自分がもうすぐ死ぬことを知っていたイエスは、
夕食の時に、弟子たちの足を洗い給うた。
しかも、その中には、イエスを裏切るイスカリオテのユダもいた。
どこの誰が、自分の弟子の足を洗うことができようか?
どこの誰が、自分を裏切る者、すなわち、自分を殺す者の足を、
身を低くして洗うことができよう?
単なる人間には、決してできない。
少なくとも、私には、決してできない。
他人の足を洗うなどという、屈辱的な行為など、決してできない。
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私の最も近しい友人に、一人のキリスト者がいる。
どのぐらい近しいとかというと、彼の内奥の秘密を、
私だけがすべて知っているぐらい、近しい友人である。
今日は、彼の人となりを通して、信仰の秘儀に迫りたいと思う。
第一に、私が不思議に思うのは、彼とキリスト者という名称が、
どうにもこうにも一致しないことである。
キリスト者といえば、信仰を持つ人のことだろう。
信仰といえば、神とかキリス . . . 本文を読む
エゼキエル書37章とヨハネ伝11章の読解。
主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、
谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。
主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。
なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
(エゼキエル書37-1・2)
日本は行き詰っているという。なぜか?
この国は富を増やしても、国民の心を満たすことができなかった . . . 本文を読む
絶えず祈りなさい。(テサロニケ書Ⅰ5-17)
祈りとは、真言宗のような念の一種にあらず。
自分の信念や願望を、極度に集中化する行為にあらず。
祈りとは、神(キリスト)と繋がることである。
キリスト者とはキリストに繋がるべき者であれば、
祈りなくして、キリスト者は福音にふさわしく生きることができない。
私が祈らずして、自分自身だけの力によって、
人のために労せんとする時、私の愛念 . . . 本文を読む
私は天国を知らず、天国がどんな所かも知らず、
また天国に入る条件も知らぬ。
スウェーデンボルグのように天使の声を聞けず、
江原のように守護霊の声を聞けず、
しかも釈迦のように宗教的悟りも得たことのない私にとって、
天国を具体的に知ることはできない。
果たして、天国とは何ぞや?
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「聖書は無神論を伝える」と言えば、ビックリされるかもしれない。
しかし聖書は、明らかに無神論を伝える。
いや、聖書こそが、徹底した無神論の書である。
有神論か無神論かを考える時、何をもって神と称するかが問題となる。
アラーを神と称するイスラム教徒にとって、キリスト教徒は無神論である。
なぜならば、イスラム教徒の神を信じていないのだから。
カトリックの立場よりすれば、ルターとプロテスタ . . . 本文を読む
信じるものは救われる、という。
本当だろうか?
信じるだけで救われるのならば、何の苦労もありゃしない。
神やキリストを心に描き、まるで本当の父や友のように信頼して、
本当に人間は救われるのだろうか?
神やキリストを信じて救われるぐらいならば、
とうの昔に人類は救われてる筈である。
何故ゆえ、人類は未だに救われぬ状態にあるのか?
人類があまりにも頑迷だからか? . . . 本文を読む
誰の弟子となるかによって、その人の人生が決定付けられる。
孔子の弟子とならんか?
彼は礼儀作法に厳格である筈である。
(今の中国人が儒教の国だったとは信じ難い)
釈迦の弟子とならんか?
彼は内省を心がけ、哲学的な真理考究に邁進する筈である。
(今の二世僧侶が仏陀の弟子だとは信じ難い)
老子の弟子とならんか?
彼は融通無碍の真理を会得するために、隠遁的な生活を送っている筈である。
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彼らは天に上り、深みに下り、
その魂はみじめにも、溶け去った。
彼らは酔った人のようによろめき、
ふらついて分別が乱れた。(詩篇107-26・27)
イエス・キリストを知る以前の私は、
ずいぶんとみじめなものだった。
何が本当のことであるか一向にわからず、
心の空虚を満たさんために、
あるいは遊興に耽り、あるいは偏執的に仕事に没頭し、
あるいは束の間の恋愛に身を捧げ、
あるいは日本 . . . 本文を読む
私は人間が嫌いだ。
嫌いで、嫌いで、しょうがない。
考えることといえば自分ばかり、本質を見極めることができないバカで、
他人の恩を忘れ易く、外見ばかりを飾り、束の間の快楽に満足し易く、
同じ間違いを二度も三度も犯し、かかる無能者であるくせに、
やたら反抗心だけは旺盛な人間。
どうしても、人間が好きになれない。
かといって、人間に無関心かというと、そうではない。
13年間一緒にいる . . . 本文を読む