ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

ファストファッション感覚

2009-04-29 20:57:00 | まち歩き

今日原宿にFOREVER21がオープンしたらしい。永遠に21歳、誰もが21歳に見られるファッションと言われると、逆にちょっと自分には関係ないか、と思うが、半年くらい前にオープンしたH&Mは銀座、原宿の両店で買い物をしたことがある。もっとも並ばなくてよくなってからだけど。

こういう安いショップが続々誕生する現象に、枕詞のように「不況の影響…」とメディアは言うけれど、ファッション、特に衣服がチープ化していることは何も不況の影響だけではないと思う。それ以上に女性のライフスタイルや社会の変化が大きいのではないか。

東京では就職を意識する大学の2、3年生くらいから、ファッションに色がなくなってくるとなんとなく感じる。都市部の学生は、工場で働く技術者や一部の制服が決められた公務員やサービス業ではなく、営業職も含めオフィスワーカーを目指すケースが多いが、ここ10~20年くらいで女性の制服を採用する企業は激減している。仕事柄大小かかわらず多くの会社に訪問するが、私が社会人になった頃は普通だったOLの制服が今は着ていると「珍しい」と思うようになった。

その半面、仕事で私服のスーツを着る女性も、男性の仕事服のカジュアル化とともに(あるいはそれより早く)減り、ほとんどが単品コーディネートになった。私自身も20代の頃はスーツを持っていたが、ここ10年くらいは買っていないし、ほとんど着ていない。本当は今の方がTPO的には着るべきシーンは数多いような気もするが、お会いする相手の地位がどんなに偉くても地味目のボトムスにジャケットというスタイルが多い。そのボトムスやインナーが時々GAPだったりH&Mだったりする。

つまり社会人女性の私服でいる時間が圧倒的に増え、しかもカジュアル化すると、衣服、特に着ているうちにダメになりやすい夏場のインナーや無彩色系で事足りるパンツは、単なる道具になり、またそこにお金をかけることも難しくなっている。ファッションが会社への行き帰りと休日だけでなく、毎日長時間のこととなればそれなりに数を持つ必要もあるからだ。別に私服の職場が制服の職場より給料が多いとは限らず、昔に比べて他にお金を遣うことも格段に増えている。だからジャケットだけは上質とか、バッグや小物は高級ブランド品という人でも、よく見るとコーディネートのどこかにファストファッション系ブランドが入っているケースが多い。

パンツスタイルの女性が増えていることも、その方向に拍車がかかる要因になっている。私も95%パンツだが、スカートに比べてデザイン面での選択肢は少ない。丈の長い、短いもせいぜい正寸か、七分、八分くらいのことだし、フォルムもだいたい好みによって決まってくる。派手派手しいプリントものも少ない。黒やグレーのパンツなら、よほど質の悪い素材のものを着ていない限り、パンツだけで6、7万円を超えるような高級品は別として、1万円弱のものも、2、3万のものもパッと見て区別はつきにくい。

若年層だけでなくこうして本来、服にお金を落とすべき層の多くがファストファッションをとり入れだすと、中途半端なブランドの中途半端な価格、レベルの商品はますます難しくなる。バッグや革製品で人気の海外の高級ブランドもこと女性向けの衣類に関しては日本では、以前からほとんど売れない。加えてSPAモデルが普通になりだした頃からアパレル業界の構造は様変わりしてしまったようだ。


地デジの普及率

2009-04-26 01:32:22 | テレビ番組

今年1月の時点で5割に届いていなかった地デジの普及率。にもかかわらず、春から地デジ対応に変わった新聞のテレビ欄。広告予算削減の折、テレビ番組がつまらなくなったという社会の声と、その現実に、しびれを切らした政府が打ち出したエコポイント。しかし今回のしょーもない騒動で、たくさんの販促品を全国でムダに捨てる事態に。一方で地デジ対応テレビのハードを買えばエコポイントか(厳密には意味が違うけど、結果そういうことにつながる)…という皮肉。挙句に頭に血が上り空気が読めなすぎる発言をした監督官庁のトップに対しては死神は言い過ぎだけど、疫病神とくらいは言えなくない。全国に大勢いるタレントのファンに加えて、日ごろから酒癖が悪くいろいろ身に覚えのある大人たちまで怒らせる結果になってしまった。SMAPからはもっとも遠かった酒飲みのオジサン層にまですっかり親しみを持たれてしまった彼だけは、本当の意味で国民的アイドルになったかも。

まるで地デジ反対派に仕組まれたかのような負のスパイラルだが、このまま決定的な打開策もなく2011年を迎えるのも、多少なりともメディアにかかわっている以上不安もないわけではない。例えば携帯電話やビデオ、もっと言えば最初にテレビ受信機が登場してきた時のようにゼロから普及率をあげていくのと、既に同等の機能を持ったものが限りなく100に近い普及率を遂げている中で、それをひっくり返していくのでは明らかに後者が難しいと思うが、その読みが甘かったのかもしれない。

うちには2台テレビがあり、小さい方の1台はアナログのままだ。1台を比較的早く変えたのも、住んでいるマンションの構造上、テレビを買い替え、カードを差し込むだけで観られる手軽さからで、もしそれがなければいまだにアナログだったかもしれない。

普段忙しく働いている人は、普通はそんなにテレビを観ることはないだろう。1世帯あたりの人数が減っている上に、1人1台の時代。テレビ好きのお年寄りのためにデジタルにしましょうとか、家族で観るからテレビくらいは買い替えましょうとか、そんな世の中ではない。うちのように家の中のすべてがデジタル対応に切り替わっていないという家庭もあるだろう。政府は生活者のライフスタイルやニーズを見誤ったというか、最初から見ていなかったというか…。せめてテレビ局やメディアにかかわる人たちは、単に広告をどんどん打つということだけでなく、観たいプログラムをつくることで生活者の気持ちを引き付けないと本当にテレビは危ない。

テレビがダメ、新聞、雑誌、本も売れない、インターネットの情報は種々雑多で情報の受け取り手からお金をとりにくい…。それではICT化や情報化社会といっても、実態や中身が希薄すぎる。この際だから、下手に地デジの延期などという小細工をせずに、すっきりテレビの普及率を6~70%くらいに落としたところから、次代のメディアや情報流通のあり方を考えたら良いかもしれない。案外、スポンサーではなく情報の受け手がお金を払ってでもほしいと思う情報が真っ当に流通する形に変化するかもしれない。実際に今でも有料放送を受信したり、本や雑誌、新聞をお金を払って買うという行為自体がなくなったわけではない。出版不況とはいえ、本や雑誌はどんどん出ているし、有料放送契約者は増えているようだ。

情報の質は、世論の質に直結する。さらには社会の質にも影響する。以前は裕福でなくても、親は子どもに本を買って読ませたし、1紙くらいは新聞をとっていた。その頃からテレビもゲームもあたりまえにあった。ただインターネットやケータイがなかっただけで、一人ひとりが受け入れる情報量は多様で、奥行きもあったような気がする。今はネットがなくてはもはや生きにくいが、ネットだけでも生きられない。結局情報リテラシーとはネット社会への対応力ではなく、個人が情報媒体やその中身を取捨選択し、自らも考える力をつけていく能力だと思う。テレビも取捨選択の対象で、人に必要な最低限のインフラではなくなっているなら、地デジ前のテレビの普及率を超えることはない。