狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

化学物質無添加・天然で安全(6)・・・「ピレスロイド」

2012-11-25 18:32:32 | 健康・医療・暮らし 2012~2017
 天然の除虫菊に含まれる有効成分の総称であるピレスロイドは、日本でも明治時代から蚊取り線香として利用されて親しまれて来ました。衣類の防虫剤や害虫駆除剤等に使われています、昆虫・爬虫類・両生類には毒性の威力を発揮しますが、鳥類・哺乳類には比較的効果は少なく安全です。勿論大量に吸入・摂取すると、様々な急性症状、呼吸器疾患、皮膚症状、神経症状等が起こり、重症の場合は呼吸停止に陥る場合も有ります。しかし、有機塩素化合物有機リン化合物を使用した殺虫剤や農薬等を利用するよりは有益です。
 又、>天然ピレスロイドのピレトリンは、環境中に揮発すると速やかに不活・失活する短時間作用型の防虫剤ですので、残留性が有りません
 ピレスロイドはピレトリン等の6種の化合物の混合物で、菊酸(テルぺノイド)が構造の中に含まれています。テルペン(C10H16O2)イソプレン(C5H8)を構成単位に持っている炭化水素で、ハロゲン(塩素(Cl)、フッ素(F)、ヨウ素(I)、臭素(Br)、アスタチン(At)、ウンウンセプチウム(Uus))が含まれていません。フッ素はリン酸塩から作られます。
 因みに、臭素は猛毒ヨウ素は毒物・医薬用外劇物です。又、アスタチンは半減期は短いですが、放射線の中で最も人体に対する作用が大きいα線を放出します。人体に対する作用の大きさにおいてx線を1とした場合に、γ線が0.6~1、β線が1、陽子線が1~10、中性子線が2~10、α線が15~20です(放射線荷重係数)。


化学物質無添加・天然で安全(5)・・・「塩素」の危険性の追記

2012-11-25 17:04:58 | 健康・医療・暮らし 2012~2017
 有機リン化合物と同じく毒性、残留性の有る有機塩素化合物は、殺虫剤プラスチックだけでは無く、医薬品や食品添加物にも使用されています。現在百何十種類ものが医薬品として認可されており、抗うつ薬、抗てんかん薬の精神薬、抗ヒスタミン薬、吸入麻酔薬等が在ります。又、ダイエット食品の甘味料等にも使用されています。他に、電気絶縁体、熱媒体等の工業製品にも多く使用されています。それらの焼却によるダイオキシンの発生殺虫剤の散布による環境への残留・蓄積、そこから連鎖された食料品の摂取、また医薬品の摂取等で、上位生物への高濃度の毒性物質の蓄積が起こります。生体内ではそれらは脂肪組織に蓄積され、代謝による分解が出来ません。又、胎盤を通しての胎児への移動や、母乳を通しての連鎖も有り特に乳幼児や子供への影響が有ります。地下水や土壌に吸収・蓄積される為に、野菜や果物の内部に含まれており、表面を洗っても取れません。又、 有機リン化合物と同じく、有機塩素化合物も化学兵器に利用されています。


大和の中央政権に対する播磨人の反骨精神・・・「播磨国風土記―古代からのメッセージ」を読んで

2012-11-25 16:26:13 | 歴史・伝統・文化
 播磨人に元々在る、「気概」・「気骨」・「反骨精神」が解る次の本を読みました。
 「播磨国風土記―古代からのメッセージ」(監修:上田正昭氏、編集:播磨学研究所、出版社:神戸新聞総合出版センター 、出版日:1996/08) 
 古墳時代の4世紀前半頃までに大和政権が畿内に成立し、其の後に周辺地域を順に支配して統一していきました。其の後、飛鳥時代のA.D.645年に大化の改新があって現在まで続く日本の支配階級・権力者層が作られ、694年に藤原京へ遷都710年に平城京へ遷都して奈良時代になりました。そして、712年に古事記が編纂され、713年には風土記編纂命令が朝廷から地方の諸国に出され、715年に「播磨国風土記」が編纂され、720年には日本書紀が編纂されました。
 風土記編纂命令律令制度の基、行政の一環としての税制の基準を定める為に各国に出されたもので、其々の国の中の地名、地名の由来、昔話・伝説・神話、資源・産物、土地の状態を朝廷に報告させる為に編纂させた物です。現存する風土記は播磨国の他、出雲、常陸、豊後、肥前の五つが写本の形で残っています。其々の特徴として、常陸や九州の豊後・肥前は中央系で大和政権が地方の在地の勢力を征伐した事、出雲は在地系で中央の征伐に関しては全く触れていません。播磨の場合は中央系と在地系が半々に書かれています。大化の改新で中央集権化された律令制度の基、皇族・豪族等の私有地・私有民を公地・公民化し、それらを管理する為に五畿七道を定めて交通を整備し、地方を国・郡・里と分け、里の中に50戸戸毎に戸籍を持たせました。班田収授法によって豪族への土地の集中を防ぎ、公民に最低生活を保障し、国と地方の政府の税収を確保しました。公民は米や特産品等の物納と、兵役・雑役等の労役重い税を負わされました。しかし、平安時代の925年に風土記編纂督促命令が出されている事から、税負担を初めとして余り詳しく中央に報告したくない、中央に余り従いたくないと言う様な事から、其の頃でも未だ風土記の提出を拒んでいた国が存在した事が解ります。
 記紀は中央政権の権力者の都合の良い様に編纂されましたが、播磨国に関わる神話・伝承は余り書かれていません。出雲国風土記は在地の神話のみを記し、また播磨国風土記においては記紀神話に登場しない土着・在地の「伊和大神」が記されています。伊和大神は出雲大社の大国主命(葦原志許乎)の兄だとされています。在地の伊和大神は、九州から東遷して来た新羅の王子の天日楯(アメノヒボコ)と何回も戦って勝利した事が記されています。天日楯は其の後、近江、若狭と移って、但馬の出石に納まります。伊和族は出雲系の民族でした。3~4世紀頃に最も勢力を誇った伊和族は、宍禾郡(宍粟郡)一宮を根拠地として海岸部の播磨平野の方まで勢力を拡大し、餝磨郡(飾磨)・揖保郡・宍禾郡(宍粟)・讃容郡(佐用)・神前郡(神崎)・託賀郡(多可)に登場します。播磨には山陽道が通って、畿内・播磨・出雲を結び、又畿内・播磨・九州を結んでいた為に、国内での移動や渡来人の移動によって数々の文化や産物、技術が入ってきました。
 出雲人の相撲の野見宿禰がおり、現在の龍野に葬られていますが、その子孫に土師氏、その末裔に菅原氏、大江氏、秋篠氏がいます。土師氏は皇族の葬祭を司り、埴輪や古墳を作りました。大和政権の支配地が広がる事に伴って前方後円墳が各地に作られましたが、揖保川上流の宍禾郡や千種川上流の讃容郡(佐用郡)には4世紀末~5世紀初めに作られた前方後円墳が在ります。それまで抵抗・反抗していた土着の伊和族が大和政権に其の頃支配され、在地の豪族では無く畿内から派遣された中央の者が行政を執り、その者が其の墓に葬られた事が解ります。
 伊和族は宍禾郡・讃容郡にて古くから力を持って大和政権と対抗し抵抗・反抗を続けた為に、其の後、宍禾郡・讃容郡には重い税が課されました。藤原京や平城京からは宍禾郡・讃容郡からの税や貢ぎ物の記された荷札である木簡が大量に発見されている事から、大和政権からの圧政があった事が解ります5世紀中頃に21代雄略天皇は地域国家連合体であった国家を大和王権に臣従させて中央集権を進めるために、最大の地域政権の一つで大和政権に対抗し得る勢力を持った吉備(岡山県)に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫り、播磨の加古川の西まで勢力を伸ばした事もある其の勢力を削減していき、飛鳥時代には備前・備中・備後、のち奈良時代に備前から美作分割しました。 
 千種川沿い、揖保川沿いは砂鉄が多く産出し、製鉄・鍛冶が盛んでした。其の鉄製の武器や農具により勢力を持ちました。隣の吉備国も製鉄が盛んでした。因みに、製塩も播磨国と吉備国共に盛んでした。
 加古川以西が反天皇・反朝廷であった事に対し、加古川以東は親朝廷でありました。土着・在地系に対する中央権力播磨国神話に対する記紀系列神話でありました。播磨人の気概・気骨・反骨精神が伺えます。   
 15代応神天皇の父で日本武尊の子の14代仲哀天皇が亡くなった時に、その妻の神功皇后印南郡の伊保山(高砂市)に棺を納めるのに良いと見定められたと書かれていますが、仲哀天皇の在位は2世紀最後とされています。現在の仲哀天皇陵は岡ミサンザイ古墳(大阪府藤井寺市)と一応されています。後年になってからそちらの大きな天皇陵としての古墳に移したのかもしれません。明石郡の五色塚古墳も同様にして後年に作られましたが、結局誰も葬られていません。其の後に、伊保山の麓の石の宝殿の石は石棺として作られ様としたらしいですが、これは聖徳太子の時代に弓削氏との関わりの深い物部守屋が作ったとされていますが、聖徳太子が摂政となったのが593年で物部守屋が其の前の587年に亡くなっている為に矛盾が有ります。神話は書いてある事を鵜呑みには出来ませんが、其の当時の背景は知る事が出来ます。
 播磨国には12の郡が存在していましたが、明石郡は2,3か所のみ記載され、赤穂郡に関しては全く書かれていません。隣の備前に含まれていたのではないかとも言われています。聖徳太子の側近であった秦河勝が、622年の聖徳太子の死後に政権を握った蘇我氏から逃れる為に赤穂の坂越まで来て647年に大避神社を建て、千種川沿いを上流に向かって開発を進めていきました。大化の改新後に蘇我氏が滅んで藤原氏系となり、元々中央の支配層にいた秦氏が開発を進めた事で、税の負担等が優遇されていたのではないかと思います。
 
播磨国風土記―古代からのメッセージ播磨国風土記―古代からのメッセージ価格:¥ 1,835(税込)発売日:1996-08



古事記・天孫降臨、イザヤ・ナギード(イザナギ)

2012-11-25 04:32:45 | 歴史・伝統・文化
 出雲系の兄・伊和大神(伊和族)と弟・大国主命(葦原志許乎)から、出石に納まった新羅系の王子の天日楯、そして天孫降臨と、土着・在地系から渡来系へと神話が遷移しますが、古事記・日本書紀の神話の天孫降臨は、イザナギとイザナミの夫婦以下、天皇の系図について述べられています。この天孫降臨神話は、アブラハム―イサク―ヤコブの系統に似ており、古代ユダヤ人の作った可能性が高いです。
 ヘブル語解釈をすると、イザナギは「イザヤ・ナギード」で意味は「グループの長であるイザヤ」イザナミは「イザヤ・ナオミ」「イザヤと共に居るナオミ」となります。神主の長である禰宜も、ナギードの転化したものです。イザヤは旧約聖書のイザヤ書を書いた、モーセと並ぶ最大の預言者です。B.C.810年~B.C.697年に書かれましたが、ユダヤ人がバビロンに捕囚されるより前に契約の箱を運び出し、シルクロードかインド洋を通って日本に契約の箱を持って来ました。
 イザナギ・イザナミの子アマテラスの孫のニニギノミコトは初代神武天皇の先祖で、高天原から高千穂に降臨したとあります。高天原は、アブラハムの子イサクの子のヤコブが長期間住んだ「タガーマ州ハラン」で、高千穂は「タカ・ツィヨーン」で意味はエルサレムの「シオンの丘」です。
 又、黄泉の国から帰って来たイザナギが最後に生み落した3柱の3貴子は、アマテラス(太陽神)、ツクヨミ(月神)、スサノオ(海原神)ですが、旧約聖書の最初の創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」とあり、ヘブル語では、神を表す「エル」の複数形「エロヒム」となっており、三位一体を意味しています。