しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <パウロの手紙>

2022-03-05 | コロサイ

「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるようにしてください。あなたがたも、ラオディキアから回って来る手紙を読んでください。」(コロサイ4:16新改訳)

当時(一世紀半ば)すでに、各地の教会にパウロの手紙が回覧され、大切な指導書として礼拝などで朗読されていたことがうかがえる。また使徒ペテロやヤコブ、マタイやルカの記した書簡も各教会で読まれ、複製され保存されたのであろう。加えて多数の筆になる聖文書らしき物も出回っていたにちがいない。やがて教会はそれら書物群から、真に霊感されたものを注意深く選び、新約聖書としてまとめたのであった。▼こうして使徒やその周辺の人たちが御霊に導かれて記した二七の書物が以後の二千年にわたるキリスト教歴史を支えたことは、不思議であり偉大な神のみわざとしかいえない。今日、私たちが福音の何たるかを悟り、主にある教会を形づくり、キリスト再臨の時まで歩む力の源として聖書を手にしているということは、神の測り知れない救いの御計画と、歴史の中に働く御聖霊によっているのである。

この章のあいさつの中にデマスの名が記されている。「愛する医者のルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」(14)▼牢獄でくさりにつながれているパウロの世話をしていた医者ルカと弟子のデマス、二人はパウロにとり、大きな慰めとなっていた。まもなく裁判で使徒は無罪になり、釈放され、ふたたび宣教を開始したが、再び捕らえられ、獄に入れられた。二度目の裁判では釈放されずに死刑判決を受け、殉教したと伝えられている。二度目の獄にあって彼が絶筆として記したのがⅡテモテで、コロサイ書を記してから5年ぐらいは経っていたらしい。▼そこで、ルカとデマスの運命は分かれた。なぜならパウロが次のように記しているからだ。「デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマティアに行きました。ルカだけが私とともにいます。」(Ⅱテモテ4:10,11同)▼釈放された師のパウロが再び捕らえられ、今度は助からないようだ、そういう思いがデマスの心をゆさぶったのであろうか。困難に耐え、先生に仕えてよく働いて来たデマスは最後に信仰が弱まり、同時に一般社会の豊かさに郷愁と魅力を感じて、パウロのもとを去って行った。使徒の寂しさと孤独はいかばかりであったろう。しかしルカは去らなかった。幾ばくも無い地上のひと時を過ごすパウロの世話をし続け、たぶん医者としてのいたわりをもって務めを果たしたのである。ルカとデマス、両者はあの十字架上の二人のように対称的な生き方を私たちに見せてくれる。▼キリスト者の信仰生涯はマラソン競争に似て、途中をどんなに良く走っても、最後のゴールでテープを切らないと、すべてが水泡に帰してしまう。思えば、なんと多くの人たちが途中で走ることをやめ、横道にそれて行くことであろう。▼なぜかルカとデマスの名はパウロの手紙の中、3回ともいっしょに出て来る(コロサイ4:14、ピレモン24、Ⅱテモテ4:11)。そしてデマスは最後にこの世に戻り、消えて行ったが、ルカの名はルカによる福音書と使徒の働きの著者として今日まで言い伝えられることになった。

 


朝の露 <栄光のうちに現れます>

2022-03-04 | コロサイ

「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4新改訳)

使徒ヨハネは御使いから「あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう」(黙示録21:9同)と言われた。彼が見ていると、夫のために飾られた花嫁のように整えられた聖都エルサレムが、天から降って来たではないか。その美しさと荘厳さに、彼は息も止まるばかり驚いたのではなかろうか。▼今の私たちは、その都こそキリストと共に現れた教会、すなわち自分自身もそこにいるのだ、と言われても信じられないであろう。だがまさしくそのとおりなのだ。パウロはコロサイの信徒たちに、「あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです」(コロサイ3:3同)と書いたが、それはこの新エルサレムが心にあったからであろう。その美しさ、尊さは御父だけがご存じであり、今は誰にもわからない。私たちはヨハネの筆から想像するだけだ。ともあれ、キリスト者なら幸福感で胸がいっぱいになるのは皆おなじであろう。

新しい世界に生きる信仰者の姿を垣間見せてくれるのは、あの変貌山で起きたことであろう。よほど印象的だったと見え、共観福音書すべてが記している。▼あるとき主はペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れ、祈るために(ルカ9:28)、高い山(マタイ17:1)に登られた。祈っておられると、その御顔の様子が変わって太陽のように輝き、衣は白く光りのように輝き、その白さは世の「さらし職人」にはとてもできないほどの白さであった。さらに驚いたことに、そこにモーセ(約1400年前の人)とエリヤ(約800年前の人)が出現し、主とおなじ栄光の姿をしていて、三者が語り合っているではないか。その話の内容は、これから主がエルサレムで迎える御最後(つまり十字架のできごと)であった。▼ペテロは思わず「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」(マタイ17:4同)と言った。これは何を言っていいのかわからなかったペテロが思わず口走ったのだ。しかしわかるのは、三弟子が目撃した光景は幻や夢でなく、目の前の現実、リアルそのものだったということだ。じつに私たちが入る神の国はこのような現実の世界である。なんと喜ばしい未来であろうか。そして旧約時代を代表する二人の聖徒が熱心にイエスと話していたのは十字架に関することであった。キリストのあがないのみわざこそ過去現在未来の出来事の中心そのものということが、ここからも知られる。▼「また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。』」(黙示録5:11,12同)

 


朝の露 <パウロの苦闘>

2022-02-26 | コロサイ

「私が苦闘しているのは、この人たちが愛のうちに結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるためです。」(コロサイ2:2新改訳)

まだ会ったことのないコロサイの信者たちのためにパウロが祈っている(苦闘とはそのこと)のは、さまざまな邪説に惑わされないため、豊かで全き確信に満ちた信仰を持つようになってほしいとの願いからであった。それには神の奥義であるキリストを深く知ることが欠かせない。▼なぜなら当時のコロサイ地方には、密儀とか奥義といった、一見さも魅力的で深遠そうな教えを唱える宗教や哲学が流行し、人々を惑わしていたからである。パウロは「そのようなものは偽りであり、人間が真に必要とする心の要求に答えられないものばかりである」と断定し、ほんとうの奥義はイエス・キリスト御自身にあると強調する。そして キリストを知るためには、心の目が開かれることが必要で、それは御聖霊の働きによる。だからパウロは彼らのため神に懇願していたわけで、それを苦闘といったのであった。

パウロはダマスコへ向かう途中で天におられるキリストにお会いした。強力な光に照らされて倒れたとき、「サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか」という御声を聞いたのである(使徒22:7同)。あなたはどなたですか?と彼が思わず尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」とのお答えがあった(8)。▼ナザレの青年として地上を歩んだ人が、天の神の座から語りかけたのだ。その瞬間、パウロは神の奥義であるキリストを知ったといえる。そのときから、神の全能の力により、彼はキリストを宣べ伝える宣教者に変えられたのだった。おそらくそれまでの生涯で学び、研鑽を積んだユダヤ教の教え、体に刻みこんだ旧約聖書が、ことごとく一人の御方・キリストに帰結している事実を彼は理解した。だれよりも深くユダヤ教に進み、血がにじむような努力をして律法を学んでいたパウロの生涯は無駄ではなかった。それどころか、それらはみな深い摂理のうちに神によって準備計画されていたことだったのである。▼私たちがパウロ書簡を読むとき、キリスト理解の深さ、広さにただ圧倒される。それは彼の律法の学びが如何に徹底したものであり、いのちがけの修養だったかを示している。そしてさらに素晴らしいことに、復活のキリストにお会いしたことによって、彼の内に蓄えられた知恵と知識がまたたくまに「花開き、実を結んだ」のだった、あの一晩で実を実らせたアロンの杖のように。学びが学びに終わらなかった。それは神の奥義であるキリストを知った時、聖霊による豊かないのちとして実ったのであった。これがキリストを知るということなのである。

 


朝の露 <神のみこころについての知識>

2022-02-25 | コロサイ

「こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。」(コロサイ1:9新改訳)

これはコロサイの信者たちのためにパウロが祈る四つの願い(9、10、11、12)のうち、第一のもので、神のみこころについての知識に満たされますように、という願いである。神の創造に関する知識がいかに豊富になっても、それで救われるわけではない。みこころがどこにあるのか?ということをしらなければ、救いに至ることはできない。▼最近は遺伝子や生命についての研究がおどろくほど進み、人はもうすぐ生命を造り出せると豪語している。そのような研究と、結果としてもたらされた知識は、放っておけば被造物にすぎない人間を傲慢にし、最後は滅びに至らせることになろう。神のみこころは私たちが謙遜になり、その豊かな御愛といつくしみを喜んで受け入れることで、そうすれば限りない神への愛と感謝の成長が与えられ、理解が増していくのである。コロサイ地方は創造主不在のギリシャ哲学が盛んで、多数の学者や思想家を輩出した所だといわれる。パウロはそれに対する注意をコロサイ教会の信徒たちにうながしているわけである。

使徒はコリント教会へも同じ内容を書き送った。「たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全なる信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。」(Ⅰコリント13:2同)▼神の人間に対するみこころは、人間が神ご自身の愛を知り、深く人格的な交わりをすることによって、完全な喜びの関係に入ることである。ところが、人間は「それは要らない」という。そして神の知恵と知識・それだけを深く知り窮め、それによって得た賢さ、知識の豊かさによって、自分自身が神と同じ高さになりたい、そういう願望を抱く。つまり、その動機のなかに創造主を押しのけた自己賛美という欲望を抱いたまま、物事の理を追求、探求しているのである。▼パウロはそれを「空しいだましごと」と一刀両断のもとに切り捨てた。「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:8,9同)▼地上でゆるされた短い一生を、迷わされて空しく終えるのではなく、父なる神の御愛を知り、真の親子としての喜びに満ちた交わりにあずからせて頂こうではないか。

 


朝の露 コロサイ4章 <神の奥義なるキリスト>

2019-09-07 | コロサイ

aromawax「また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。」(コロサイ4:4新改訳)

華道でも茶道でも奥義や秘伝がある。これはふつうでは知り得ず、長い間修養を積み、多くの時間と代価を払ったあと、ようやく知ることが許される。しかし永遠から見れば、世の奥義や秘伝・秘儀などは空しく、はかないものである。限りある人間が考え出した知識や技術、技能にすぎないのだから。▼イエス・キリストはこれとは違い、人が思いもつかず、想像もしなかった御方、神が世界の始まる前から定めておられたご計画と御知恵の結晶、時満ちて世に現れた奥義そのものである。しかもキリストは、傲慢な者やこの世の支配者には決して理解できない。なぜなら、高ぶった者は、人の知恵は評価しても聖霊の知恵は理解せず、馬鹿にするからである。ところがこれもまた測り知れない神の御知恵で、永遠の救いに入る者と、永遠の滅びに入る人々が、気づかないうちに分けられているのである。▼イエス・キリスト、人として世にお出でになった神は、途方もない奥義であられる。だからパウロはイエス・キリストの神秘を人のことばで明らかに示すことに、非常な困難さをおぼえたであろうことは、想像に難くない。彼はⅠコリントで次のように述べる。「それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばによって御霊のことを説明するのです」(Ⅰコリント2:13同)と。▼私たちはふつう、日本語訳の聖書を読んでいる。しかしそれは人間の言葉を越え、御霊のお働きの中に置かれている日本語、日本文であると思わなければならない。だから、謙遜と祈りの姿勢をもって、くりかえし、飽くことなく読み、聞き入るべきである。そうするなら、水が低いところに自然に流れるように、御霊は真理の川となってその人の心に流れて来るであろう。反対に「上からの目線」で読むなら、理解することはできず、決していのちにふれることはできない。すぐに飽きて投げ出すのが落ちである。▼思えば思うほど、聖書とはふしぎな書である。それは読む人がまったく気づかないうちに、読む人をさばいているのである。「生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分け」(ヘブル4:12同)て当人の眼前に並べてくれるのだ。そのおごそかさはたとえようもない。