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山川出版社・新版県史シリーズ『岩手県の歴史』より(その2)

2017-07-11 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月11日(火)11時28分13秒

つづきです。(p227以下)

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盛岡藩の四大飢饉●

 盛岡藩の飢饉のちでも、とくに元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は被害が甚大で、四大飢饉と称されている。
【中略】
<天明の飢饉> 天明三(一七八三)年から同七年にかけて発生した全国的な大飢饉で、とくに奥羽地方の被害が甚大であった。毎年のように気候不順で霖雨が続き、夏の土用中にも綿入れを着るほどの典型的な冷害となった。天明三年の盛岡藩は、「五月中旬より雨繁々降り候て稲長じかね、土用入り候ても北風吹き、暑気これなく、不時の冷気にて不順に御座候故、田畑不熟出穂あい後れ候上、八月十七日、十八日の両朝雪霜降り候場所もこれあり」(『雑書』)といわれ、十八万九二二〇石の減収となった。
 盛岡藩では、城下の東顕寺と報恩寺に救小屋を設けて飢人の救済に乗り出したが、それも有名無実に近く、飢人はおびただしい数に達した。東顕寺境内には文化七(一八一〇)年建立の餓死者供養塔があるが、それには天明三年十一月から翌年三月までのあいだに、餓死者四九〇人を供養したと記されている。全領ではついに餓死者四万八五八人、病死者二万三八四〇人、空家一万五四五軒、他領への逃散者三三三〇人を数えるに至った。そのうえ火付け・盗賊・米騒動などが各地に発生し、牛馬の肉はおろか人間の肉まで食べるものさえでるありさまであった。天明五年と六年も霖雨・低温・大風雨が原因で、それぞれ約一九万石と一八万石の減収となって、大飢饉に発展した。江戸時代中期の紀行家としても有名な菅江真澄は、『そとが浜風』のなかで北奥の農民の逃散の状況を伝えている。
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一般書なので、各種数字についての出典の明示は特になされていません。

東顕寺・餓死者供養塔

>筆綾丸さん
ご引用の箇所は、『江戸は夢か』の中でも特に奇妙な饒舌に流れている部分ですね。
1932・33年のウクライナの大飢饉にはずいぶん同情的な水谷氏が、なぜにハンレー・ヤマムラ著だけに基づいて盛岡藩における天明の大飢饉を夢まぼろしと主張できるのか。
ちょっと不思議な感じがします。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

時間の無駄? 2017/07/10(月) 22:40:01
『江戸は夢か』をパラパラ捲ってみました。
先に小太郎さんが引用された箇所のすぐ後で(162頁~)、
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 しかしなんのことはない、これらは貴族や関係者が、様々な目的から「粉飾」を加え、自分たちの困窮を訴える目的で作成した記録・文書でしたから、そこに残された貴族窮乏化の世界は、ずいぶん「内実」とはかけはなれたものになりました。
(中略)
「文書はそれによって利益を得るところに残る」というのが古文書学の常識だそうですが、その手前に「文書はその作成者に利益をもたらすように書かれる」という常識を確認する必要があるかもしれません。
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などと言っておきながら、「藩が内部行政に用いたと思われる「藩日誌」によると、この間僅かに二五〇人ほどですが、人口は逆に増加していることになります」(160頁)とあって、「藩日誌」の記述をまるで疑っていないのは、批判精神の欠如という以前に、ただただ呆れるばかりです。
水谷氏の杜撰な記述を引用して、
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 これに対して、当時の農村は貧しく、百姓たちは重い年貢負担に苦しめられ、貧困にあえいでいたという歴史像が、いまだに根強く流布しているのはなぜなのか、水谷三公『江戸は夢か』(一九九二年初刊、ちくま学芸文庫、二〇〇四年)は、その問いに対して、興味深い解答を提示している。(『「維新革命」への道』116頁)
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と賛同している苅部直氏も同類ですね。つまり、「軽薄も業界の通弊であるらしい」(『江戸は夢か』299頁)。そうして、『「維新革命」への道』を絶賛する細谷雄一氏は、「仲間同志の内輪褒めに余念がない」(『江戸は夢か』298頁)ただのお調子者ということになりそうです。こんな人たちの著作を読むのは、だんだん、時間の無駄のような気がしてきました。

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20170710_28/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%BB%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6
劉暁波の入院先をNHKが報道していて、どうも見たことがある建物だなと思ったら、瀋陽の中国医科大学附属第一病院でした(山崎正和氏の父君の元勤務先)。
ウィキに「新生中国で最初に設置された国立の医科大学」とあるので、死ぬときくらいは名門の大学病院にしてやるよ、という中国政府の有難い配慮と考えていいのでしょうね。

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山川出版社・新版県史シリーズ『岩手県の歴史』より(その1)

2017-07-11 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月11日(火)11時06分22秒

国会図書館サイトで検索した限りでは、『前工業化期日本の経済と人口』の書評は安場保吉氏のもの以外ないですね。
そこで、『前工業化期日本の経済と人口』の内容の検討はひとまず終えて、一般的には盛岡藩の天明飢饉時の状況がどのようなものだったと言われているかを紹介したいと思います。
入手の容易さも考慮して、最初は山川出版社の新版県史シリーズの一冊、細井計・伊藤博幸・菅野文夫・鈴木宏著『岩手県の歴史』(1999)から少し引用します。(p226以下)

『岩手県の歴史』
https://www.yamakawa.co.jp/product/32031

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9章 社会の動揺と学問文化
1 くりかえす飢饉と一揆

周期化する凶作・飢饉●

 東北地方の太平洋側では、初夏にヤマセとよばれる冷涼な北東風が毎年のように吹く。ヤマセは霧や霖雨をともなって、藩政時代にしばしば凶作・飢饉をもたらした。明治期以降になっても、ヤマセによる冷害が凶作をひきおこしたことがある。この被害をうけた農民の実態を、詩人の宮沢賢治は『雨ニモマケズ』のなかで、「サムサノナツハ、オロオロアルキ」と表現した。
 凶作の原因は霖雨・低温などによる冷害をはじめ、旱魃・風水害・病虫害・霜害などの自然的な災害を中心として、ときには野獣による被害の場合もあった。凶作を契機にして、食料が欠乏し多数の飢人と餓死者を出す現象を飢饉という。下野(栃木県)黒羽藩の家老鈴木正長は「きゝんは人間世界の大変なり」といって、貯穀の必要性を力説した。
 盛岡藩領の不作は江戸時代に大小あわせて九二回発生している。実に三年に一度の割合で不作にあっていた。減作率が前年比五〇%以上の凶作は、四年に一度の割合で発生し、さらに飢饉化した年は一七回を数える。これは一六年に一度の割合で大凶作・飢饉に襲われたということになる。「近ければ三、四十年の間にあり、遠くとも五、六十年の内には来るとおもうべし」(『農諭』)と指摘されているように、一般に近世の飢饉は周期的に来襲した。ところが盛岡藩の場合は、それを上回って発生頻度数では国内最高を示し、それだけ餓死者も多かったということになる。
 北奥に位置する盛岡藩は、領域は広大であっても、そのほとんどが山林原野に占められて耕地が少なく、生産力も低い状態にあった。しかも盛岡以北は水稲経営の限界といってもよい地帯であった。にもかかわらず、石高制にもとづく幕藩制社会はつねに財政的基盤を水稲生産力に求め、畑作より水田を中心とした水稲経営を強制したために、盛岡藩では気象条件に左右されて、畑作よりも田作を中心に凶作の発生率が高くなった。そのうえ、盛岡藩では剰余部分をすべて年貢として収奪しようとしたので、農民の生活は苦しく、そのために凶作の程度は軽くとも、つねに飢饉に転化する恐れをはらんでいた。
 江戸時代の領主権力は、幕藩制的市場構造の特質に規定されて、飢餓移出ともいうべき領内米の江戸や上方への販売を余儀なくされていた。このことが飢饉をうみだす要因の一つでもあった。一方、凶作時に実施された大名領ごとの津留は、他領の飢饉をいっそう激化させた。また凶作や飢饉の対策にしても、それが領主単位で個別に行われたために、政策のいかんによっては飢饉の程度も大きく異なっていた。これらのことを考えあわせると、飢饉は幕藩領主支配のあり方とも深くかかわっており、そういった意味で前近代社会における人為的災害であったともいえよう。
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ひとまずここで切ります。
「あとがき」によれば、引用部分の執筆者は岩手大学教育学部教授(当時)の細井計(ほそい・かずゆ)氏ですね。
細井氏は1936年群馬県生まれ、1967年東北大学大学院文学研究科博士課程修了とのことで、語彙や文体から、いわゆる戦後歴史学系の人のような感じはします。
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