アブソリュート・エゴ・レビュー

書籍、映画、音楽、その他もろもろの極私的レビュー。未見の人の参考になればいいなあ。

無知

2011-12-10 22:07:37 | 
『無知』 ミラン・クンデラ   ☆☆★

 再読。これが今のところ、クンデラが発表した最新の長編小説ということになる。

 タイトルは「無知」だが、これはつまるところ郷愁、ノスタルジアについての小説である。最近ではノスタルジーというとセンチメンタリズムと同類の、後ろ向きで自己満足的な情緒みたいな意味で使われることが多いが、もともとはある場所に戻れないために苦しい、という苦悩の感情のことである。ある国の言葉では「あなたに郷愁を感じる」というのは、あらゆる愛情の中でも最高位の感情を表す言葉らしい。つまり、あなたと一緒であるあの状態に戻りたい、しかし戻れないことが私を苦しめる。

 これがなぜ「無知」かというと、ノスタルジアの苦しみとは煎じ詰めれば無知の苦しみだから、というのがクンデラの考えだ。つまり自分がそこにいないために、自分はそこで何が起きているか知らない。自分があなたと一緒にいられないために、私はあなたが何をしているか、どういう状態であるか知らない。その「無知」が苦しい。これがノスタルジアの本質だというのである。そしてもちろん、無知は人間の基本的な状態でもある。

 クンデラはチェコからフランスに亡命した作家である。しかしビロード革命によって共産主義が倒れ、かつてチェコから脱出した人々、祖国を捨てて亡命を余儀なくされたクンデラ自身のような人々がようやく祖国へ帰れるようになった時、一体何が起きるのか。この本で描かれるのはそういうことだ。人々はそれを「大いなる帰還」と呼び、何か偉大なこと、感動的なことだと考える。だから主人公である亡命者イレナのフランス人の友人は、なぜイレナがすぐさまチェコに飛んで帰らないのか分からない。「でも、今では私の生活はここに、フランスにあるのよ!」というイレナの言葉に、彼女は聞く耳を持たない。なぜならそれは「大いなる帰還」であり、他のすべてがその前では卑小化されてしまうからだ。

 イレナはチェコに戻る。そしてかつての友人たちと会う。そして旧友たちが、自分の亡命先の生活に関心を示さず、まるでそれがなかったものであるかのように無視すること、要するにそれを認めないことにショックを受ける。「大いなる帰還」のコンテキストの中では戻るべき場所が最高位にあり、途中経過である旅先はその下位にある。彼らに受け入れてもらうには、イレナは自分の欠かせない人生の一部である亡命先での生活を唾棄し、踏みにじり、捨て去ってみせなければならない。それが「大いなる帰還」のための儀式なのだ。しかしイレナにそれはできない。こうしてイレナともう一人の亡命者ヨゼフは、祖国への帰還が自分にとっての最終的な祖国の喪失をもたらすということに気づく。

 クンデラのアイロニーは相変わらず冴えているし、オデュッセイアをからめて展開される「帰還」「ノスタルジア」に関する考察も面白い。さすがである。ところが残念なことに、物語が驚くほど弱い。考察は見事なのだが、それにつりあうだけのストーリーが存在しない。イレナとヨゼフの出会いが物語の核となっているが、これも他のエピソードも、あまりに弱々しく印象が薄い。私は今回再読であるにもかかわらず、どんな話だったかさっぱり覚えていなかった。もともとクンデラの小説はクンデラの小説的思考を検証する実験場なのだが、『冗談』『存在の耐えられない軽さ』『不滅』のような作品では登場人物も物語もしっかり肉付けされていた。スリリングにクンデラの考察を具体化していたのである。ところが本書では、イレナもヨゼフも他の人々も、作り物めいた紙人形でしかない。クンデラが小手先で操作しているのがみえみえだ。したがってエピソードにもリアリティが感じられず、小説としての力がない。本書はむしろ、エッセーとして発表されるべきだったのかも知れない。

 本書は最新作であると同時に、これまでクンデラが発表した作品の中でもっとも弱い作品でもある。クンデラ・ファンの私としては残念でならない。せめてもう一度、『不滅』クラスの傑作を書いて欲しいのだが。


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