新宿御苑旧洋館御休所

2009-08-31 00:00:00 |  東京都





 新宿御苑は江戸時代には信州高遠藩主・内藤家の下屋敷があった場所であり、明治5(1872)年に明治政府により周辺一帯と共に買収され、農業や植物研究を目的とする内藤新宿試験場となりました。 その後、明治12(1879)年には宮内省に移管され皇室庭園として整備が進みました。
 
 この建物は天皇や皇族が御苑内の温室で植物観賞する際の休憩所として、明治29(1896)年に宮内省内匠寮の設計により建てられたものです。 当初は今より半分くらいの大きさの建物でしたが、明治末から大正にかけて御休所の利用が増えると、明治42(1909)年、大正11(1922)年、同13(1924)年と3度の増築が行われ、ほぼ現在の姿に落ち着いたそうです。 特徴的な東側のボウウインドウの部分も大正11年の増築ですが、内外から見ても特に変な違和感も無く、他の増築部分同様うまく調和させているように思います。 派手な装飾も無いので広い苑内では見逃されがちですが、皇室のイメージと重なるノーブルさを感じさせる建物でした。  東京都新宿区内藤町11 新宿御苑内  08年02月上旬
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旧塩乃湯

2009-08-30 07:08:30 | きた東北 (青森・秋田・岩手)



 看板建築の旧銭湯(昭和期)。 1階部分はかなり改変されてしまっていますが、2階部分に残るドイツ壁や赤と緑の色ガラスといったものが往時の姿を伝えています。 秋田市周辺には黒川、八橋といった油田があり戦前には国内産油量の多くを占めていました。 かつての北前船の寄港地であり大規模な製油所が立ち並ぶ土崎は賑わう事になりましたが、太平洋戦争末期の米軍の空襲により数多くの死傷者を出す事にもなったそうです。  秋田県秋田市土崎港南  08年08月中旬

 ※現在は個人住宅として使われています。 見学の際はご配慮願います。
  写真が一部大きくなります。


 ※おまけ  塩乃湯の近くで見つけた個人邸。 詳細不明ですがギャンブレル屋根(マンサードとは違うみたい)と妻面の装飾が個性的です。
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名和昆虫研究所記念館

2009-08-29 07:24:09 | 愛知・岐阜





 名和靖(1857~1926)は岐阜県船木村(現・瑞穂市)に生まれ、幼い頃から昆虫に興味を持ち、採集や分類に留まらず害虫駆除や益虫保護といった応用昆虫学の普及に晩年まで取り組みました。 当初は岐阜市京町に開設された「名和昆虫研究所」でしたが、現在地に移転拡大し、その際に建てられた「特別昆虫標本室」が現在の記念館の建物になります(明治40年築 1907)。

 木造煉瓦建ての洋館は武田五一の設計によるもので、三十万にも及ぶ膨大な蒐集標本のうち約一万点を展示していたそうです。 大きな屋根窓や妻面のハーフティンバー風の仕上げが優美な雰囲気を醸し出しており、棟飾りに刻まれた蝶々の模様には思わずグッときてしまいました(笑)。 名和が再発見・命名したギフチョウを象ったものでしょうか・・・?  岐阜県岐阜市大宮町2-18  08年04月下旬


 ※おまけ  記念館の傍らにある昆虫碑は名和の還暦を祝って大正6(1917)年に建てられたもの。 こちらも武田五一の設計です。

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旧作谷沢郵便局

2009-08-28 07:12:53 | 南とうほく (宮城・山形・福島)




 大好きな旧郵便局巡り。 羽前山辺の駅前で旧羽陽銀行の建物を確認した後は、山間の集落・簗沢にあるという旧局舎を捜しに山道をひた走ります。 昭和15~18(1940~43)年頃に建てられたという建物は現在は個人邸の物置代わり(?)の様子。 淡く塗られた外壁に窓桟は緑色、赤い〒マークが3箇所にも入り可愛らしい出立ちで迎えてくれました。  山形県山辺町簗沢  09年08月中旬

 ※個人邸の敷地内にあります。 見学の際はご配慮願います。


 ※おまけ  こちらが旧羽陽銀行山辺支店。 昭和元(1926)年頃に建てられたRC造の建物です。 早朝の訪問でしたので現用途は不明でしたが、個人住宅か商業店舗(古い情報では醤油店)として利用されているようでした。  山辺町山辺

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武蔵野銀行 行田支店

2009-08-27 07:11:15 | 埼玉・千葉





 旧忍貯金銀行(昭和9年築 1934)。 タイル張りの外壁にメダリオンや植物模様の装飾が美しい建物。 思っていた以上に奥行のある建物でした。  埼玉県行田市行田4-5  08年03月中旬他


 ※おまけ すぐ近くで見つけた新町自治会集会所。 大正13(1924)年に建てられた有限責任忍町信用組合の店舗のようです。




 同じ並びにあった個人邸(詳細不明)。  



 その他の行田市内の建築。 T家住宅(旧T医院 明治30年築 1897)。 門柱はアール・デコ風、建物は板張りで玄関屋根の軒先にはバージボード。 樹木に視界を遮られた上に番犬にけたたましく吠えたてられ、じっくり観察する余裕もありません。。。  行田市長野  




 最後に旧荒井八郎商店の事務所兼住宅(昭和元年築 1926)、洋館(昭和10年築 1935)、大広間棟(昭和7年築 1932)。 大広間棟は最後の写真に瓦屋根がチョットだけ写っている平屋の建物。 現在は彩々亭という和牛懐石の料理店になっています。  行田市佐間1-11-22


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北河製品所工場

2009-08-26 07:09:18 |  静岡県




 明治27(1894)年に山梨で木材乾溜事業を開始し、同29年に現在地に移転し木精(メチルアルコール)、木炭木醋酸鉄等の製造からスタートしたのが北河製品所の始まり。 化学工場の建物は耐火性が必要とされた事から明治期に建てられた煉瓦造の建物が今も残り、大正期の事務所棟や昭和戦前に建てられたRC造の建物も現役施設として稼働しています。 現役の工場だけに中には入れず敷地の外から眺めるだけですが、それでもいくつか特徴的な建物を確認する事は出来ました。

 上に掲げた3(4)枚の写真は4号棟旧蒸留工場の建物で、明治末頃のものだそうです。 煉瓦の壁面を縦に大きな亀裂が入っていて今後の保存は微妙ですが、ワンポイントになっている妻面の丸窓や赤煉瓦に緑の蔦が這う様などは印象的です。 


 昭和12(1937)年頃にRC造で建てられた新館。 工場入口の左側にあります。



 新館と向き合っている事務所棟は大正5(1916)年の築。 



 塗料倉庫(旧醋酸繊維素塗料工場)は明治31(1898)年から明治末頃のもの。 手前は平屋で奥が2階建て(?)。



 旧金属塗料製造工場は明治末から大正期の建築。



 4号棟旧蒸留工場の北側にある平屋建ての11号倉庫は、昭和10(1935)年。


 工場の西を流れる大井川方面から見るとこんな感じ。


 静岡県島田市稲荷 08年07月中旬他
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成協信用組合岸和田支店

2009-08-24 19:17:44 |  大阪府






 旧四十三銀行岸和田支店。 資料により大正8(1919)年か9年築、RC造ともレンガ造りともなっていて判断に迷う建物です。 設計の佐伯建築事務所(佐伯與之吉)は辰野片岡建築事務所に入所して腕を磨き、独立後にこの作品を手掛けました。 赤と白のツートンカラーがその流れ(辰野式)を汲んでいる事を明らかにしているようにも思えます。  大阪府岸和田市魚屋町2-1  07年12月下旬他
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旧鶴身病院

2009-08-22 07:09:02 | 愛媛・香川






 そぼ降る雨の中、大正期の病院建築とご対面(大正元年築 1912)。 廃墟系のサイトではこの建物を見た事がありましたが、自分の目指す建物がこれだとは思いもしませんでした。 建物は寄棟屋根で下見板張り、正面側は上げ下げ窓で玄関上にはファンライトを備えた造り。 地方の医院建築として文化財に指定されてもおかしくない立派なものですが、荒らされてしまって風通しのよい無残な姿に成り下がってしまっています。 このまま放置されたら火でも付けられやしないかと心配になってきます・・・。    香川県高松市牟礼町  09年07月中旬

 ※管理されています。 無断立ち入りせぬようご注意ください。
  「鶴見」では無く、「鶴身」病院の誤りでした。
  お詫びさせて頂くとともに、記事内容を訂正致します(陳謝)。

 ※追記 『香川県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』によると、施主は九州帝国大学医学部の第一期卒業生であり、卒業後、釜山病院長として韓国に赴任し、帰国後にこの病院を建設。 当時の県内では珍しかったレントゲンを備えており、旧牟礼村内だけでなく村外からも多くの患者が集まったとの事です。 
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金子医院旧館

2009-08-21 07:09:12 | 南とうほく (宮城・山形・福島)





 駐車場の一角に建つ古い建物は、昭和13(1938)年竣工の金子医院(の旧館)と思われます。 正面部分の外壁や屋根は新しめの部材で補修されており、新館と駐車場が整備された時にも取り壊さなかったように思えるので、このまま保存する意向なのかも知れません。 2階部分まで伸びた煉瓦の煙突が北海道あたりの建物を連想させます。  山形県高畠町高畠  09年08月中旬
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大暮山分校

2009-08-20 07:03:05 | 南とうほく (宮城・山形・福島)







 解体間近の木造校舎は明治45(1912)年に建てられたものだそう(昭和25年増築)。 同じ朝日町には明治15(1882)年に建てられた旧西五百川小学校三中分校なんていうのも残されていますが、大暮山分校には奇跡は起こりませんでした。 誰かが置いたのでしょうか、玄関前には枯れかけた小さな花が一房、手向けられていました。  山形県朝日町  09年06月下旬


 ※参考 こちらが旧西五百川小学校三中分校。

 
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旧坂出港務所

2009-08-19 07:15:57 | 愛媛・香川





 坂出港は江戸時代より塩の積み出し港として栄え、近代的な商港として発展してきた歴史があります。 この建物は昭和9(1934)年に建てられ、港の発展とともに煩雑になる港湾業務に携わってきたと思われます。 いつ頃まで使われていたかは分かりませんが、平成10(1998)年に港務所の改築(新築移転)の記録があるので、その頃まで使用されていたものとも考えられます。 昭和初期らしい無骨な建物ですが、細部の装飾や展望塔の白色ドームがノスタルジックな雰囲気を高めていて美しささえも感じました。 このまま放置するには惜しいですし、フィルム・コミッション等で活用されたらいいと願ってしまいます(・・・と思ったら既にその用途で活用されてました)。  香川県坂出市築港町2  09年07月中旬

 ※追記 『香川県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書』によると、この建物は1階を大阪商船の乗降場として待合室や切符売り場に使用し、2階を港務所として港に関する行政事務の場としていたそうです。 3階は畳敷きの休憩室、塔屋は物見台あるいは風速計測室だったらしいとの事。 昭和31年に港務所が移転した後は坂出海上保安署として昭和46年まで使われていたそうです。
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旧耕野村郵便取扱所

2009-08-18 19:39:03 | 南とうほく (宮城・山形・福島)




 丸森町の山の方、耕野の集落に残る旧郵便局舎(昭和12年頃築 1937頃)。 道路からほんの少し高台になった場所に建つ洋風建築です。 比較的に旧状を留めているように思いますが、玄関扉だけはアルミ製の新しい物。 上げ下げ窓では無く横開きの窓が連なっていて洋風イメージは薄まっていますが、採光面では利便が良さそうな建物です。  宮城県丸森町耕野門ノ内  09年08月中旬


 ※おまけ 旧郵便取扱所のお隣というか裏手に見えているのは、昭和12(1937)年築の旧耕野村役場と思われます。 現在は個人邸(兼会社)として使われており、アプローチの坂道を登って撮影するのは遠慮しました。 平屋建てに見えますが2階建ての大きな建物です。
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原阿佐緒記念館

2009-08-09 15:48:05 | 南とうほく (宮城・山形・福島)




 恋に恋する女学生は、 いつか男の愛に生きる女になって激しい恋の歌を詠む―。

 二度の結婚(正式な結婚は一度のみ)に破れた阿佐緒の前に現れたのは、東北帝国大学教授であり、同じアララギ派歌人であった石原純。 前途を嘱望された物理学者であり妻子ある石原との恋の逃避行は、男尊女卑の時代においては世間の批判は阿佐緒一人に集中し、房州保田(現・千葉県鋸南町)での二人の蜜月も7年余で終わりを告げる。 以後、酒場や銀幕へと漂泊を続けた女流歌人の姿は歌壇から消え、いつしか社会からも完全に忘れ去られていく。


 歌人・原阿佐緒の生家を改装した記念館で、明治16(1883)年頃の建築。 原阿佐緒(1888~1965)は宮城県黒川郡宮庄村(現・大和町宮庄)の素封家(財産家)の一人娘として生まれる。 与謝野晶子に見出され、本格的に歌人としての道を歩み始めた阿佐緒は、後にアララギに入会し斎藤茂吉や島木赤彦らの指導を受ける。 美貌と才能をうたわれるも石原純(1881~1947)との恋愛問題からアララギを破門され、以後はバーのマネキンガール(マヌカン)や舞台・映画出演などと放浪。 しかしそれらは彼女の「悪名」を利用する為のものにすぎず、疲れて宮庄へと帰郷した阿佐緒は世間からは急速に忘れ去られ、長きに渡り不遇に置かれた。

 生きながら針に貫かれし蝶のごと 悶へつつなほ飛ばむとぞする

 児の手とりかたくりの花今日も摘む みちのくの山は春日かなしき 

 黒髪もこの両乳もうつし身の 人にはもはや触れざるならん 

 宮城県大和町宮庄八坊原19-2  08年04月中旬

 ※参考 『日本列島 西洋館の旅』  2000
     「原阿佐緒記念館」 パンフレット
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間宮家住宅

2009-08-06 21:46:07 | 北関東3県 (茨城・栃木・群馬)




 木造3階建ての洋風建築(明治35年築・1902)。 2階までの外壁は板張りで3階部分は漆喰仕上げ。 窓は全階上げ下げ窓になっており、特に2・3階部分は上部がアーチ状になっています。 某資料には旧馬頭銀行と記載されており、玄関扉やポーチを支える円柱などにそれらしい雰囲気も感じさせます。  茨城県常陸大宮市高部  09年08月上旬


 ※個人邸ですので見学の際はご配慮願います。
 ※追記 間宮家は林業を生業とし金融業も営み、東京に出て米相場もてがけて大きく当てたそうです。 この建物は1階が銀行、2階から上が住宅として使用され、電池式の電話を取り付けて1階と3階でやりとりしていた事もあったと伝わります。
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