二十歳を過ぎたころ

小さなことに一喜一憂する二十歳を過ぎた学生の軌跡。
→いつの間にか社会人4年目。二十歳を過ぎたころからのブログです

壁の花

2007年09月30日 02時14分28秒 | 日記
今日(29日土曜)は、無意識に生きた一日だった。
頭のどこかが起きていない気がずっとしていた。
何と言うか、ふわふわした気分。

それでもよく歩いた。珍しく。
栄に行き、献血して、腕時計を物色して、大学で論文読んで、
土日エコ切符がもったいないけど大学から下宿まで歩いて。
天気は霧雨だった。これも珍しいことだった。


些細なきっかけで感情が浮き沈みする自分がいる。
昔はこんなにゆらいではいなかったのにと思うと、悔しい。
柔軟性を失いつつある自分が、歯がゆい。


初めてLACHICに入った。
人の「気」が渦巻いている気がして、少し酔った。
心の空白を物で埋めることをしてこなかった自分は、購買欲が沸かない。
そのお金があれば、とか、大量消費社会がどうのこうの、とか、考えてしまう。

5階にある本屋で、就活関連の本を立ち読みする。
こういう本を読むと、いつも自信をなくす。
自分には、他人を押しのけてでもやりたいことがなく、
これが天職だと思えるような職種も見当たらず(探す努力が足りないのだが)、
仕事をお金を得るため(だけ)の行為と捉えてしまいがちだ。
仕事によって人は成長する、という話はよく聞くけれど、よく分からない。
いや、そういうこともあるのだろうけど、自分には無関係に思えてしまう。

何か強力な、動機がほしい。
……皮肉にも自分の研究テーマは重合触媒の設計なのだけれど。


壁の花、というのは、立ち読みした本の中の一つの問いの中にあった。
自分はどういうところで社交的になるのか、対人関係の傾向を見る問いだった。
文面は違うかもしれないが、主旨は以下のような問いだった。

  「あなたは、例えばパーティーなどの集まりの場では、
  “壁の花”になりがちですか?」

もちろん答えはYESなのだけれど、壁の花という表現が新鮮だった。
……と思ったら。
Googleで「壁の花」を検索
せいぜい「あまり社交的でないが気品と淑やかさを持つ」ぐらいの意味だと思っていたが、
肯定的な意味合いは全然ないみたいだ。
ああ、語彙がないのが恥ずかしい。
とても恥ずかしい。


(中略)


いや、もう、暗い思考はやめて寝よう。
秋の夜長、どうぞ冷気に惑いませんようお気をつけを。

朽ちた木を背もたれにして

2007年09月23日 03時26分47秒 | 日記
それなりに人目を気にして書く日記と、気にせずに書く日記がある。
気にせずに書く日記が自分の中の本当の自分に近いものを示しているなら、
自分は「後ろ向き」という看板のかかった、
朽ちた木でできたよれよれの電信柱の影のようなもの。

出勤日にも拘らず、一日中寝ていた今日は、屑だった。
緊張感のない人間になりつつある。最低。
無関心でいられない優しい先生と先輩に、
落胆の気持ちを抱かせることが申し訳ない。
いっそ無関心でいてくれた方が楽ですよ、と言いたい。
でも無関心でいてほしくないに決まっている。
混ざらないアンビバレンスを右手と左手に抱え、肩を落とす土曜日。

今のM2やM1の先輩方のような「仲良しさ」は、4年にはない。
個人的には、なきゃなしでいい。
しかし、牽引役も必要。
来年、再来年の研究室はどうなるのだろう。
自分のことだけ考えていたいと思う自分は、
無責任なのか、甘ちゃんなのか、不適格者なのか。

自分は喋らない方だ。
飲み会の席でも、にこにこと相槌を打つだけの、存在感の薄い存在。
面白いことを言う訳でもなく、お酒が強い方でもない。
飲み会は、自分さえいなければ、好きなのに。

自分は、物事への関心が薄い人間なのだと、最近よく思う。
「物事」には、当然、自分も、他人も含まれる。
既存の環境に満足しているのだろう。
新しい環境へ入っていく勇気も、新しい環境への興味も、ない。
既存の環境が崩れたとき、自分はこの2本の足で立っていられるだろうか?
冷酷なまでの客観的視点は、立っていられる可能性が高いことを示す。
それに安堵する。安堵するところで、思考は止まる。


ただ、ときには、立つことがつらくなることもあるだろう。
座りたくなるときも来るだろう。
そのとき、背もたれになってくれる人が、
そのとき、肩をたたいてくれる環境が、
そのとき、叱咤激励してくれる何かが、
そのときの自分にあるだろうか?
また、自分は誰かのための背もたれになることができるだろうか?
きっと、ないだろうし、できないだろう。今のままでは。
このままでいいのかどうか。自問は続く。

せめて自分に向けられる関心と同じだけ、
自分も周りのことに関心を抱けたらいいのに。
抱けるように努力すべき?抱けないのは、仕方ない?薄情?罪?屑?
自問はなおも続く。
一人でいることの気楽さと、帰属感に由来する安心感と。
やはりアンビバレンスな感情は混ざらない。
どちらかが重くなっても、肩が痛くなっても、持たなければならない、我が心。
ああ、厄介。

朽ちた木でできたよれよれの電信柱は、実家の近くに何本かあった気がする。
むしろ電線に支えられて立っているようにも見えた気がする。
きっとその電信柱を背もたれにして、ねえ、と話しかけても、
何も答えてはくれないに違いない。
あるいは、答えてくれたとしても、その答えの重要性に気づかないだろう。
しかし、せめて。
次に朽ちた木でできたよれよれの電信柱に自分の背を預けるときは、
もう少し、たくましくなっていたい。
誰かの、何かの、背もたれになれるように。
なっても許されるように。

over drive

2007年09月21日 13時41分14秒 | 日記
秋の学会である。
閑散としている。
自分で自分を律することができるほど、自分は強くない。
独りで鳴く蝉の鳴き声ほどの罪悪感とかみしめつつ、流れるように生きる。
残暑もまた心地よい。

怒ってくれる人に感謝しなければならない。
然るべきときに然るべき場所で然るべき言葉を用いて叱咤できる人に、
いつかならなければならない。なれなければならない。
などと、1つ上の先輩方とお話をする。
ついつい楽をしてしまいがちな自分にとって、本当にありがたい存在。
これではいかんな、と思わせてくれる機会があることに感謝したい。
ありがとうございます。

夜は夜で友達の手料理を食べる。美味。
そう、愛ですよ、愛。
レトルトに愛がないと言うとレトルトを作っている人に失礼だけど、
鍋に入った、少しこげた跡のあるカレーに勝るものはないね。
おいしかった。ごちそうさまでした。

自分の生(き)を出せる人は、それほど多くない。
けれども、数少ないながらも、いい人に出会えたと思う。
他の人と比較すれば自分は寂しい人なのかもしれないけれど、
おかげさまで、十分満たされている気分が確かにある。
こんな自分なんて、と思い込む必要もなく、
気負うこともなく接することができる心地よさ。
いいねえ。いいものです。

残暑は厳しく、陽射しが目を細める度に、夏の記憶を思い出す。
部活の大会があり、院試があり。
悪くない夏だったと思えるのがありがたい。
感謝感謝。

夏の終わりにご紹介するこの曲は「そばかす」と並ぶ名曲。
雲の影を越えて駆け抜けた夏の終わりに。


over drive  JUDY AND MARY

もっと遊んで 指を鳴らして 呼んでいる声がするわ
本当もウソも 興味がないのヨ
指先から すり抜けてく 欲張りな笑い声も
ごちゃまぜにした スープに溶かすから

夜に堕ちたら ここにおいで
教えてあげる 最高のメロディ

あなたはいつも ないてるように笑ってた
迷いの中で 傷つきやすくて
地図を開いて いたずらにペンでなぞる
心の羽根は うまく回るでしょ?

音に合わせて 靴を鳴らして
あたしだけの 秘密の場所

走る雲の影を 飛び越えるわ
夏のにおい 追いかけて
あぁ 夢は いつまでも 覚めない
歌う 風のように…

夜に堕ちたら 夢においで…
宝物を 見つけられるよ…
信じてるの…

愛しい日々も 恋も 優しい歌も
泡のように 消えてくけど
あぁ 今は 痛みと ひきかえに
歌う 風のように…

走る雲の影を 飛び越えるわ
夏の日差し 追いかけて 
あぁ 夢は いつまでも 覚めない
歌う 風のように…

○ over drive PV(youtube)

「人として」という思考の危うさ

2007年09月15日 23時38分49秒 | 日記
前の記事の「人として」というタイトルは、
辞任会見で一言も「申し訳なかった」という言葉を、謝罪の言葉を発しなかった、
安倍首相への不満が表れたものだ。
国の顔として、自民党総裁として、などという肩書きはともかくとして、
このドタバタ劇を演じてしまった責任は私にある、
迷惑をかけてしまって申し訳ない、と、何故言わないのか。
言えないのだとしたら、それほど追い込まれていたのだろうと思うしかない。
言わないのだとしたら、それほど心はお子様なのだろうと思うしかない。
分からない。分からないからこそ、人として、という言葉が浮かんだに違いない。


ただ、「人として」と言えるほど、自分は一般的で平均的な人間ではないし、
そういう考えを持っているわけでもない。
むしろ冷酷なまでの客観性と、呆れるほどの優柔不断さを兼ね備えており、
一般的・平均的からは程遠い。
そう、程遠いのだ。思い上がってはいけない。
が、しかし。がしかしBUT。
それほど頭を働かせていない状態で「人として」という言葉がつい出てしまう。
これは危険ではないか。
いや、歳を重ねれば誰もが頑固になるということなのか。
それに抗う術はないのか。
流されればいいだけの話。気兼ねなく「人として」と言えば楽になれる。
だがそこに疑問と危うさを抱ける間は、抱いておきたいと思う。



 育った環境に今の自分の原因を見出したとしても、何もならない。
 ただ、苦しさが残るだけ。

数少ない友人の一人は、そう言った。
今もなおこの言葉は胸に強く残る。
dumvo-hという人間をどこまでも非常に客観的に分析したとしても、
その分析の結果原因が分かったとしても、
どうすることもできない。終わってしまったことなのだから。
もちろん恨むことなどできやしない。したくもない。
今ある自分を形作ってくれたのは、あの環境があってこそなのだから。
感謝している。感謝しているよ。
……恨むほどに。(笑)


週末だというのにどうにもネガティブなのは残念だけれど、
先刻感動する記事を読んだおかげだろう、気分は悪くない。
心の鏡の中には泣き笑いの表情をしている自分がいる。
まあ、無表情よりよっぽどいい。そう思おう。

人として

2007年09月13日 17時27分31秒 | 日記
研究室の自分の席で寝ている度が過ぎたからか、新しい実験を課せられる。
カラムなどはてんやわんやで、失敗も多くあるが、面白かった。
よい先輩と先生に恵まれた。本当にそう思う。

安倍首相の退陣のニュースを眺めながら、ぼんやり考えた。
「人」として大切にするものは何なのだろう。
安倍首相も自分も、生物学の分類上は同じ「ヒト」であり、
DNAの塩基配列のほとんどは一緒である。
身を置き換えて考えるのは大変おこがましいことではあるが、
もし自分があの立場だったらと考えると、
心の奥深いところ、本能に近い部分で、同情心のようなものが生まれる、気がする。

この「本能に近い部分で芽生える同情心」のようなものが、
自分も含め、やや欠けているのではないかと思う。
「少し他人を思いやる余裕」と言い換えてもいいかもしれない。

結局のところ、皆は皆自分勝手で、己のことしか考えていないのではないか。
利益を度外視して、我が身を捨てる覚悟で、何かに献身的になり、
誰かのための盲目的な味方になる。
そんな姿勢が、姿勢の欠片が、もう少し皆にあれば。
もう少し生きやすくなるのではないか、という気がする。

大方は悲観的であっても前向きな気持ちにさせてくれるほどに、
研究室の雰囲気は心地よく、会話があたたかい。
そのあたたかさが沁みるのは手の肌荒れだけではないと思い、
だけではないと思える人になりたいと思いながら、
研究室のパソコンから書き留める晩夏。

名もなき毒

2007年09月09日 01時44分37秒 | 日記
機械的に書き留めることはそれだけで後々になって価値が出る、と思い、
淡々と、極力淡々と、手を動かす。

金曜は珍しく、平日だというのにお休みを頂くことができた。
短い夏休みだけど満喫してこい、ということなのだと思う。
満喫とまでは行かずとも、それなりに、やるべきことを済ませつつある。
日曜のイベントは、午前の集まりと、夜のバイトの飲み会。
社会復帰できないかもしれないという不安が、かすかに残る。

読みたかった本を1冊読み終える。
『名もなき毒』(宮部みゆき)。
どこかで見たような設定だと思ったら、同著者の前作『誰か』の続編だった。
続編と知らなくても読めるようにはなっているが。
カスタマーレビューには、『火車』『理由』などの作風を期待する人々からは、
いいんだけどどこか物足りないというコメントが多く寄せられていた。
個人的には、『名もなき毒』も『火車』も、同程度に好きだけれど。
一読の価値はあります。
機会があれば、ぜひ。
自らが持つ毒とはどんなものなのだろうと自身に問いかけるきっかけを
与えるという点だけでも、十分に評価されてよいと思う。



ンマー、あれですね、けっこう危険ですね。警戒水域ですね。
台風のせいにしてしまいましょう。
分かっているはずです。分かっているはずなのです。
ここだよ?自分。耐え時は。自身が持つ毒と対峙する時は。
Be strong. Be strong.

「院試お疲れ!」として許されるのか。

2007年09月04日 10時09分41秒 | 日記
記事を書くときはタイトルから決めることが多いのだけれど、
今日のばかりは未だに決まっていない。
なかなか書き残す時間もなく、しかし書き残したいことはそれなりにあり、
どこか煮え切らない一週間だった。

ひとまず院試の筆記は終わった。
有機化学で簡単な問題を得点にできず、やや悔しい面は残る。
なかなか本番で100%の力を出すということは、難しい。
英語と生物材料化学は、書くだけ書いた、と満足してしまっているが。
この満足感が悪い方向に働かなければよいが。

研究チームの皆さんとで、夕食を食べに行く。
お疲れ様でしたという意味をこめて、小さいお祝い事があったときなどに行く、
近くのうどん屋さんでおいしい味噌煮込みうどんを頂く。
冷やかし、冗談を掛け合う中に、かすかな不安がよぎる。
この不安定さは、どんな結果で終わったとしても、なくなると物足りない。
「なかなかドキドキハラハラするイベントなんて、そうそうないですから」
と、期間限定で企業から研究室に派遣された方はおっしゃった。
印象的な言葉だった。そうだろうなと思った。
が、自分は、早くそうなればいいと思うのか、
それとも学生という危うさにまだ身を任せたいのかは、分からなかった。

試験前なのに、急に部屋の掃除をし始めてしまうという経験をした人は、
案外多いのかもしれない。
自分も似たようなものだった。
院試のその後、就職の後、ずっとずっとずーっと後のことを、
学部棟の屋上でぼんやりと考えていたのが試験の3~4日前。
頭の一方ではリグニンの生合成がどうのこうのと思い返す。
もう一方では、
綿で首を絞められているような息苦しさは何なのだろう?
自分のやりたいことは何なのだろう?
などという、院試よりも無茶な問題について考える。

結局、ふと顔を上げたとき、空の景色がまるで変わってしまうほどの時間、
屋上で一人ぼんやりと佇んでいた。
結論は得られた。
自分は自分の双肩にのしかかる小さな責任すら重く感じていること。
そして、世の人はきっと自分よりも欲求に素直なのだろう、と思った。
……今書いて思うのは、ああ、余裕がなかったんだなということ。
自分にしては、なかなかどうして、珍しくも傲慢な帰結ではないか。


ただ、やはり少し、疲れたかなと思う。
傲慢でもいい、欲求に素直になってもいいとする自分と、
かくあるべきだ、こう生きるべきだとする自分との間で、
息を吐き吐き考えるのは、疲れたかなと。

ああ、苦しいね、自己嫌悪のスパイラルというのは。
自分を責めても、許しても、どちらにしても、苦しいものだね。


末尾ながら、何はともあれ、同期の皆さん、お疲れ様でした。
知る人のよい結果だけを期待してしまう自分で申し訳ないのですが、
それでも期待してしまいます。皆で受かりますように。