しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 Ⅰサムエル31章 <サウルの戦死>

2020-05-14 | Ⅰサムエル記

シャクヤク

「ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。」(Ⅰサムエル31:2新改訳) 

本章はサウル親子4人の戦死を記す。それにしてもイスラエル初代の王は、なぜかくも惨めな死をとげたのであろうか。▼後に編纂されたⅠ歴代誌は、その原因を以下のように解き明かしている。「このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪ゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(Ⅰ歴代誌10:13,14同)▼信仰者は神の御臨在を失えば、完全な敗北者にならざるをえない。ほかの何がそろっていても、またどんな人間的助けがあっても、すべては無駄である。そもそもサムエルがダビデに油を注いだ時点で、サウルは王位を退くべきであった。なぜなら神が彼を退けたからである。彼はそれに従わず、自分の王位を死守し、ダビデを殺そうとした。だから神に殺されたのである。◆人はこの世にあり、一度手にした地位、名誉、権力をなかなか手放さないものである。しかし「高く上げることは、東からでもなく西からでもなく 荒野からでもない。まことに神こそさばき主。ある者を低くし ある者を高く上げられる」(詩篇75:6,7同)とアサフが歌ったように、すべては神の御心から発している。古い自我と欲望がキリストと共に十字架につけられ、低くされることを心から喜ぶという敬虔に生きることがいかに大切だろう。旧約の光りに生きたサウルにそれを求めるのは無理であったとしても、新約の恩寵に生かされている私たちはそうであってはならない。◆というのは、突然終わりのラッパが鳴り響き、携挙の号令が世界に響いたとき、私たちは地上のあらゆること、あらゆるものを・・・それがどんなに大切で、絶対に手放したくないものであっても・・・そこに置いて空中にのぼらなければならないからである。そして「さあ、花婿だ。迎えに出なさい」(マタイ25:6同)との叫び声を聞き、「用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた」(25:10)との瞬間が来る。これは主イエスご自身がお語りになったメッセージであることを心にしっかり刻みつけて歩もう。

 

 


朝の露 Ⅰサムエル30章 <公平無私な審判>

2020-05-13 | Ⅰサムエル記

シラー

「ダビデは彼に言った。『おまえはだれのものか。どこから来たのか。』すると答えた。『私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。』」(Ⅰサムエル30:13新改訳)

ペリシテ人とイスラエル人の戦争が始まったとき、ダビデは奇蹟的に戦場から帰され、同胞を裏切らずに済んだ。ところが一難去ってまた一難、三日間かかって家族の待つツィクラグに戻ってみるとアマレク人が町を襲い、なにもかも奪い去られた後であった。家財だけでなく、妻や家族全員も連れ去られて一人も残っていなかったのである。「ダビデも、彼と一緒にいた兵たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった」(4)とあるから、そのショックの大きさが想像できよう。▼しかしいつまでも泣いていられない。アマレク人の部隊を求めて出かけなくては・・・。こうしてダビデは家族と全財産を奪ったアマレク人たちを追跡した。そして荒野に病気で置き去りにされたエジプト人の奴隷を見つけ、介抱し、その供述から敵の位置をつきとめ、とうとうすべてを取り返すことができたのである。アマレク人たちは、病気になった奴隷を捨てて行ったため、その無情なふるまいが自分たちの命取りになったわけである。▼ダビデはそういうことをしなかった。疲れ切って休まざるをえなかった二百人の部下たちにも分捕り物を公平に分配し、なお余った戦勝品を、かつてお世話になった町々に贈り物として配ったのである(23~31)。なんと豊かで誠実な行動であろう。愛なき行為も愛に満ちた行為も、かならず報いとなって返って来る(マタイ10:42)。主が再臨されたとき、ダビデにまさるお方はすべての人々に、公平無私な審判を下されるであろう。◆さてダビデはなぜ主のあわれみを受けることができたのか、その鍵は「ことあるごとに神のみむねを伺いながら行動した」という点にある。ダビデ軍団の600人は家族が連れ去られ、すべてを失ったときに我を忘れて怒り狂い、指導者ダビデを石で打ち殺そうと言い出したから、彼は大変な苦境に立たされた。無理もない状況といえよう。だが次に記されているのは、「しかし、ダビデは自分の神、主によって奮い立った」(6)のであり、どうしたら良いかを主にたずねたのだ。するとお答えは、「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」(8)であった。そして彼は奮い立った。戦場から三日間歩き続けて帰って来たダビデたちは休む間もなくアマレク人を荒野に出かけた。からだは疲労困憊していた。途中で200人は動けなくなったが、残りの400人はなお追撃し、アマレク人に襲いかかり、一昼夜戦って大勝利を得たのであった。すべては神からの力注ぎがあったから成し得たのである。◆私たちもどのようなときにも主に祈らなければならない。何も思い煩うことなく、あらゆる場合に感謝して祈り、願い事を知って頂くべきである。そうすれば人間の常識や理解を超えた神の平安がやって来て、すべての事がふしぎな勝利で終るであろう。

 

 


朝の露 Ⅰサムエル29章 <主のあわれみと守り>

2020-05-12 | Ⅰサムエル記

カーネーション

「ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。」(Ⅰサムエル29:11新改訳)

ダビデはペリシテ人の領主アキシュの家来として、戦場に進んで行った。やがて戦闘の火ぶたが切られると、心ならずもイスラエル人に襲いかからねばならない。その時が刻一刻と近づいてくる。彼の気持ちはどんなだったろう。たぶん苦しみにあえいでいたのでは?と想像する。▼しかし奇蹟が起きた、神はダビデの窮状にあわれみの御手を伸ばされたのである。つまり、ペリシテ人の領主たちは「ダビデが戦場で自分たちを裏切るかもしれない」と言ってアキシュに抗議し始め、その結果、ダビデとその部下はツィクラグに帰還させられたのだ。間一髪で危機を逃れたダビデは、心の中でどんなに感謝したであろう。彼が洞窟の中で歌った詩篇に、「私はいと高き方、神を呼び求めます。私のためにすべてを成し遂げてくださる神を。神は天から助けを送って私を救い私を踏みつける者どもを辱められます。神は恵みとまことを送ってくださいます」(詩篇57:2,3同)とあるが、それがこの時実現したのであった。▼私たちの主なる神は、あわれみを求めて切願する聖徒たちに答え、神を知らない人々の心さえ動かすことのできるお方なのだ。まして、今は大祭司キリストが御父の右にあり、キリスト者ひとりひとりのため、昼も夜も目をさましていてくださる。世の中に起きるさまざまな現象、悪い知らせにおびえている人よ、主イエスと御父のもとに来たれ!「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえ惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」(ローマ8:31,32同)

 


朝の露 Ⅰサムエル28章 <危機>

2020-05-11 | Ⅰサムエル記

蛾

「そのころ、ペリシテ人はイスラエルと戦おうとして、軍隊を招集した。アキシュはダビデに言った。『承知してもらいたい。あなたと、あなたの部下は、私と一緒に出陣することになっている。』」(Ⅰサムエル28:1新改訳)

ペリシテ人はサウルを倒そうと、軍隊を招集し、イスラエル北部のギルボア山一帯に展開したが、それを見たサウルも全イスラエルを招集し、ペリシテ人に向かって陣をしいた。ダビデが仕えている領主・アキシュも参戦することになった。▼かねてからダビデはペリシテ人の領主アキシュに従っていたが、それはサウルの手を逃れるためで、アキシュにうそをついて、さも忠実な家来のようにふるまっていたのであった。ところがここにたいへんな危機がおとずれたわけである。すなわちダビデはアキシュの部下として戦場に行くことになったのである。イスラエルの王として油注がれた彼が、憎むべき敵ペリシテの一翼を担い、同胞に弓を引かなければならない羽目に陥ったのだ。その苦衷はどんなに大きなものであったろうか。それまでの行動を隠すため、つじつまをあわせようとしてアキシュに「あなたのため、喜んでイスラエルと戦います」と、心にもない忠義の言葉を吐かなければならなかったダビデ。▼ここには記されていないが、彼は心中で必死に祈り、神に切願したであろう。神よ、私をこの窮地から救い出してください、と・・・。その一方、サウルも追いつめられていた。彼はダビデをイスラエルから国外に追い出し、これでわが地位をおびやかす者はいなくなったと、ホッとしたことであろう。ところが、それと同時に、主の御声がまったく聞こえなくなった。不思議にもダビデがいなくなると、神の臨在もかき消すようになくなり、ペリシテ陣営を見た時、恐怖に体がわなないたのであった。サムエルの言うことを聞かず、次期王として選ばれたダビデをねらい、神に逆らい続けて来たサウルがとうとう実を刈り取るときがきた。◆主よどうすればよいか教えてください、と祈ったが、主は夢によっても預言者によってもお答えにならず、あるのはただ沈黙・・・。とうとうサウルは悪霊に仕えている口寄せを訪ね、死んだサムエルを呼び出してくれと願った。そのあわれさに胸がいたむ。◆まことの神に捨てられ、見離されることほど惨めで悲惨なことはない。多くの人々が福音を相手にせず、肉欲のままに罪と放縦の人生を送る。幾度も機会が設けられたのに耳を貸さずに最後の死を迎えるのだ。その哀れさはたとえようがない。頼まれて病床に駆けつけたときはすでに遅く、酸素マスクが口にかぶせられ、下顎呼吸が始まっている。胸は風船のように波打ち、呼びかけても返事がない。どうやって福音を伝えたらいいのか。私はそのような場面に何度立ち会ったことか。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』という年月が近づく前に。太陽と光り、月と星が暗くなる前に、また雨の後に雨雲が戻ってくる前に。」(伝道者12:1,2同)


朝の露 Ⅰサムエル27章 <ペリシテ人の地へ>

2020-05-07 | Ⅰサムエル記

赤ばら

「ダビデがペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。」(Ⅰサムエル27:7新改訳) 

憎しみとねたみから生命をねらい続けるサウルは、表面的には悔い改めても、決してその手をゆるめなかった。そのしつこさ、執念深さは正気の沙汰ではなかった。ダビデにとっては来る日も来る日も死の危険と隣り合わせの生活が続き、心身ともに疲れ切った彼は敵国ペリシテに難を避けるに至った。だが、それを軽々しく批判することはできない。かつて預言者ガドはダビデがモアブに難を避けたとき、ユダの地に戻るよう神の名において忠告した(Ⅰサムエル22:5)が、この時のダビデにはそうする気持ちの余裕さえなくなっていたと思われるからだ。▼しかも敵はサウルだけではなかった、さ迷い歩く町や村、荒野にあって、それを密告する人々がおり、一日としてやすらぐ日はなかった。そんな中で作られた詩篇五四篇の表題には「ジフの人たちが来て、サウルに『ダビデは私たちのところに隠れているのではありませんか』と言ったときに(歌ったもの)」とある。そのなかには「見知らぬ者たちが 私に立ち向かい 横暴な者たちが 私のいのちを求めています」(詩篇54:3同)と記されている・・・。彼の身はユダの荒野をさ迷ったが、その心も四面楚歌とあるとおり、孤独の荒野に置かれたのであった。しかしその中で、やがてイスラエル王として立つときの備えがなされていった。神の訓練とはいかにふしぎで、人の理解を超えたものであるか、そのことを思わずにいられない。▼一人の人が真に救われ、聖霊に満たされて歩むとき、彼はサタンに憎まれ、攻撃され、地上には居場所がなくなる。たえず追い立てられ、決して安住の地は与えられないことを覚悟しなければならない。「この世は彼らにふさわしくありませんでした(世は彼らを置くに堪えず・文語)。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました」(ヘブル11:38同)とあるとおりで、主の御生涯がそれであった(→マタイ8:20)。◆イスラエルの敵、ペリシテ人の王アキシュのもとに逃げたダビデは、しかし、そこでも平和はなく、安全のために本心を偽った行動をとらなければならなかった。つまり自分がいかにもイスラエルを憎んでいるかのように見せかける必要があり、そのためにつらい気持ちでうそをつかなければならなくなったのであった。そして、次章ではイスラエルとペリシテの戦いが始まり、ダビデは絶体絶命の立場に追い込まれていく。