「ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。」(ヤコブ5:7新改訳)
ヤコブは手紙の最初で忍耐の必要を勧めたが、最後の結びに来てもう一度忍耐の意味と大切さを強調する。▼今の世にあり、キリスト者はどうして耐え忍ばなければならないのだろうか。理由は正しく公正な審判が現れていないからである。ばく大な富を得る者もいるかと思うと、明日の食べ物にこと欠く人も大勢いる。悪事を働いたのに見つからず、一生安泰に過ごす者もいるし、無実の罪で何十年も獄に入れられる人もいる。まさにこの世は不条理に満ちており、苦しむ人々の叫びは地上にあふれている。▼だがそれもイエス・キリストが地上に再臨されるまでだ。主が世界の王として来られると、あらゆる悪はさばかれ、泣き苦しんでいた人々には正しい報いが与えられることになる。だからヤコブは、「主が来られるのはもうすぐだから耐え忍ぶのだ」と私たちを励ますのである。その反対に、金持ちに対しては、「迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」と譴責(けんせき)してやまない。あなた方が貯めた膨大(ぼうだい)な富は、主の日にはあなた方を滅びに落とす錘(おもり)になるのだから、と。
私自身は、キリスト者生涯にも「初めの雨」と「後の雨」があるのではないかと思っている。主イエスを信じて救われた人の最初は、すばらしいもので、顔も生活も生き生きと輝いておられるのを何度も見て来た。▼それが残念なことに、何年、何十年も経つと、次第に光少なく、色あせて来るのも見て来たし、途中で信仰を放棄し、教会から消えていなくなる方も無しとはしない。牧師としては心が痛み、煮え湯を飲まされたような気持ちになったこともあった。▼だがふしぎなこともある。何十年も音沙汰なかった方が、晩年ひょっこり教会に戻って来られるケースがあるのだ。大賀ハスの種は二千年の眠りからさめて発芽し、今や日本各地で美しく咲いているが、すっかり忘れていた方の中に、救いの種がちゃんと生きていて、晩年息を吹き返すように目覚める。そして急速に霊性が回復し、あふれる喜びをもって召されていく、そのような例も複数回見て来た。▼やはり神の御選びになったたましいは、時が来るといのちに戻り、御国への用意をすっかり整えて天に出発するのであろう。そういう意味で、後の雨という恵みはたしかにあると思う。しかし誰がそれで、誰がそれでないか、神のみがご存じである以上、私たちには皆目わからないというのが本当だ。だから甘く考えてはいけない。自分は最後に恵みの雨をいただいて天に行ければいいから、途中は自由に、などと思うべきではないのである。「生涯を通じて神と人への愛に生きよ」が聖書の柱なのだから。