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武井弘一『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』

2017-07-03 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 7月 3日(月)13時14分50秒

『「維新革命」への道─「文明」を求めた十九世紀日本』に武井弘一氏の『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』(NHKブックス、2015)が「近年話題になった業績」として登場していて、恥ずかしながら私は未読だったので、さっそく読んでみました。

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肝心のコメ作りが 持続困難になった

「江戸時代は環境にやさしいエコ社会」と、誰もが思ったことがあるだろう。平和な世の大開発は田んぼを増やし、人口を増やし、生態系をも充実させた――。だがその一方、社会の深層では別の問題が生み出されていた! 農民の生活を忠実に分析し、農業生産が陥った深刻な矛盾を描き出す気鋭の力作。
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000912302015.html

しかし、苅部氏の同書の紹介の仕方は些か奇妙ですね。
まず、苅部氏が同書に言及している箇所を引用してみます。(p115以下)

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第五章 商業は悪か

経済発展と儒学思想

 前章では徳川時代がめざましい経済成長期であったようすを見た。十七世紀にはすでに、大坂を中心に全国規模の商品流通のネットワークが完成し、農村での生産力も拡大して、史上かつてない繁栄の時代へと、日本は突入していったのである。
 ただしもちろん飢饉の場合のように、百姓が飢えに苦しんだ悲惨な事例も記録されているから、農村が豊かであったと強調するのも一面的な見かたに陥ってしまう危険性はあるだろう。だが農業史の研究によって明らかになったところでは、この時代には、品種改良や農業技術の発展が進み、生産力の水準は上がってゆくのが基調だったと考えられている。近年話題になった業績である、武井弘一『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』(NHKブックス、二〇一五年)によれば、盛んな水田開発や肥料の投入の結果として、耕地が荒廃し、百姓がその土地を捨てて移住するという事例まで現れていた。
 農業生産力の上昇は、徳川時代を通じて農村の死亡率も平均寿命も改善され続けていたというデータによっても裏づけられる。この二十一世紀の世界であれば、医薬品の発達によって乳幼児の死亡率が劇的に下がった結果、貧しい国々の方が人口が増えるという現象も起こりうるであろう。だがそうした条件のもとにない前近代の農村が、もし全般的に貧困にあえいでいたならば、平均寿命が長くなることはありえない。一般の傾向としては、飢えに苦しむ百姓というステレオタイプの庶民像は、実情に即していないのである。
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私は「盛んな水田開発や肥料の投入の結果として、耕地が荒廃し、百姓がその土地を捨てて移住するという事例」を探しつつ『江戸日本の転換点─水田の激増は何をもたらしたか』を最後まで読んでみたのですが、直接該当する事例はないですね。
苅部氏が触れているのは、おそらく「第五章 持続困難だった農業生産」に出てくる播磨国の蜷子野(になごの)新田のことだと思いますが(p188以下)、ここは周辺の村々の草山だった土地に、幕府の命令で無理やり新田を作ってはみたものの、

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 幕府の主導で始まった蜷子野新田がその後どうなったのかといえば、水源を確保できず、鳥獣害にも悩まされたことから、しだいに荒蕪地と化し、年貢の納入も難しくなっていった。その結果、百姓たちはこの耕地を捨て、開発から八十年余り経過した文化年間(一八〇四~一八)頃には、新田はもとの原野に戻ってしまった。
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というケースです。
蜷子野新田は水利に恵まれない土地なので「造成されたのは水田ではなく畠」であり(p190)、もともと周辺の村々が草肥を採取する草山であって、およそ「肥料の投入の結果として、耕地が荒廃」するような場所ではなく、更に実際に「入村した百姓は少なく、多くは十二カ村から百姓が出向いて耕していた」ので(p191)、耕地として機能しなくなっても「百姓がその土地を捨てて移住」した訳でもないですね。
ということで、ここは苅部氏の単なる誤読ではないですかね。

>筆綾丸さん
苅部氏の『丸山眞男─リベラリストの肖像』(岩波新書、2006)を入手してパラパラ眺めてみましたが、母親が「長州萩に生まれた明治育ちの良妻賢母」で(p115)、

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助教授発令の辞令をうけ、「叙従七位」の位記が自宅に届いたとき、「浄土真宗の篤い信者」だった母、セイは、それを仏壇にあげ、手をあわせた。だが父、幹治は一瞥しただけで、正一位の「お稲荷さんにはまだ遠いな」と哄笑したという。
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のは(p95)、ちょうど石母田正の父母の宗教観を連想させて面白いですね。

無神論者の「石仏」氏
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7a1db8efd8967931c0765319dfce0203

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

公儀と basso ostinato 2017/07/21(金) 03:45:35
小太郎さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%84%80
つまらぬことで恐縮ながら、「公」の字は、公家・公卿・公文所・公式令・公界・公暁等のように、普通は「く」と訓まれますが、「公儀」は「くぎ」ではなく何故「こうぎ」と訓まれるのか、渡辺・苅部両氏に尋ねてみたい誘惑に駆られます。
たぶん答えてくれないと思いますが、師弟が執拗に拘泥する「公儀」は「くぎ」と訓むほうが歴史的一貫性があり、大御所丸山眞男の説く「執拗低音(basso ostinato)」とも思想的に合致するのではあるまいか、と思われます。
『日本政治思想史研究に於ける「大公儀(丸山)-中公儀(渡辺)-小公儀(苅部)」系譜(genealogy)の成立・発展・消滅に関する若干の予備的考察』というような長たらしい論文の不毛性(sterility)・・・。
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