのみかみ(御神)を思う、わがたま(魂)いざたたえよ大いなるみかみを、わがたま(魂)いざたたえよ大いなるみかみを」(新聖歌21)


朝の露 詩篇119篇161~168節 <限りなく愛しています>

2017-06-29 | 詩篇

カンナ「私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。」(詩篇119:167新改訳)

モーセ律法の神髄は、力をつくして神を愛すること、自分と同じように隣人を愛すること、この二点につきる。詩人はそれを正しく理解していた。▼主イエスの所に来たひとりの富める青年は、「どうしたら永遠のいのちを得られますか」と尋ねたが、主が「律法を守りなさい」と言われると、彼は「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(マタイ19:20同)と答えた。ちょっと考えると、若者は詩篇119篇の作者とおなじようにみえるが、本質がちがう。彼の心には致命的な空白があり、それは目の前におられる人の子への信仰が鍵である、という事実に目が開かれていなかったのだ。▼神の律法は、教条的に守れば済む、といったものではない。心から神を愛し敬い、喜びのうちにその仰せを守ることなのだ。その証拠に、青年の答えの背後には寒々しい心根、自己中心が感じられる。現代人もこの人にそっくりなところがある。何もかもそろっている。家、車、IT機器、情報、ショッピング、グルメなんでもござれ、だ。しかし人格の奥底に「満ち足りる何か」がない。▼ひるがえってこの詩篇を眺めてみよう、詩人にはかぎりない喜びと神への愛が燃え、それが読む人に伝わってくる。この人が満ち足りていることを、だれが否定し得よう。私たちにとって、それは御子イエスを内に迎えることによってもたらされるものである。なぜなら、主は御父の仰せを限りなく喜び、それに従うことを永遠のいのちとされた方だからである(ヨハネ12:50)。福音とはそのことなのだ。▼みことば詩篇といわれる119篇も終わりに近づいた。かくまで神のことばを愛し、喜び慕い、いのちとした人が旧約時代に存在したことに、あらためて驚きをおぼえる。同時に、その「満ち足りた喜び」が今、信じる誰にでも(たとえ異邦人とよばれた私たちであっても)聖霊により、無代価で持たされる時が来ていることに嬉しさを禁じ得ない。生涯、この喜びの河に浸り続けようではないか。


朝の露 詩篇119篇153~160節 <私を贖ってください>

2017-06-28 | 詩篇

あじさい「私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。みことばにしたがって、私を生かしてください。」(詩篇119:154新改訳)

本篇の134節に、「私を人のしいたげから贖い出し、私があなたの戒めを守れるようにしてください」(詩篇119:134同)とあるので、ここでも同じ意味で贖いが用いられている、と考えてよい。信仰者に対する悪、しいたげは結局のところサタンから来る。だからそこから救い出されるには、奴隷が身代金を支払って解放されるように、主イエスに贖って頂くしかない。なぜなら、彼は人の持つ肉性を通し、誘惑という強大な罪の力を用いて攻撃してくるからである。「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」(詩49:8同)とコラの子たちが歌ったように、もし主が十字架で死の苦しみを受け、代価を支払って下さらなかったら、私たちは神の国に入ることを永遠にあきらめなくてはならなかった。詩人はここで「私を生かしてください」と三度も祈っている(154、156、159)が、それはイエス・キリストによって実現したのである。「われ贖われて自由にせられ、キリストにありて平安(やす)き身なり、贖い、贖い、われは歌わん、ハレルヤ永遠(ときわ)に、われは歌わん」(新聖歌264)


朝の露 詩篇119篇145~152節 <あなたのあかし>

2017-06-27 | 詩篇

ガクアジサイ「私は昔から、あなたのあかしで知っています。あなたはとこしえからこれを定めておられることを。」(詩篇119:152新改訳)

8節しかないこの段に、みことばの名称が六回も出ている。おきて、さとし、みことば、みおしえ、仰せ、あかし、であり、そのすべてに「あなたの」という接頭語がついている。作者は(エズラと言われる)律法を読む時、かならず目の前に神ご自身を意識しており、ただ字句に拘泥していたのではないことがわかる。▼聖書は単なる文字の羅列でなく、それを読む人に与えられた神からの語りかけなのだ、と知りたい。あるときは親から子に向かって語られる愛のこもった諭しになり、あるときは深い霊界を解き明かす教えになる。また、行動をうながす指示(仰せ)になることもあるし、過去の歴史を説明する証しともなる。その広さ、深さ、高さにおいてみことばに若(し)くものはない。新約に至ると、このみことばが受肉された神ご自身として現れ、イエスの口から発せられたことばは天地が失せても失せることはない、と宣言される。なんたる奇蹟であろう。▼特に21世紀の今、世界はあらゆる面で混沌、混乱の様相を呈している。コンピュータは発達(この言葉を使うべきかどうかは疑問があるが)するだけ発達し、人工知能まで出現するといわれている。だれも予測できない世界が始まろうとしているのだ。しかしおびえる必要は少しもない。永遠の昔から定められた神のことば・聖書があり、その実体であるイエス・キリストがおられる。だれも予測できないといっても、それは人が人だけを眺めていればの話であり、「天に坐するもの笑いたまわん」(詩2:4文語)である。▼お互いに、目を上に向け、天地宇宙と大自然、万物をながめよう。どなたがこれを造り、私たちの髪の毛まで数え、一羽の雀まで食べ物を与えて養い、一匹の虫まで名前をつけて呼んでおられるのか。私たちは「名もなき草」とか「名もなき〇〇」とか平気で言うが、ほんとうは名もなき存在など、この天地宇宙にはひとつもない。すべてが知られ、すべてが神のお心の中にある。天地宇宙に御父の御愛と真実が満ち満ちていることに感謝し、喜び勇んで今日一日も始めようではないか。


朝の露 詩篇119節137~144節 <苦難と窮乏の中でも>

2017-06-26 | 詩篇

あじさい「苦難と窮乏とが私に襲いかかっています。しかしあなたの仰せは、私の喜びです。」(詩篇119:143新改訳)

聖霊はスミルナ教会に、「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている」(黙示録2:9同)と言われた。また続いて、「しかしあなたは実際は富んでいる」とも言われた。▼神の小羊を心から愛し、従って行こうとするとき、この世ではさまざまなかたちの迫害を受けざるを得ない。殉教や投獄までいかなくても社会的、経済的に差別や不利益を受け、苦難と窮乏に落とされることもある。しかしそのような時こそ、みことばを通して働かれる三位一体の神が、信仰者の喜びになってくださる。▼だから恐れる必要はない。また本篇24節には、「あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です」(詩篇119:24同)とあり、どんな困難、問題でも相談しなさい、と主ご自身が私たちに呼びかけておられるのだ。これ以上の慰め、励ましがあろうか。父なる神はいつも貴方に目を注ぎ、イエスはその右にあってとりなし、御霊は内に住んで助言と導きを与えておられる。私たちは、これほど手厚く保護されている存在であることを思い、喜びに満たされて近づこうではないか。▼盲目の作詞家だったファニィ・クロスビーは力いっぱい賛美している。「イエスは常世(とこよ)の岩にませば、生けるかぎりは頼らまほし、栄えかがやく国に覚(さ)むる、常世の朝を待ちわびつつ、イエスの御腕(みうで)に、その御胸(みむね)に、静かに憩(いこ)う我は安し」(新聖歌253)・・・イエスは永遠に変わらないお方、不動の巨岩のようなお方だ。わたしは生のあるかぎり、このお方に信頼し、すがって行きたい。栄光の御国の現れは近い、復活にあずかり、その御国で目覚める日がほんとうに待ちどおしい。その日を望みながら、私は今母の胸にいる赤子のように、主の御愛のふところとみ腕に抱かれている!なんという平安であろう。