「非戦」は「道義に外れた戦争に非ず」、忍耐の末のやむにやまれぬ自衛戦争、守るは義務・責任、公義の為の捧命・犠牲、左傾・性善説化した教界と距離を置く聖書基準の視点から提示・・「キリスト者の戦争論」を読む
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「キリスト者の戦争論」(著者:岡山英雄氏、富岡幸一郎氏、出版社:地引網出版、出版日:2006/08/01)
西欧に於いての多数派としてでは無く、それから距離を置いた東洋の東端で、且つ島国の日本の中に於いて、1%にも満たない少数派であるキリスト者(クリスチャン)としての、異なった捉え方、違った視点、独自の視座から、普段の生活における出来事や、公的・社会的な時事問題に対しての分析や検証、吟味、判断、決断を下し、それによる姿勢、態度、意見、批判、行動を取る事で、世間、社会、世界への掲示をしていく事が、日本人のキリスト者に求められる。決して大勢に流される事無く、逆説的に捉え、考え、判断し、意見する事を、イエス・キリストも降臨時に行っていた。
キリスト者は基本的に、聖書を道徳規範、判断基準、人生の指針としている。しかし実際には、キリスト者それぞれで考え方や捉え方、判断の仕方、生き方等は異なっており、世の中の出来事や時事問題についても異なった見解を持っている。キリスト者であるからと言って、全てのクリスチャンが同じである訳では無い。
西欧の多数派としてのキリスト者と、日本の少数派としてのキリスト者は異なる。教会的キリスト者と、無教会的キリスト者は異なる。組織・団体の教えを優先するキリスト者と、聖書のみに忠実であるキリスト者は異なる。群れを好むキリスト者と、単独で神と直接向き合うキリスト者は異なる。その他、カトリック、正教会、プロテスタント、諸教派・諸宗派と、組織・団体も様々である。
最近の一般的キリスト者、教会的キリスト者、グローバル的キリスト者等は、「平和」や「愛」、「寛容」に偏り、人間が皆、良心的な人ばかりであるとして、人を信じる「ヒューマニズム」の傾向が見られる。しかし、それらは聖書の一面のみを強調しているに過ぎない。反対に、人間は皆、「悪」である事が、聖書には書かれている。人間は、生まれた時から「原罪」を背負って生きている。それ故、人間は皆、生まれた時から「悪の性質」を持っている。全ての人間が、何かのきっかけで、「悪」が表面に露出する可能性を秘めているのである。日々、「悪の性質」と併せて元々持っている「良心」と、頭の「理性」、外からの道徳規範や規則、法律によって、本能や欲望を抑えているに過ぎないとも言える。
その様に、聖書は「性悪説」であるが、最近の世界的な流れ、グローバリズム等は、「性善説」である。「寛容」の下に国境や壁を失くして移民を受け入れ、その結果、テロ、強姦、強盗等の犯罪が多発している。また日本国憲法も、「性善説」である。前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、9条2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を謳っており、他国が全て「善良な」国々であると信頼して、日本国民の命と安全保障を、それらの「善良な」国々に預けて託し委ねると言っているのである。
ラテン語「パクス」(平和)の語源が「平定」でもある様に、現在進行中のグローバリズムも、ある一部の勢力の秩序付けを普遍化しようとしているものであり、偽善の平和である。そのグローバリズム、フランス革命の指導理念であったヒューマニズム、現・日本国憲法、これらは全て、世界的カルト権力・イルミナティ・フリーメーソンによるものである。
本書の帯に書かれている、「今、『反戦』ではなく『非戦』」。グローバル的キリスト者やヒューマニズム的キリスト者達は、「反戦」を掲げて、とにかくどんな事があろうとも戦争反対と訴えている。
一方の「非戦」について考えてみた。「非暴力」は、暴力の手段を使わずに、その他の方法で抵抗するものである。また、「非行」は、道義に外れた行為、正しい行いに非ずと言う事である。この「非戦」について、本書で対談された両キリスト者の意見が割れている様である。新約聖書・黙示録の終末論についての著書を持つ岡山英雄牧師は、「非暴力」と同じく「絶対非戦」と言い、何が有っても戦争を行ってはならず、どんな戦争も悪であり、戦争に於いて人を殺してはならないと述べ、終末的な現在の状況下、イエス・キリストの再降臨に望みを託すと述べている。しかし、一方の「非戦論」を著書に持つ、文芸評論家で保守の論客でもある、関東学院大学教授で鎌倉文学館館長の富岡幸一郎氏は、岡山牧師とは違っている様である。私は、多分、富岡氏も同じ考えであると思うが、「非行」と同様に、「非戦」は「道義に外れた戦争に非ず」、つまり「侵略戦争に非ず」を言っているものと思う。故に私の解釈である「非戦」の場合、「自衛戦争」は「道義に基づいた戦争」である為に、行っても良い、否、「行うべき戦争」であると考えるのである。「自衛戦争」は「正義の道理に基づく戦争」である。
重要なもの、大切な人を守る事は、「義務」であり「責任」である。世界で最も長い歴史を有する日本国は、現在を生きる日本国民のものだけでは無く、古代から代々この国を守り維持して成長・発展・成熟させて来た御先祖の方々のものでもある。その御先祖の方々の思いを汲み、現代を生きる国民の人達が勝手に、恣意的に、亡国に繋がる様なリベラル的に変えてはならない。祖国の独立・存立を守り、歴史・伝統・文化を守り、アイデンティティ・自尊心・誇りを守り、日本国民の精神性を守り、家族・大切な人・愛する人を守る為の行動を取る事は、義務・責任である。そして、それらを脅かす他国からの挑発や介入・干渉、侵略行為に対し、「忍耐」の末の「やむにやまれぬ」状態となった時の手段として、闘い、「自衛戦争」が必要となる。逆に、「非暴力」と口先だけの綺麗事を言いながら、それら大切な人・ものが凌辱されたり殺されたり破壊される事を、関係無いかの様な態度で傍観したり、自分の命・権利・財産だけの事を考えて逃避する事は、義務を果たす事無く責任を逃れると言う事となり、却って「卑怯」な事となる。憲法9条を改正して自衛隊を明記する事は、国の責任と義務を果たす為には当然の事と言える。
日本は、先の大戦中、「武士道」を規範・規準にして闘った。その「武士道」は、陽明学と同様の新約聖書を併せて止揚(アウフヘーベン)して次元を上昇させた「キリスト武士道」という、レベルが高く格調の高い品格・精神性が込められたものである。「キリスト武士道」は、「キリスト」という看板は同じでも、西洋・白人の国々の形骸化し、世俗化し、腐敗して低いレベルに落ち込んだキリスト教とは全く異なるものである。日本は大東亜戦争中、当時キリスト教国を自称・自認する白人国家に植民地化されて搾取・掠奪・隷属されていたアジアの国々を、解放し独立させる為に犠牲を払った戦争を行った。またそれは、石油をはじめとした対日禁輸等の制裁、アメリカの対日オレンジ計画を基としたABCD包囲網等による国家存亡の危機に当たり、自国の安全保障の為の自衛戦争でもあった。また支那事変(日中戦争)は、それまでフリーメーソン蒋介石・軍事委員会委員長(当時)率いる支那国民政府に散々挑発事件を被って来た中で忍耐し我慢を続けていた所に、「通州事件」により現地の日本人居留民の二百数十人が虐殺された事で「やむにやまれぬ」思いとなり、堪忍袋の緒を切って、日本軍がその挑発を抑える為に支那大陸に出た。武士道の「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義・克己」。「勇」は「敢為堅忍」とセットである必要があり、忍耐が、勇気の節度・暴走への歯止めとなる。「勇」のみでは武力・暴力で押し付けて解決を図ろうとする事となってしまう為に、却って「卑怯」な事となる。「仁」によって、当時のアジア各国、支那国内の民間人への慈愛精神、弱い立場に在る人達を支援し助け救う為の戦争を行った。また「名誉」により、白人の国々の野蛮行為、侵略行為を見て見ぬ振りをする卑怯な態度を取る事は「恥」と捉えた為に、更に悪に媚びへつらい従う事も「恥」と捉えた為に、白人国家と戦争を行って闘った。特攻隊をはじめとして、「公義」の為に自分の命を犠牲にし、日本を存続させると同時に、自分の魂を永遠に繋げられた多くの方々がいた。そして当時の日本軍には、その「キリスト武士道」を規範とした軍律・軍紀が存在した。故に、現・支那(中国)が宣伝している「南京大虐殺」は嘘であり、その様な事は起こらなかった。
その事と同様に、韓国のプロパガンダである「従軍慰安婦の日本軍による強制」も無かった。当時、日本人でも貧しさの為に売春に売られたり自ら出向いた者がおられた事と同様に、朝鮮人の方々も家族の者に売られたり、自主的に出向いたり、或いは同じ朝鮮人の民間業者に騙されたり拉致される等して慰安婦となっていた者が多かった。従軍慰安婦には勿論、日本人も多く含まれていた。そして慰安婦の方々に対しての待遇も良く、日本軍の兵士の給料よりも高かった。日本は「キリスト武士道」を規準としていた為にその様な事を強制する訳が無く、戦後に戦勝国の白人国家の野蛮な考えとすり替えられたに過ぎない。日本は日韓合邦(日韓併合)時、朝鮮半島に学校、病院、裁判所、橋梁、発電ダム等を建造し、鉄道を敷き、港湾や道路を整備して、朝鮮半島のインフラを近代化した。日本は朝鮮を一応形としては植民地として統治したが、白人の西欧列強諸国によるアジアやアフリカにおける搾取・掠奪・奴隷化の植民地政策とは全く異なり、日本は朝鮮に対して投資するばかり、与えるばかりであった。勿論、白人野蛮列強国に対する自国の安全保障を高める為ではあったのだが、当時朝鮮(韓国)は事大主義で独立の気概が弱かった為に、その様な頼りない状態を放置する事が自国の危機に繋がってしまう為、本当は独立して欲しいのだが仕方なく、「やむにやまれぬ」気持ちとなって併合した。またその上で合邦化したかったのだが、インフラ・社会システム等のレベルが違い過ぎた為に、形として併合化した。日本は「キリスト武士道」を基にして、その様な犠牲を払ったのである。
靖国神社には、その犠牲を払われた方々が祀られている。勿論、A級戦犯と言うレッテルを貼られた方々も祀られている。A級戦犯と言うレッテルは、戦勝国による東京裁判での出鱈目の裁きによるものであり、戦勝国を正当化する為、白人列強国の野蛮行為とすり替えたものである。そのレッテルを貼られた方々は、冤罪を被っているのである。そして、キリスト者でも勿論、靖国神社に参詣・参上する事は正しい事である。但し飽くまでも、慰霊・慰謝・鎮魂の為に参るのであり、その御先祖の方々を「尊い人」として、その犠牲を払われた事に感謝する。キリスト者として、御先祖の方々を神格化・偶像化する事は無く、拝む事も無い。飽くまでも、「尊い人」として追懐・追想して感謝するのである。
日本のキリスト者、キリスト教会は靖国神社を反対する者が多い事と同様に、天皇を反対する者も少なくない。しかし、前述の様に靖国神社の存在が正しい事と同じく、天皇の存在は日本の長い歴史上における軸となって来ており、国体の維持と安定に繋がった欠かせない存在である。そして、天皇の「血統」の本質が解かれば、またキリスト者として聖書を信仰するならば、その天皇の「男系男子」の血統である「皇胤」・皇統を尊いものとして捉える事が出来る様に変わるはずである。皇胤は、モーセの兄アロンの「男系男子」の血統、ユダヤ13支族の内のレビ族の血統であるからである。天皇はレビ人の祭司と同様に、超越者である神と日本国民との仲介者たる祭司、全ての神社の頂点に立つ大祭司を務めておられ、国と民の安寧を祈っておられるのである。
聖書にユダヤ人が神の選民・契約の民と書かれてある事や、現在のパレスチナの地であるカナンがそのユダヤ人に神が約束した土地であると書かれてある事から、本質も理解せず安易に現在のイスラエルを支持し、そのイスラエルに蹂躙されているパレスチナ人を無視しているキリスト者も多い。現イスラエルには多くの「宗教的」ユダヤ人が存在し、「血統的」ユダヤ人は二級市民に貶されている。「血統的」な繋がりが無くユダヤ教に改宗した「宗教的」ユダヤ人は、本当はユダヤ人では無い。そしてパレスチナ人の中にも「血統的」ユダヤ人が存在する。パレスチナは民族名では無く、国籍名の如くのその土地に昔から先祖代々住んで来た人達の名である。民族の定義は「血統」であり、国民の定義は国籍である。現イスラエル国家は、間違った存在である。
左傾化し、社会主義化・共産主義化し、リベラル化し、世俗化し、偽善のヒューマニズム化・グローバリズム化し、護憲を唱え、世間一般大衆やマスコミに迎合している、日本のキリスト教会や、その組織に所属しているキリスト者。神の原則を無視し、人の目、人の評判を気にするキリスト教界やキリスト者達。生命至上主義となり、その生命を超える価値、捧命・犠牲を厭い、この世の命を重視し後の永遠を軽んじるキリスト者達。フェミニズム、ジェンダーフリー、LGBTQ、同性愛を承認するキリスト者達。またマスコミに洗脳されて、本当の国際情勢や社会問題を理解せず、或いは無関心なキリスト者も多い。キリスト者で思想家・愛国者の内村鑑三氏は、不敬事件の後に世間から排除されるだけでは無くキリスト教界からも除け者にされた経験を持つ。そして、教会的な信仰を辞めて、独立した単独者として、創造主である神と直接向き合う様にして祈り、聖書のみを信仰する事を勧めた。
私も、左傾化し偽善主義に陥っているキリスト教界とは距離を置き、組織に属さず、孤独に聖書を開く。私は、内村氏と同様にアウトサイダーとして客観的に、聖書を規準にしながら、「保守・中道」のキリスト者としての視点・視座から、国際情勢や社会の出来事等の時事問題を捉え、考え判断し、反日メディアの偏向報道・情報操作・世論誘導とは逆説的なものを発していきたいと思う。その時・その場の空気に混じらず迎合せず、批判的精神を持ち続けて行きたい。そして勿論、私は改憲派で、9条改正を唱える。
キリスト者が読む聖書には、この世が一旦終わる事が、神からの預言として書かれている。かつては、「ノアの方舟」の大洪水で悪が滅ぼされ、世界がリセットされた。また、「ロトの日」には、淫蕩・同性愛の町、ソドムとゴモラが滅ぼされてリセットされた。キリスト者であれば聖書に書いてある事を全て信じるはずである。もしも、それらをはじめとした歴史的な出来事を神話扱いするのであれば、その人達は真のキリスト者では無い。本当のキリスト者であれば、人間マリアが処女にしてイエス・キリストをお産みになられた事や、イエス・キリストが十字架の磔刑の死後、3日目に復活して生き返った事は信じているはずである。また、創造主が「その種類に従って」、人間をはじめとした生物や植物をお創りになられ、その後も種と種の間の壁を破って通る事無く、それぞれの種が独立する「創造論」が正しいと信じ、ダーウィンの「進化論」は出鱈目であると否定しているはずである。更に、ヨハネの黙示録をはじめとした神からの預言も信じているはずである。この世界が現在終末に在り、一旦滅んでリセットされる事を信じ、且つそれを「運命」として捉えているはずである。その「運命」としての「世界最終戦争」、第三次世界大戦に対する備えを、キリスト者は怠るつもりであろうか?。備えは勿論、国の改憲や軍備の一層の充実だけでは無く、キリスト者であれば聖書に立ち返り、「悔い改め」をして、後の永遠への心の備えをする。「世界最終戦争」は勿論、核兵器が使われて何もかもが失くなり、世界がリセットされる。
新約聖書・ヨハネの福音書12章24・25節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」
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「キリスト者の戦争論」(著者:岡山英雄氏、富岡幸一郎氏、出版社:地引網出版、出版日:2006/08/01)
西欧に於いての多数派としてでは無く、それから距離を置いた東洋の東端で、且つ島国の日本の中に於いて、1%にも満たない少数派であるキリスト者(クリスチャン)としての、異なった捉え方、違った視点、独自の視座から、普段の生活における出来事や、公的・社会的な時事問題に対しての分析や検証、吟味、判断、決断を下し、それによる姿勢、態度、意見、批判、行動を取る事で、世間、社会、世界への掲示をしていく事が、日本人のキリスト者に求められる。決して大勢に流される事無く、逆説的に捉え、考え、判断し、意見する事を、イエス・キリストも降臨時に行っていた。
キリスト者は基本的に、聖書を道徳規範、判断基準、人生の指針としている。しかし実際には、キリスト者それぞれで考え方や捉え方、判断の仕方、生き方等は異なっており、世の中の出来事や時事問題についても異なった見解を持っている。キリスト者であるからと言って、全てのクリスチャンが同じである訳では無い。
西欧の多数派としてのキリスト者と、日本の少数派としてのキリスト者は異なる。教会的キリスト者と、無教会的キリスト者は異なる。組織・団体の教えを優先するキリスト者と、聖書のみに忠実であるキリスト者は異なる。群れを好むキリスト者と、単独で神と直接向き合うキリスト者は異なる。その他、カトリック、正教会、プロテスタント、諸教派・諸宗派と、組織・団体も様々である。
最近の一般的キリスト者、教会的キリスト者、グローバル的キリスト者等は、「平和」や「愛」、「寛容」に偏り、人間が皆、良心的な人ばかりであるとして、人を信じる「ヒューマニズム」の傾向が見られる。しかし、それらは聖書の一面のみを強調しているに過ぎない。反対に、人間は皆、「悪」である事が、聖書には書かれている。人間は、生まれた時から「原罪」を背負って生きている。それ故、人間は皆、生まれた時から「悪の性質」を持っている。全ての人間が、何かのきっかけで、「悪」が表面に露出する可能性を秘めているのである。日々、「悪の性質」と併せて元々持っている「良心」と、頭の「理性」、外からの道徳規範や規則、法律によって、本能や欲望を抑えているに過ぎないとも言える。
その様に、聖書は「性悪説」であるが、最近の世界的な流れ、グローバリズム等は、「性善説」である。「寛容」の下に国境や壁を失くして移民を受け入れ、その結果、テロ、強姦、強盗等の犯罪が多発している。また日本国憲法も、「性善説」である。前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」、9条2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」を謳っており、他国が全て「善良な」国々であると信頼して、日本国民の命と安全保障を、それらの「善良な」国々に預けて託し委ねると言っているのである。
ラテン語「パクス」(平和)の語源が「平定」でもある様に、現在進行中のグローバリズムも、ある一部の勢力の秩序付けを普遍化しようとしているものであり、偽善の平和である。そのグローバリズム、フランス革命の指導理念であったヒューマニズム、現・日本国憲法、これらは全て、世界的カルト権力・イルミナティ・フリーメーソンによるものである。
本書の帯に書かれている、「今、『反戦』ではなく『非戦』」。グローバル的キリスト者やヒューマニズム的キリスト者達は、「反戦」を掲げて、とにかくどんな事があろうとも戦争反対と訴えている。
一方の「非戦」について考えてみた。「非暴力」は、暴力の手段を使わずに、その他の方法で抵抗するものである。また、「非行」は、道義に外れた行為、正しい行いに非ずと言う事である。この「非戦」について、本書で対談された両キリスト者の意見が割れている様である。新約聖書・黙示録の終末論についての著書を持つ岡山英雄牧師は、「非暴力」と同じく「絶対非戦」と言い、何が有っても戦争を行ってはならず、どんな戦争も悪であり、戦争に於いて人を殺してはならないと述べ、終末的な現在の状況下、イエス・キリストの再降臨に望みを託すと述べている。しかし、一方の「非戦論」を著書に持つ、文芸評論家で保守の論客でもある、関東学院大学教授で鎌倉文学館館長の富岡幸一郎氏は、岡山牧師とは違っている様である。私は、多分、富岡氏も同じ考えであると思うが、「非行」と同様に、「非戦」は「道義に外れた戦争に非ず」、つまり「侵略戦争に非ず」を言っているものと思う。故に私の解釈である「非戦」の場合、「自衛戦争」は「道義に基づいた戦争」である為に、行っても良い、否、「行うべき戦争」であると考えるのである。「自衛戦争」は「正義の道理に基づく戦争」である。
重要なもの、大切な人を守る事は、「義務」であり「責任」である。世界で最も長い歴史を有する日本国は、現在を生きる日本国民のものだけでは無く、古代から代々この国を守り維持して成長・発展・成熟させて来た御先祖の方々のものでもある。その御先祖の方々の思いを汲み、現代を生きる国民の人達が勝手に、恣意的に、亡国に繋がる様なリベラル的に変えてはならない。祖国の独立・存立を守り、歴史・伝統・文化を守り、アイデンティティ・自尊心・誇りを守り、日本国民の精神性を守り、家族・大切な人・愛する人を守る為の行動を取る事は、義務・責任である。そして、それらを脅かす他国からの挑発や介入・干渉、侵略行為に対し、「忍耐」の末の「やむにやまれぬ」状態となった時の手段として、闘い、「自衛戦争」が必要となる。逆に、「非暴力」と口先だけの綺麗事を言いながら、それら大切な人・ものが凌辱されたり殺されたり破壊される事を、関係無いかの様な態度で傍観したり、自分の命・権利・財産だけの事を考えて逃避する事は、義務を果たす事無く責任を逃れると言う事となり、却って「卑怯」な事となる。憲法9条を改正して自衛隊を明記する事は、国の責任と義務を果たす為には当然の事と言える。
日本は、先の大戦中、「武士道」を規範・規準にして闘った。その「武士道」は、陽明学と同様の新約聖書を併せて止揚(アウフヘーベン)して次元を上昇させた「キリスト武士道」という、レベルが高く格調の高い品格・精神性が込められたものである。「キリスト武士道」は、「キリスト」という看板は同じでも、西洋・白人の国々の形骸化し、世俗化し、腐敗して低いレベルに落ち込んだキリスト教とは全く異なるものである。日本は大東亜戦争中、当時キリスト教国を自称・自認する白人国家に植民地化されて搾取・掠奪・隷属されていたアジアの国々を、解放し独立させる為に犠牲を払った戦争を行った。またそれは、石油をはじめとした対日禁輸等の制裁、アメリカの対日オレンジ計画を基としたABCD包囲網等による国家存亡の危機に当たり、自国の安全保障の為の自衛戦争でもあった。また支那事変(日中戦争)は、それまでフリーメーソン蒋介石・軍事委員会委員長(当時)率いる支那国民政府に散々挑発事件を被って来た中で忍耐し我慢を続けていた所に、「通州事件」により現地の日本人居留民の二百数十人が虐殺された事で「やむにやまれぬ」思いとなり、堪忍袋の緒を切って、日本軍がその挑発を抑える為に支那大陸に出た。武士道の「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義・克己」。「勇」は「敢為堅忍」とセットである必要があり、忍耐が、勇気の節度・暴走への歯止めとなる。「勇」のみでは武力・暴力で押し付けて解決を図ろうとする事となってしまう為に、却って「卑怯」な事となる。「仁」によって、当時のアジア各国、支那国内の民間人への慈愛精神、弱い立場に在る人達を支援し助け救う為の戦争を行った。また「名誉」により、白人の国々の野蛮行為、侵略行為を見て見ぬ振りをする卑怯な態度を取る事は「恥」と捉えた為に、更に悪に媚びへつらい従う事も「恥」と捉えた為に、白人国家と戦争を行って闘った。特攻隊をはじめとして、「公義」の為に自分の命を犠牲にし、日本を存続させると同時に、自分の魂を永遠に繋げられた多くの方々がいた。そして当時の日本軍には、その「キリスト武士道」を規範とした軍律・軍紀が存在した。故に、現・支那(中国)が宣伝している「南京大虐殺」は嘘であり、その様な事は起こらなかった。
その事と同様に、韓国のプロパガンダである「従軍慰安婦の日本軍による強制」も無かった。当時、日本人でも貧しさの為に売春に売られたり自ら出向いた者がおられた事と同様に、朝鮮人の方々も家族の者に売られたり、自主的に出向いたり、或いは同じ朝鮮人の民間業者に騙されたり拉致される等して慰安婦となっていた者が多かった。従軍慰安婦には勿論、日本人も多く含まれていた。そして慰安婦の方々に対しての待遇も良く、日本軍の兵士の給料よりも高かった。日本は「キリスト武士道」を規準としていた為にその様な事を強制する訳が無く、戦後に戦勝国の白人国家の野蛮な考えとすり替えられたに過ぎない。日本は日韓合邦(日韓併合)時、朝鮮半島に学校、病院、裁判所、橋梁、発電ダム等を建造し、鉄道を敷き、港湾や道路を整備して、朝鮮半島のインフラを近代化した。日本は朝鮮を一応形としては植民地として統治したが、白人の西欧列強諸国によるアジアやアフリカにおける搾取・掠奪・奴隷化の植民地政策とは全く異なり、日本は朝鮮に対して投資するばかり、与えるばかりであった。勿論、白人野蛮列強国に対する自国の安全保障を高める為ではあったのだが、当時朝鮮(韓国)は事大主義で独立の気概が弱かった為に、その様な頼りない状態を放置する事が自国の危機に繋がってしまう為、本当は独立して欲しいのだが仕方なく、「やむにやまれぬ」気持ちとなって併合した。またその上で合邦化したかったのだが、インフラ・社会システム等のレベルが違い過ぎた為に、形として併合化した。日本は「キリスト武士道」を基にして、その様な犠牲を払ったのである。
靖国神社には、その犠牲を払われた方々が祀られている。勿論、A級戦犯と言うレッテルを貼られた方々も祀られている。A級戦犯と言うレッテルは、戦勝国による東京裁判での出鱈目の裁きによるものであり、戦勝国を正当化する為、白人列強国の野蛮行為とすり替えたものである。そのレッテルを貼られた方々は、冤罪を被っているのである。そして、キリスト者でも勿論、靖国神社に参詣・参上する事は正しい事である。但し飽くまでも、慰霊・慰謝・鎮魂の為に参るのであり、その御先祖の方々を「尊い人」として、その犠牲を払われた事に感謝する。キリスト者として、御先祖の方々を神格化・偶像化する事は無く、拝む事も無い。飽くまでも、「尊い人」として追懐・追想して感謝するのである。
日本のキリスト者、キリスト教会は靖国神社を反対する者が多い事と同様に、天皇を反対する者も少なくない。しかし、前述の様に靖国神社の存在が正しい事と同じく、天皇の存在は日本の長い歴史上における軸となって来ており、国体の維持と安定に繋がった欠かせない存在である。そして、天皇の「血統」の本質が解かれば、またキリスト者として聖書を信仰するならば、その天皇の「男系男子」の血統である「皇胤」・皇統を尊いものとして捉える事が出来る様に変わるはずである。皇胤は、モーセの兄アロンの「男系男子」の血統、ユダヤ13支族の内のレビ族の血統であるからである。天皇はレビ人の祭司と同様に、超越者である神と日本国民との仲介者たる祭司、全ての神社の頂点に立つ大祭司を務めておられ、国と民の安寧を祈っておられるのである。
聖書にユダヤ人が神の選民・契約の民と書かれてある事や、現在のパレスチナの地であるカナンがそのユダヤ人に神が約束した土地であると書かれてある事から、本質も理解せず安易に現在のイスラエルを支持し、そのイスラエルに蹂躙されているパレスチナ人を無視しているキリスト者も多い。現イスラエルには多くの「宗教的」ユダヤ人が存在し、「血統的」ユダヤ人は二級市民に貶されている。「血統的」な繋がりが無くユダヤ教に改宗した「宗教的」ユダヤ人は、本当はユダヤ人では無い。そしてパレスチナ人の中にも「血統的」ユダヤ人が存在する。パレスチナは民族名では無く、国籍名の如くのその土地に昔から先祖代々住んで来た人達の名である。民族の定義は「血統」であり、国民の定義は国籍である。現イスラエル国家は、間違った存在である。
左傾化し、社会主義化・共産主義化し、リベラル化し、世俗化し、偽善のヒューマニズム化・グローバリズム化し、護憲を唱え、世間一般大衆やマスコミに迎合している、日本のキリスト教会や、その組織に所属しているキリスト者。神の原則を無視し、人の目、人の評判を気にするキリスト教界やキリスト者達。生命至上主義となり、その生命を超える価値、捧命・犠牲を厭い、この世の命を重視し後の永遠を軽んじるキリスト者達。フェミニズム、ジェンダーフリー、LGBTQ、同性愛を承認するキリスト者達。またマスコミに洗脳されて、本当の国際情勢や社会問題を理解せず、或いは無関心なキリスト者も多い。キリスト者で思想家・愛国者の内村鑑三氏は、不敬事件の後に世間から排除されるだけでは無くキリスト教界からも除け者にされた経験を持つ。そして、教会的な信仰を辞めて、独立した単独者として、創造主である神と直接向き合う様にして祈り、聖書のみを信仰する事を勧めた。
私も、左傾化し偽善主義に陥っているキリスト教界とは距離を置き、組織に属さず、孤独に聖書を開く。私は、内村氏と同様にアウトサイダーとして客観的に、聖書を規準にしながら、「保守・中道」のキリスト者としての視点・視座から、国際情勢や社会の出来事等の時事問題を捉え、考え判断し、反日メディアの偏向報道・情報操作・世論誘導とは逆説的なものを発していきたいと思う。その時・その場の空気に混じらず迎合せず、批判的精神を持ち続けて行きたい。そして勿論、私は改憲派で、9条改正を唱える。
キリスト者が読む聖書には、この世が一旦終わる事が、神からの預言として書かれている。かつては、「ノアの方舟」の大洪水で悪が滅ぼされ、世界がリセットされた。また、「ロトの日」には、淫蕩・同性愛の町、ソドムとゴモラが滅ぼされてリセットされた。キリスト者であれば聖書に書いてある事を全て信じるはずである。もしも、それらをはじめとした歴史的な出来事を神話扱いするのであれば、その人達は真のキリスト者では無い。本当のキリスト者であれば、人間マリアが処女にしてイエス・キリストをお産みになられた事や、イエス・キリストが十字架の磔刑の死後、3日目に復活して生き返った事は信じているはずである。また、創造主が「その種類に従って」、人間をはじめとした生物や植物をお創りになられ、その後も種と種の間の壁を破って通る事無く、それぞれの種が独立する「創造論」が正しいと信じ、ダーウィンの「進化論」は出鱈目であると否定しているはずである。更に、ヨハネの黙示録をはじめとした神からの預言も信じているはずである。この世界が現在終末に在り、一旦滅んでリセットされる事を信じ、且つそれを「運命」として捉えているはずである。その「運命」としての「世界最終戦争」、第三次世界大戦に対する備えを、キリスト者は怠るつもりであろうか?。備えは勿論、国の改憲や軍備の一層の充実だけでは無く、キリスト者であれば聖書に立ち返り、「悔い改め」をして、後の永遠への心の備えをする。「世界最終戦争」は勿論、核兵器が使われて何もかもが失くなり、世界がリセットされる。
新約聖書・ヨハネの福音書12章24・25節
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」
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「キリスト者の戦争論」 (著者:岡山英雄氏、富岡幸一郎氏、出版社:地引網出版、出版日:2006/08/01) |
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