ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

ブームはつくられる

2009-05-31 10:35:06 | まち歩き

  

土曜日、用事があり、明治神宮前ラフォーレ近くで地下鉄を降りた。まだ昼ごろだったが、人出がすごい。その多くがFOREVER21H&Mに向かう。約束の時間まで間があったので、両方に入った。H&Mは銀座店を入れて3回目だが、一番込んでいたように思った。もちろんオープニング時を除いてだから、FOREVER21効果なのだろう。隣接しているこの2店舗のシナジーとプラス ラフォーレで、原宿周辺の人出がここに集中している。

FOREVER21はさすがにまだ店内はイモ洗い状態。探せば21歳でなくても着られそうなアイテムはあるにはあるが、やっぱりH&Mやその他の競合と比べて安いけど、違和感がある。ちょうど21歳の頃、初めてまさにLAに行き、巨大なデパートかGMS(JCペニーかMacy'sだったような)で服を見た時の違和感と似ている。大量に陳列されている色とりどり、大味のデザインでテロテロの素材の服や服飾品。そっけない接客と縫製のよくないものが当たり前に紛れ込む店内。とても着られないと、その時は思った。

でもむしろ年齢的なギャップを感じるはずの今の方がそういう売り場を見ても平気になっている。それはそういう服や文化が、飛行機に乗らなくても東京の街中にあることに慣れたからだ。21歳の時には持っていなかったブランドのバッグやアクセサリーを今は持っているが、21歳の時には着なかったヤスモノの服も着ている。それは私だけでなく、アラフォーと一括りにされる女性たちは、使えるお金は少ないのに服にお金をかけていた時代を経ている人は多いと思う。

ちなみに用事があったのは、明治通りの渋谷方面。通りは一気に閑散として、あるファッション店の前では誰でも参加できる(買わなくても)抽選会をしていて、それでも人は少なかった。こんな一等地に大きな店を構えているのだから、この店にもブームはあったのだろう。ブームはつくることができるが、継続は難しい。

帰りに新宿で本屋に寄った。発売日に60万部以上が売れたという『1Q84』を持ち、レジに並ぶ人、人、人。今回のブームは完璧につくられた感があるが、この人のブームは今に始まったわけではない。私が最初に読んだのは『ノルウェイの森』だが、確か21歳くらいの時。活字離れといわれて久しいけれど、長年トップセールを維持する作家は彼以外にも何人かいる。『不毛地帯』が近々ドラマ化される山崎豊子さんもその一人。ブームというには失礼な感があるが、多くの人が質の高いものを好む傾向は確かにある。

ブームを仕掛ける側も、どこを狙うのか悩ましい。なぜなら私たちがFOREVER21の服を「着られるかも」と思うのと同様、リアルに21歳の人たちも山崎豊子原作のドラマをきっと観る。年齢でターゲットを計れないと言われて久しいけれど、まさにそんなことを実感する。


不要不急の重要度

2009-05-30 09:40:42 | まち歩き

新型インフルエンザ騒動は少し収まったようで、首都圏ではもともと少なかったマスク率が、今週初めくらいから急激に減った。関西よりはるかにマスク姿が少なかった背景には、発表された感染者数の少なさが大きいが、もう一つ感じたのは生活者主体の関西地域、良くも悪くも経済の街「東京」であること。マスクをしていた人も会社のルールや、職業上の必要性という人が多かったのではないかと思う。子どもたちのマスク姿の少なさに反して、いかにも健康そうな働く人たちにマスクをしている人が多かった。

マスク率が高まれば、なんとなく街の雰囲気が暗くなり、あまり外出したくない気分になる。首都圏では学校の休校がほとんどなく、急に人出が減ったということはないが、それでも報道がピークだった頃には、浅草などの観光地には人が少なかったように感じた。京都は発表された感染者数は東京と変わらなかったが、関西ということと、修学旅行客を抱えていることでもっと打撃が多かったようだ。

東京は無意識(かどうかはわからないが)に経済への打撃を防御する本能が、都市や人に作用するように思う。

「不要不急の外出は控える」と、こういうことがあるとよく言われる。でも不要不急がもたらす消費パワーは侮れない。私自身は毎日仕事に外に出て、必要であれば帰りに外で食事をしたりくらいは、日常と変わらずずっとやっていたし、直接接した人の中にマスク姿の人もいなかった。でも不要不急の行動は、別にインフル騒ぎは関係なくとも年齢と共に減っていく。休校中にカラオケに行っていた関西の学生が問題になったが、公共心や道徳心のありよう、結果責任という問題はあるが、気持ちはわかるし、その若いパワーもまた社会を引っ張る原動力の側面であることには違いないと思う。

一方で不要不急は大事でも、マンガの殿堂はどうなのか、と思う。そんなものを作った途端に、不要不急の文化は行政的には動員数や効果を問われる義務的なものとなり、生活者にとってもお堅く垢抜けないイメージのものになる。作家視点でみても、政府・行政に寄り添わない反骨精神や、オフィシャルには認められない社会や人間の陰の部分への理解がなければ、良い作家も育たないのではないだろうか。

もったいないとか、無駄遣い以前に意味を感じない。こういうものを真に不要不急というのかも。


電球が買えない都会

2009-05-14 23:24:29 | まち歩き

数日前に洗面所の電球がプチッと切れた。もう6年住んでいる自宅なので初めてではまったくないが、これは忘れた頃にやってくる悲劇。買い置きもなかった。自宅の選挙区は東京1区、つまり都市部だが、知っている限りいわゆる電機屋は徒歩10分圏内に1軒のみ。開いている時間に自宅周辺にはいない。いちばんベーシックな電球ならコンビニにも売っているのだが、名称は知らないが、大きく丸っこいタイプで、以前はローソンにも売っていたが、今はない。イオンやIYなんて洒落たものは最初から近所にはない。

電球1つ買うために一駅地下鉄に乗り、ビックカメラやヨドバシなどの家電量販店に行かなければならないのが都会の現実と思えば何だか面白い。コンビニ(24時間営業)も100円ショップ(22時まで)も、食品スーパー(23時まで)もドラッグストア(21時まで)も全部徒歩5分以内にあっても、電球は買えない。

そんなしょーもないことに不平やクレームを言うつもりはなく、でも一方で最寄の小売店って、意外とまだ可能性があるのではないかと思う。地方ではシャッター商店街ばかりと言われて久しいが、都市部でも一部の住宅密集地などは別に、シャッター通りと言わないまでも、うちの近所も大資本のチェーン店ばかりが増え、移り住んで6年で多くの個人経営店が姿を消した。辛うじて残っている昔ながらの店は、帰る頃には閉まっている。

例えばだけれど、近所の大規模マンションをマーケティング調査し、必要な消耗品やちょっと個性的な食品を抽出し、品揃えしたセレクトショップのようなコンビニ型の中小規模店、午後から夜の10時頃まで開店するような変な店があってもいい。近所の食品スーパーも価格帯、品揃えが画一的で、多くの近隣住民が夕方になると1駅先のデパ地下の紙袋やレジ袋を持って歩いている。

いくら農業が注目されたとしても都市部に畑ができても採算性が合わないように、小売店も経済効率は良くないのはわかる。でも品揃えを住民のニーズに合わせることはできる。現に特色のあるオシャレなパン屋や、ケーキショップ、老舗和菓子店は6年間変わらずある。


伝える情報の意味

2009-05-08 00:45:53 | まち歩き

もう昨日になるが、首都圏ではトップニュース扱いもあった朝の電車の大規模な混乱のちょっとだけ巻き込まれた。横浜のある駅に行くために、もっとも乗りたかったのは湘南新宿ライン。ところが新宿駅の電光板には定刻の運行表示がない。案内の人に聞くと、運休だと言う。理由がよくわからなかったので少し不満だったが、この線は結構乱れる。運が悪かったと山手線に乗り、品川から京急に乗り換える。しかし乗り換え口の様子がどうもおかしい。明らかにこちらも混乱している様子は体感できるが、声をかけた駅員は「動いているので、1番線でお待ちください」と言う。言葉通りの情報を受け取れば、「何の問題もない」ととれなくもない。ところが電車は来ない。もう一度別の駅員に聞くと「いつ電車が来るかはわからないし言えない」と言う。この回答では判断できないので、「12時くらいになるかもしれないということ?」と聞くと「いえ、そんなにはなりません」。そこで畳み掛けるように「11時にはなるかもしれないってこと?」と聞くと「そんなにはなりません」

定刻は10時23分。11時にもならないと断言できるということは、30分以内くらいには来るということ。そのまま品川駅で待つことにした。実際には15分も遅れずに電車は来ており、駅員が誘導尋問にひっかからなければもっと不安で悩ましいことになっただろう。首都圏では2つのパターンを逃しても、電車だけでもあと1、2種類は移動手段がある。仕事で動いている以上、方法があれば他の方法も考えたくなる。

公務員はもとよりインフラ系で働く人は、人間同士の応対や情報の伝達にも規則が最優先することが多い。彼は規則ではきっと言えなかった。10分くらいで来ると言って、30分来なければクレームになる可能性があるから。それでも11時にならないと言い切れるなら、「遅くても30分以内には来ると思う」と言った方が顧客サービスレベルは高い。

もっと深刻かつ難しい例でいえば、「新型インフルエンザ」情報に関する違和感がある。「感染の疑い」レベルを逐一公表し、マスコミ発表までする必要があるのかということ。これもルールとして国が決めたことで、自治体など関連団体が守っている。東京都は守らず独自で判断をしているとニュースになったが、批判の嵐にはならなかったのは、都の姿勢を評価する声なき声も多かったからではないか。疑いレベルで「アメリカから成田空港に帰国した◎◎県の40代の男性に・・・」という曖昧な報道に何か意味があるのか。数百万人の人口がいる自治体に1人疑わしい人がいて、しかもその人は既に隔離されている状況で、誰がどのように感染を予防したり検査を受けたりすればいいというのか。過剰反応をして、やたらめったら検査に来られても、検査機関がパンクして困るだろうに。仮に同じ飛行機に乗って帰った人への注意喚起であれば、せめて対象者が帰国した日時くらいは発表しなければ意味がない。

犯罪被害報道と同じで、報道対象の赤の他人にとってはその程度の情報でも、当事者やその周辺の人にとっては、おおよそその人が特定でき、疑いで終わったとしても、好奇の目にさらされる要因になる。伝える情報の選択は、伝えた相手にとっての意味とその対象となった人の生活への想像力があるべきと思うが、公の情報には人間の温かみを感じない。

本来は伝えることそのものが社会にとって必要でも価値あることでもなくて、伝えた情報がどんな効果をもたらすか、どういう行動を誘発するか、どんな社会をつくるのか、こうした伝えた後の現象のありようが問われるはず。にもかかわらず情報を伝えるプロであるマスコミ報道も、むやみに好奇心をかきたて、視聴率や部数をアップすることが目的とみてとれる方法や内容に終始しているように思う。