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山口昌男が大学院に落ちた理由

2017-02-21 | 山口昌男再読
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 2月21日(火)11時10分21秒

川村伸秀氏作成の「山口昌男年譜・著作目録」(『山口昌男 人類学的思想の沃野』、p430以下)によれば、山口昌男は1950年に網走高校を卒業し、東京外国語大学を受験するも失敗。青山学院大学文学部第二部に入学して一学期だけ出席した後、東大受験を決めて城北予備校に入り、また「贋学生」として明治大学で渡辺一夫の講義を受けたりしたそうですね。
そして翌1951年、20歳のときに東大に入学したものの、

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大学の教養学部の授業には殆ど出ず、日中は画廊廻り、夜は日比谷公会堂でイタリア歌劇、シゲティ、ギーゼキング、ケンプなどを聴いていた。チケットは藁科雅美が毎日放送の音楽部長をしていた関係からフリーパスだった。音楽好きの歯科医師さんからフルート演奏を学ぶ(その後は、書家・比田井天来の息子洵に学んだ)。毎週日曜日、午前中一時間半くらいは二紀会の画家・黒田頼綱のアトリエでクロッキー・デッサン、ヌード・デッサンを学んだ。
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といった優雅な毎日を過ごしていたとのことで(p432)、同時代の多くの「国史」研究者たちが送っていた政治的色彩の強い、ビンボー臭い青春とはずいぶん違いますね。
ところで、「大学に入った私は、私の独学の第三の師石母田正氏の『中世的世界の形成』にとり憑かれ歴史学の世界にまっしぐらに飛び込んでいってしまった」という山口昌男の回想からすると、大学(教養学部)入学後に『中世的世界の形成』を読んで、文学部の「進振り」時点で国史学科を選んだのかなと思ったのですが、1949年に東大に入学し、学年では山口昌男の二つ上の犬丸義一氏(1928-2015)の回想には、

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 入学式後の学友会(自治会)の歓迎会で、委員長として挨拶に立たれた佐藤※子(ようこ)さん(のちの藤原彰夫人)に、まず鮮烈な印象を受けた。挨拶の中身はほとんど覚えていないが、女性の委員長ということ自体がある種のカルチャーショックだった。そのあとは、各学科ごとに研究室に散らばっていき、われわれ国史学科の新入生は、坂本太郎・岩生成一両教授、宝月圭吾助教授の話を聞いた。坂本主任教授が話のなかで「君たちはおそらく学生運動をやるのだろうが、運動も結構だが勉強もして下さい」と言われたほどに、学生運動が昂揚している時期だった。先生方に続いて登場したのが三年生の網野さんで、東大歴研(歴史学研究会)を代表して挨拶し、各研究会の紹介などをしてくれた。
(中略)
 そうした高揚の中で、私たち国史学科の四九年入学組十六人のうち実に九人までが共産党に入党する。


などとあり、大学(教養学部)入学の時点で文学部の専攻学科も決まっていたようですね。
このあたり、ちょっと事情が分かりません。
それにしても、共産党といっても今の高齢者中心の生温い議会政党ではなく、血気盛んな革命政党だった時代ですから入党にはそれなりの覚悟が必要だったはずで、16人中9人、54%というのはすごい数字です。
ま、山口昌男は共産党とは関係ありませんが、同級の石井進氏あたりは「山村工作隊」の後方支援みたいな結構ヤバい活動をしていたらしい、という真偽不明の噂話を某大学教授から聞いたこともあります。
さて、山口昌男は石母田正の影響を受けて「国史」のような野暮ったい学科を選んだだけでなく、1955年の学部卒業後、国文学という更に野暮ったい分野の大学院への進学を希望したそうで、これも不思議ですね。
ま、結果的に大学院の試験に合格出来ず、麻布高校の教師を経て1957年に東京都立大学大学院に入学し、岡正雄の下で社会人類学を専攻する訳ですが、東大大学院不合格の事情はかなり奇妙なものですね。
『学校という舞台─いじめ・挫折からの脱出』 (講談社現代新書、1988)によれば、

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 私は当時の実証主義的な国史学はあまり好きじゃないし、自分の同級生と競争するのも嫌だ、どうせなら知らない人と競争したいと、定員十二人の国文学の大学院を受けることにしました。
 試験の戦略を立てました。もちろん国語、国文学では国文の連中の方が上だけれども、英語の成績はおれの方が圧倒的にいいはずだ。これを全部足すと当確圏内だと豪語していました。おわってみると落ちていました。
 試験がおわってから『南洋日本町の研究』の岩生成一先生が、「山口君、話があるから僕の部屋にきてくれ」という。行ったら、「君、語学の点を足せば入ると思ったんだろう」。そういうやつがくると察して、敵もさる者で、向こうも戦略を立てたらしい。かなり汚いんです。英語は三十点で足切りでなく頭切り、その上で国文学と国語学だけで専攻をしたという。「君は英語は八十六点だから圧倒的によかったんだけれども、三十点しか意味がない。そこで君は十三番だった。次点で惜しいことをしたね」とうれしそうにいわれました。
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とのことで(p153以下)、山口昌男を不合格にさせるために試験制度を改変した訳ですね。
まあ、国文学の世界の人もずいぶん陰険ですが、そんなことを山口昌男にわざわざ「うれしそうに」教える岩生成一も妙な人ですね。
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