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鳥取池田家当主・池田侯爵により、皇太子時代の大正天皇の山陰行啓の宿泊所として建てられた白亜の洋館(明治40年築 1907)。
設計は片山東熊と云われますが、棟札(むなふだ 建築年月や工事関係者の名前が書かれた板で、棟木に打ちつけたもの)に彼の名前が無いらしく、彼の後輩で鳥取出身の橋本平蔵(実際の工事監督)に助言する程度だったのではないかと云う説もあります。 というのも東熊はこの時期、旧赤坂離宮にかかりきりで手が回らないはず、というのが根拠らしいのですが実際はどうだったのでしょう。 仁風閣(じんぷうかく)の名前は、皇太子に随行した海軍大将・東郷平八郎による命名で、階段を上がった2階ホールに今もその書が掲げられています。
お気付きかと思いますが、朝(9時過ぎ)と夕方(17時前)の2回訪問して写真を撮っています。 日中は正面からの撮影は逆光になってしまうからですが、結果的に表情の違う写真が撮れましたので掲載致します。 単純に建物が素晴らしかったから、というのもありますが。
最後にエピソードをひとつ。2階御座所の暖炉に装飾タイルが貼られているのですが、そこにある図柄は向かい合う男女の人物像。 向かって左に女性、右に男性。 つまり燃え上がる炎を間に挟んで、男女が見つめあう・・・というもの。 象徴的でなんとも悩ましく、ロマンチックな話ではないでしょうか(この辺りの話は「日本タイル博物誌」 INAX出版 91年 に綺麗なカラー写真と共に紹介されていますので是非ご覧になってみて下さい。 良書です。 管理人はこのエピソード、見落としました・・・)。 鳥取県鳥取市東町2-121 06年11月上旬
おはようございます。
昨日に引き続き、穏やかで暖かい朝を迎えています。
昨日、そんな天気に誘われデジカメ持って西部地区へ。esさんが喜びそうなクラシック建物があちこちにありました。
左右対称で屋根窓が印象的。
階段の曲線がゆったり感を出しています。
二度も行かれて撮影されただけに、時間差で出現する美しさにも惹かれます。
函館山麓の被写体も日中は逆光になるので、撮影時間を考慮する必要があります。
写真レイアウト、見事に決まってますね。
昨年の4月、松江市に行った時、お城の隣に「景雲閣」という洋風建物が。明治天皇の行幸施設として明治36年建築したものの、日露戦争開戦で行幸中止。
山陰地方には皇族をお泊めするだけの宿泊施設が当時はなかった?のでわざわざ建てた?と思いました。
余談ですが、東郷平八郎は明治2年5月の箱館湾海戦では薩摩藩軍艦・春日(1,015㌧)の3等士官として乗艦、五稜郭向けて艦砲射撃をしています。 ミカエル
前者が天皇の外出で、
後者が皇后・皇太子などの外出。
それにあわせて建物を建ててしまうのですから、
皇室をお迎えする、というのは今とは全く違う感覚で、
畏れ多いことだったのでしょうね。
仁風閣
実は正面向かって右手に尖塔があって、ここに螺旋階段があるんですよ。
繊細で優美で見るからに折れちゃいそうな。
なので立ち入り禁止になっています。
興雲閣、ですね。
鳥取に行く前に松江に寄りましたので見てきました。
実は松江に行くのは今回で3度目。好きな町のひとつなのです。
お城と洋館の取り合わせも面白く、ゆったりとした時間が流れているのが落ち着く理由かもしれません。
この時期の撮影は太陽が低いので、逆光になるとどうにもなりませんね。
ミカエルさんの写す函館の町並み、優しい感情が写し撮られていると思います。
古い建物の写真も、楽しみに待っていますね。
「景雲閣」でなく「興雲閣」だったのですね。
ミカエル旅行メモに移記するときに間違い、そのまま使っていました。ご教示、有難うございました。
私の写真は理論なしでシャッターを押しているだけ。
esさんの技術をお手本にさせて下さい。
松江市は人口のわりには大型ビルが多く、経済活動が活発のようで、山陰の首都?と感じました。
それと、文化施設が集約されている町でもありました。
ミカエル
これ、気になります(笑)。
凄い情報量がつまっている、宝箱のような。
写真の技術はなにも無いんですけどねぇ。
好きに撮るだけで、本当に上手な方には全く敵いません。
ミカエルさんも奥様の写真を撮られるときは、いつもと違うのでは?
やっぱり綺麗に撮りたいと思いますよね~。
メモは「旅日記」を作成する時の虎の巻。
旅の出来事がぎっしり詰まっています。
この日記は既に21号まで印刷・製本(自宅で手作り)して、ご無沙汰している知人に近況報告を兼ねて送っています。
1冊あたりA4判サイズで30数頁ほどです。
ミカエル
これを書く為にいろいろ調べて、歴史その他、各分野にお詳しくなられたのですね。
自分で調べた事は、しっかり身に付きますものねぇ。
お見事です。