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「何か政治的意図があってこの減少を隠そうとしたのではないか」(by 森嘉兵衛)

2017-07-20 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月20日(木)13時08分34秒

盛岡藩(南部藩)の人口について、速水融氏が何か書かれているのではないかなと思って探してみたところ、『歴史人口学研究 新しい近世日本像』(藤原書店、2009)の「第12章 近世─明治期奥羽地方の人口趨勢─農村における「近世」と「近代」─」に出ていました。
初出時の原題は「近世奥羽地方人口の史的研究序論」で、『三田学会雑誌』75巻3号、1982年6月ということですから、ハンレー/ヤマムラ『前工業化期日本の経済と人口』が出たのと同じ年ですね。
結論として、盛岡藩の公式統計資料は信頼性が乏しく使えない、その理由は不明、ということですが、歴史人口学者がどのように資料を取り扱っているのかを知るための参考として、関係部分を引用しておきます。(p367以下、図・注記省略)

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各藩領の人口

 奥羽地方の各藩は、他地方に比較して、人口減少という問題に直面したからか、藩領を単位とした人口調査をしばしば行い、人口維持政策を実施し、幸い記録も多く残されている。すでにこれらの資料を用い、高橋梵仙氏は浩瀚な業績を公刊されており、数値自身について再掲する必要はないだろう。すなわち、南部藩、一ノ関藩、仙台藩、中村(相馬)藩、泉(磐城)藩、会津藩、秋田藩の各例が明らかにされている。また、同氏の業績以外にも、二本松藩、米沢藩について、かなり長期間にわたる数値系列が得られ、津軽藩、八戸藩に関しても藩領人口を知ることができる。おそらく、一つの地方で、藩領人口をこれだけ知ることのできるところは他にはないだろう。さらに藩領以外にも、天領人口について、会津の南山御蔵入領の事例も得ることができる。
 ただ、これらの数値の内容は、決して一様なものではない。武士身分の人口が含まれる場合があったり、藩領域の変更によって、対象地域に変化が生じたり、さらには、南部藩のように、そのままではどうみても事実とは首肯し難いケースを含んでいる。また、カヴァーする年代や、密度もまちまちで、統一的な把握は著しく困難である。しかし、それらに目をつぶり、比較的長期の数値シリーズを得られる藩領人口の推移を図12-5にまとめた。ここで、今まで最も多く取り上げられてきた南部藩領の人口を掲げなかったのは、その数値に疑問が多いからである。すなわち、南部藩領人口は『南部家雑書』(南部藩の日誌)から承応二(一六五三)年─天保一一(一八四〇)年の間、二〇〇年近くにわたって記録されているのであるが、宝暦二(一七五二)年以降は、記載人口数にあまりにも変動が少なすぎる。すなわち文化一三(一八一六)年を除いて三五万人台を維持し続けているのである。この間には宝暦・天明の飢饉があり、南部藩領は奥羽地方でも最も大きな被害を出した地方と考えられ、事実、宝暦五(一七五五)年の飢饉による餓死者は、約五万二〇〇〇人、天明三(一七八三)年の飢饉では餓死・病死約七万五〇〇〇人に達したという報告もある。したがって、この間に人口は大きく落ち込み、おそらく三〇%前後の減少をみたのではないかと想像される。しかし、藩の公式記録にはそのようには記述されていない。『盛岡市史』の著者、森嘉兵衛氏は、そこに「何か政治的意図があってこの減少を隠そうとしたのではないかと見られる」とされている。南部藩人口の研究に力をそそがれた高橋梵仙氏の解釈は、宝暦飢饉による領内人口の減少を幕府の眼から隠すべく、従来人口数にカウントされていなかった水呑・名子を、それ以後加算することによって数字の辻つまを合わせたのではないか、とされている。しかしこの解釈にはいささか無理があるのではなかろうか。というのは、天明飢饉の影響が全く出ていないことが説明できないし、記録上、人口数が固定してしまったのは宝暦二(一七五二)年で、宝暦五(一七五五)の飢饉前のことだからである。ここではやはり森嘉兵衛氏の解釈をとっておきたい。なお、宝暦・天明の飢饉による死者数を、公式人口数から差し引いた領内人口の推計(宝暦三─寛政一〇年、一七五三─一七九八)が行われている。しかしこれも、元の数値に疑問があるし、また、寛政一〇(一七九八)年以降の人口をどう考えるか、問題が多い。
 さらに、南部藩の公式人口記録に対する疑問は、その男女比率についてである。安永六(一七七七)年から寛政二(一七九〇)年に至る一四年間、一年を除いて性比は、一一二・九に固定されている。この間には天明飢饉もあり、男女数が全く変化しないまま推移したとはとうてい考えられない。やはり、折角高橋氏によって「白眉」とされた南部藩の公式人口記録も、信頼性の点では問題の多い資料なのである。ただし、このことは、この記録が全く利用するに値しないということを意味するものではない。武家人口や郡別人口の記載もあり、他に利用の方法はいくつか考えられる。また、逆にそれでは他藩の人口記録は信頼できるのか、ということになると、積極的な回答はできない。ただ今のところ、はっきりとした否定的な証拠はないので、本稿では南部藩の資料は用いないが、他藩のそれは利用した。また、利用可能な数値の少ない藩領・蔵入領人口の数値を図12-6に示した。
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森嘉兵衛(1903-81)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B
森嘉兵衛(盛岡市公式サイト内「盛岡の先人たち」)
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/moriokagaido/rekishi/1009526/1009629/1009639.html
コメント
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『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』の位置づけ

2017-07-20 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月20日(木)11時33分8秒

>筆綾丸さん
カルベ教授は経済史の大局的な把握ができていませんね。
『「維新革命」への道』には、次のような記述があります。(p97以下)

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 現代では、世界不況やエネルギー問題を背景にして、もう経済成長はあきらめ、ゼロ成長や循環型の経済をめざすべきだと説く議論が一方では盛んである。徳川時代は人口も増加せず、経済成長率も低い社会で、二百年以上ものあいだ平和を維持していた。その社会のあり方は、これからゼロ成長型の社会へとむかうための、未来へのモデルになるのである。─かつては成長戦略を率先して説いていたエコノミストが、そんなことを堂々と語る例すら見つかるほど、経済停滞社会としての徳川時代のイメージは執拗に流布している。
 しかし、速水融・宮本又郎編『日本経済史Ⅰ 経済社会の成立 19-18世紀』(岩波書店、一九八八年)に代表されるような、現在の日本経済史研究が描きだす徳川時代像は、これとはまったく逆である。同書の巻頭論文、共編者による「概説 一七-一八世紀」は、「経済社会化」が徳川時代においては広く進んでいたと説明している。この時代の農村では、米の増産とともに、多くの商品作物の開発が進んでいた。そして十七世紀には、大坂を中心にして全国規模の商品流通のネットワークが形成され、そこで生産物が取引されるようになり、さらに商品の開発・生産を促進する。そうした形で、最小の費用で最大の効用を得ようとする経済的な価値観が、多くの人々の行動を支える「経済社会」へと、日本社会は変貌していった。やがてそのことが近代において工業技術を西洋から導入するさい、定着を容易にしたのであった。
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速水融・宮本又郎編『日本経済史Ⅰ 経済社会の成立 19-18世紀』は未読であり、念のため後で内容を確認してみようと思いますが、三十年も前の本を「現在の日本経済史研究」の「代表」としている点だけでも、カルベ教授の浮世離れの程度はひどいですね。
丸山眞男の「古層」だの「執拗低音」だのを horse & deer の一つ覚えで繰り返している日本政治思想史の世界と違い、速水氏が先導した歴史人口学、そして日本経済史の世界は遥かに学説の進歩が速く、それはカルベ教授の上記要約と、前回投稿で紹介した速水氏の『歴史のなかの江戸時代』(藤原書店、2011)における認識が全く異なることからも明らかです。
1988年の時点ではまだまだ戦後歴史学の陰気な江戸時代像も有力で、速水氏等は旧来の学説への対抗上、明るい江戸時代像を打ち出す必要があったのでしょうが、その後、歴史人口学の一部でも、例えば鬼頭宏氏の「環境先進国・江戸」論のような行き過ぎがあり、更に「バラ色一色」の江戸時代像を説く通俗的な歴史書が広まってしまったことへの懸念から、反対方向への若干の揺り戻しが起き、バランスの取れた歴史認識に転化しているのが「現在の日本経済史研究」の状況ですね。
武井弘一氏の『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』も、そのような研究状況を反映した一冊です。
以前、カルベ教授が同書に「盛んな水田開発や肥料の投入の結果として、耕地が荒廃し、百姓がその土地を捨てて移住するという事例」が出ていると書いたことについて、それは誤読と指摘しましたが、そもそもカルベ教授が同書を自分の「バラ色一色」の江戸時代像を補強する材料として用いている点に根本的な誤解がありますね。

武井弘一『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』
http://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29f80f692bd7de5a39785d877cf69951

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

歴史という皮膚 2017/07/19(水) 15:14:13
小太郎さん
ご引用の速水融氏の発言の後半は、人として普通の感性だと思いますが、水谷・苅部両氏も普通の人の子でかつ普通の子の親のはずなのに、なぜ普通の歴史が見えないのか、不思議な気がしますね。自分はなにか特別な存在だ、と勘違いしているのか。

https://www.iwanami.co.jp/book/b261414.html
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書名は,たまたま全集が刊行中でもある田村隆一の詩からとったものである.この詩人の作品には,小学生のころに新聞でエッセイを読んだときから親しんできた.生まれ育った東京都内の場所も,わりあいに自分と近い.「歴史という皮膚」という言葉の含意については,離れがたい歴史というものに囲まれている思想のありさまと取ってもいいし,そうした「皮膚」を脱ぎ捨てて,理想の大空へとはばたきたい願望を示したと読んでもらっても構わない.いずれにしろ,切ったら血が出る「皮膚」が,「歴史」の形容に使われているところが気に入ったのである.
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『歴史という皮膚』「あとがき」の一部ですが、苅部氏の江戸時代史像は「切っても血が出ない紛い物の皮膚」とも言えますね。気になるのは、ここでも「東京っ子」を自慢していることで、ボクには地方の歴史なんてわからないし興味もない、ということなのかもしれませんね。ちなみに、詩とは次のようなもので、まあ、毒にも薬にもならぬような代物です。

   ぼくらは死に至るまで
   なおも逃走しつづけなければならない
   歴史という皮膚におおわれているばかりではない
   存在そのものが一枚の皮膚なのだから
       田村隆一「父 逃走ーホルスト・ヤンセン展にて」より

追記
http://www.yumebi.com/acv04.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AC
ホルスト・ヤンセンはこんな人なんですね。昔、ハンブルク美術館は訪ねたことはありますが、記憶にありません。北斎というよりも、エゴン・シーレの影響が強いような気がします。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/
明日発売予定の中公新書の内、亀田俊和氏の『観応の擾乱』は楽しみにしています(呉座氏の『応仁の乱』ほどのベストセラーにはならないと思いますが)。また、著者の吉原祥子氏は知らないものの、『人口減少時代の土地問題』は面白そうですね。 
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