ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

凡人の苦悩

2008-10-31 02:44:39 | ニュース

日経新聞の一面の連載特集で、先進国では平凡なホワイトカラーは総体的に人件費・物価の安い新興国の労働力や産業機械等に代替され、先行き難しいというようなことが書かれていた。折りしも、日テレで「OLにっぽん」というドラマを放映しているが、その中の重要なエピソードに大手商社の総務部の仕事の大半が中国にアウトソーシングされるというものがある。現実にもそういうことは既にある。

私は会社員ではないけれど、たった10年足らず個人事務所をやっているだけでも、世の中の景色は様変わりして難しくなったと思う面も多い。しかし一方でICT(情報通信技術)やサービス業が今ほど発展していなければ、細々と仕事をこなし、さらにそこそこの自由な時間を謳歌することはできなかっただろう。グローバル社会の問題だけでなく、ドメスの社会も功罪織り交ぜ変化しているということだ。

人に関していえば、昔と価値観は意外と変わっていない。前述のドラマの中でも大企業に勤め、結婚退職するOLの姿が描かれているが、少子高齢化の中、結婚退職、専業主婦の道を公然と批判する人はあまりいない。確かに少なくとも私の母親くらいの世代の女性は、それでも平凡に暮らしていた。苦しい家計をやりくりし、自分で料理をし、子どもに我慢することを教え、自分を抑え生きていくことが普通だった。それでも幸せだと実感できたと思う。熟年離婚という言葉も聞かなかった。ところが今は専業主婦で、消費環境が豊かになった世の中の風潮にあわせながら、普通に暮らせる人は恵まれた人たち。平凡の質や中身が良い悪いは別にして変化している。

ホワイトカラー同様、主婦も生き難い世の中になるかもしれない。そもそも普通に生きている人にセーフティネットはない。それは当然のことだが、今までは行政のセーフティネットはなくとも、会社や地域社会にある程度守られてきた。そして働く人たちも今よりがんばっていたようにも思う。おしなべて豊かになったことで、普通の人がもっとこうなりたいと、もがくことがなくなったのではないか。野心を持たず、普通でいい、平凡が一番と、あまりに言い過ぎているような気がする。ドラマに出てくる中国人の女の子のように、貧しさをバネに這い上がろうとする気概は持ちにくいところまで、とにかく日本は来たのだけど、いつかまた逆戻りしないとも限らない。

ところで現時点では比較的元気な日本で普通に生きて働いている人にも交付金をくれるという政策が発表された。表向きの目的としてはみんながもらって適当に使わないと意味がないが、車を買って高速道路を走るほどの金額じゃないし…。しかも交付って、勝手に振り込んでくれたり、コンビニでくれたりするわけではなく、役所にもらいに行くのだろう。きっとむちゃくちゃ込んでいる役所にわざわざ行きたくないなあ。もらえるものはほしいし、要らないというほど、豊かではないが、1回限りの2万円弱を放棄しただけで将来破産するなら、もらってもきっと破産する。選挙対策で何かをすることは、政治家や政党である以上勝たないと意味がないのでしょうがないが、交付金についてはニンジンをぶら下げられているようで、立案した人の品性を疑う。


買い物の投資効果

2008-10-30 00:33:37 | テレビ番組

ある大学のマーケティングの先生が雑談の中で言っていた。普通に働いたり勉強したりしている一般の人が、普段の生活の中、そのときの気分で、例えば買うつもりのなかった洋服やマンガの本を買ったところで破産をしたり、その後の生活に大きな支障をきたすことはないと。つまりと、言い換えるほど複雑な話ではないが、衝動買いやちょっとした無駄遣いはなんら生活や人生に悪影響を与えないということだ。一方で、日本には「チリも積もれば山となる」とか「一円を笑う者は一円に泣く」とか、無駄遣いを戒め、節約を尊ぶ精神もある。どっちも間違いではない。

なんとなく世の中の空気や、マスコミの景況に関する論調で、気分が滅入る昨今では、後者が真っ当であるという気もするが、適当にお金を遣える人には遣ってもらわなければ消費は伸びないし、みんなが財布の紐を締めては少子高齢化の今、内需拡大など夢のまた夢という考え方もある。

しかしふと我に返って、生活者としての自分が最近何か大きな買い物をしたか、何か猛烈に欲しいものはあるかと問われれば、日常的な買い物や必需品を除いては、バスソルトとか、WOWOWに加入したとか、ネイルサロンに行ったとか、そんなレベルだし、我慢できないほど欲しいものも別にない。一生活者の立場では、買い物は義務ではない。モノが売れないことについて不況を言い訳にすることは簡単だけど、そこを解決しないと消費の活性化は難しい。実際に普通に働いている人たちの中で、ここ数ヶ月で急に逼迫している人はそんなにいない。今後影響があると漠然とした不安はあるだろうが、なるようになると思っている人も結構多いのではないか。

そんな中でもやや暴論ではあるが、今、食と住分野以外に、消費の「ニーズ」というもの自体存在しなくなっているような気がしてくる。かといって、一時期言われた「ウォンツ」でもない。もはや買うという行為には、投資効果を求めるか、あるいは徹底的に快楽を求めるか、どちらかではないかと思う。中途半端なものを売るのは難しい。前者で言えば、ダイエット(メタボ)関連商品や教育的投資(子どもにだけでなく、自身の習い事やボランティアも)など、後者はアキバ系消費みたいなもの。それらは今必要なものでも、厳密に言えばほしいものでもない。前者は自己あるいは子どもの未来への投資であり、後者は習慣化した快楽だ。後者はウォンツに近いが、昨日まで興味がなかった人が急にレアモノのフィギュアをほしがりはしない。関心と消費を積み重ね、習慣化させるという意味で、瞬時に感じる「ほしい」という感情のように簡単ではない。

知力や体力、健康や美に投資し、貯蓄することは、1円の節約より意味があるかもしれない。もちろん買って終わりのものは少なく、消費者側の努力や根気が必要なものがほとんどだが、供給側も投資効果の高い銘柄を提供しなければ買い手はひきつけられない。例えば教育の技術や環境がお粗末な英会話学校ではしょうがないということで、一人ひとりの顧客との末永いお付き合いが大事になる。快楽型の消費もそういう意味では同じで、すぐに飽きられるようではサブカルチャーは形成しない。


迷宮入りの過去

2008-10-28 03:23:53 | ニュース

ねんきん特別便の返信の半分近くがないらしい。そういえば私も返していない。理由は来た時(記録に間違いがない可能性が高い、最近の発送)には、返事しなきゃと思っていたのだが、どうも内容がわからない。私の経歴は履歴書のように正確に書かれているのだが、学生の頃、転職の合間の数ヶ月、国民年金に切り替わる。そこを払った記録になっているのか、あるいは義務はあるが払っていないことになっているのか、書面からはすぐには読み取れない。

そもそも自分自身、払ったか払っていないか、覚えていない。私は20代半ば以降は、すっかり落ち着いて会社を辞めて独立した時以外は、仕事を変えていないのだが、それまでの数年は若気の至りで、数回転職している。もっと若い頃は、数ヶ月仕事もせずに海外旅行に行っていたこともある。その「若気の至り」の頃、すべてキレイに年金を払っていたとは到底思えない。でも記憶を辿ると、一度役所に追いかけてこられて渋々払ったような気もするし、逃げ切ったような気もするし、ちょっと大人になってからさかのぼって払ったような気もするし、とにかくいくら考えても厚生年金期間以外は迷宮入りだ。

その上、届いた書面がわかりにくいのではお手上げ。返信しようにも、どう返信していいやら…。書面を素直にみれば、20代半ばの就職より前の国民年金加入期間は一切払っていないことになっているが、そんなはずはないと思う。全部払ったかと言われればそれはさっきも書いたように自信はないが、学生時代は親が払っていたような気がするし(いや、払っているふりして払っていなかったのかも?)、私自身も厚生年金以外、全部シラを切り通していたとはとても思えない。でも自分が証明できないのだから誰も証明は無理だ。

自分で言うのもなんだが、私は結構シンプルな経歴だと思う。出入りがあったのは、ほんの数年、うち学生時代を除いて厚生年金に入っていなかったのは全部足して、1年に満たない。にもかかわらず、こんな調子だから、さらに複雑な迷宮入りの過去を持った人は大勢いるだろう。

こんなことになるとは、若い頃は未来への想像力が少し足らなかったかもしれない。そもそも年金そのものに実感を持っていなかった。社会保険庁の職員ほどではないにしても。


サルトルの科白

2008-10-15 01:30:03 | アート・文化

先日の3連休の1日は久しぶりに舞台を観に劇場に出かけた。『キーン』という市村正親さんが主演の翻訳劇は、実在のイギリス人のシェークスピア俳優であるエドマンド・キーンを描いている。彼は18世紀末期から19世紀にかけて、ロンドン最高の役者と称され、一方で私生活は破綻し狂気の人であったともされている。日本でも何度か演じられているが、私は今回初めて観た演目で、事前知識も今書いたレベルで出かけた。実際に観ると、想像以上に格調高い(もっとコミカルだと思っていた)。その理由の一つは、シェークスピア作品の科白、エッセンスが所々に出てくること。そして、当時のロンドンの舞台俳優や、演劇という娯楽を取り巻く環境が垣間見えたということもある。日本の歴史同様、当時の役者の身分は低いのだが、他に娯楽のない時代、貴族たちの熱狂の対象でもあった。それゆえに俳優は自身の心や生活の均衡を保つのが難しい。

この翻案のもう一つの魅力は、作者がジャン=ポール・サルトルであるということ。実存主義の哲学者として有名だが、一方で作家、劇作家でもあった。彼の科白、特に終盤、主人公が自身の職業への苦悩、人生観を発する苦渋に満ちた科白は、哲学的でありながら、十分に市井の人びとの内面にも共通するものだったと思う。もちろん日本語なので、翻訳家・小田島恒志さん(シェークスピア翻訳の大御所・小田島雄志さんの息子)や市村さんの世界観も経て伝わっているわけだが…。

ところでいつも思うが、劇場の女性比率は相変わらず高い。NYやロンドンと比較しても明らかに。映画館はさまざまな工夫や、シネコンの増加で遅い時間までやっていることもあって、男性客が増えてきたが、演劇はまだまだ一般化させる工夫が足らないと思う。チケットもかなり前に入手しないといけないし(当日券もあるにはあるが)、平日の場合は開演も早い。何よりも男性がコンサート以外のライブを観に行く習慣がない。元首相の小泉さんがオペラ好きであることで有名だが、あれだけ話題になること自体、特殊だということだ(彼の場合は、特殊なのはそればかりではないが)。観劇だけが文化だとはもちろん言わないけれど、たまにはそういう時間を持つことも悪くないと思うのだが…。

新・サルトル講義―未完の思想、実存から倫理へ (平凡社新書) 新・サルトル講義―未完の思想、実存から倫理へ (平凡社新書)
価格:¥ 798(税込)
発売日:2002-05

その産地にこだわる?

2008-10-13 00:05:52 | まち歩き

今さらながらの話題で、しかもささやかな話なのだが、塩スィーツは今でも人気らしい。地方に行くと、どこの名産品スィーツも「塩」を売りにしている。北海道の塩キャラメルは規定路線として、沖縄では雪塩ちんすうこう。ただ、沖縄も塩の産地として塩専門店があるくらいなので、今の塩ブームは歓迎なのだろう。南北の塩ブーム追随は納得できるとして、ちょっと違和感があったのは、名古屋の塩ういろう。しかも表書きに沖縄産の塩であることが強調されている。商品名のショルダーに書かれている産地表示は沖縄だけだ。何も地元の名産品にご丁寧に沖縄のPRをしなくてもいいのに。名古屋は太っ腹だ。

塩分と言ってしまえば、どんな商品にも入っていてもおかしくないものだが、「塩」を強調するとブランド価値がぐっと上がる。砂糖にも和三盆、波照間産黒糖などのブランドはあるけれど、最近のメタボ防止の風潮や、甘味を控える傾向にある菓子製造のトレンドが逆風になり、盛り上がりにやや欠ける。反面、塩は日本産ブランドだけでなく、シチリア産、ゲランド産など、外国の製品もよく使用されている。背景に2000年代前半の塩の販売製造、輸入の完全自由化があると言われている。

以前にもこのブログで塩スィーツの話も、調味料の話も書いたことがあるが、まさに塩にしろ、砂糖にしろ、これまで単なる調味料であり、原料のほんの一部でしかなかったものがクローズアップされ、こだわりどころが細かくピンポイントになってきている。

一方でさまざまな形で食品の問題がクローズアップされている。こだわりどころと、こだわらないで、問題が大きくなっていること。ちょっとアンバランスな気もする。