五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

宝物を携えて

2007年09月30日 | 第9章 愛
人生のうち、ひとりでいいから、自分の為に一所懸命関わってくれる人に出会ったら、その人は、悔いなく生きる道しるべを得られるように思います。

10年関わろうが、数分の関わりであろうが、その時間の長さは関係ありません。

〝自分の為に一所懸命関わっている人〟と思える相手だと判断するのも自分自身です。

この数日間、多くの方々の感情の曼荼羅、暮らしぶり、考え方に接してきました。
どの人も、人との出会いで気付く喜びを言葉にされていました。

自分が愛されていると感じることができたら、その人は幸せです。
悔いなく生きる道しるべ。
その道を歩くのは自分自身ですが、一人では孤独で寂しくて、不安です。

だからこそ、自分にとって大切な人に愛されていると感じたら、愛することを躊躇しない自分でありたいと願うのです。

愛し愛されることで生み出されるものは、かけがいのない自分自身の宝物。
宝物を携えて、また一歩踏み出します。

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空を仰ぐ

2007年09月25日 | 第2章 五感と体感
中秋の名月

今朝の横浜は、雨がぱらつき、月を眺めるのは無理かと思っていましたが、日中空を仰ぐ余裕も無く動き回り、夜の十時半頃急に思い立ち、窓から空を見上げました。

満月はあと二日先。少々左が欠けたお月様が、白くはっきりと輝いています。

古の人々は、この月明かりで秋の夜長の虫の音を愉しんだのでしょうか。

私といえば、家中の電灯をつけ、ごそごそと衣服の整理。
今やらねばいつやる。。。思い立ったら吉日。明日のこと、次のことをついつい考えて行動していまいます。この性分は、自分の一面でもあり、もともとボンヤリした性格にもかかわらず、親にしつけられたことが身についてしまったような気もします。
とにかく「事を忙しくする貧乏性と」いってもいいかもしれません。

片付け物が終わり、時計を見ると10時過ぎ。

お風呂に入り、さっぱりしたところで一杯の水を飲み、南の空を仰ぎました。
私がごそごそと動き回ろうが、静かに本を読もうが、お月様は、そこに在ります。
変わらず、そこに在るものなのです。

窓を開け、パソコンに向うと、いろいろな虫の音が聴こえてきました。

千年前も、今も、自然がつくりだした心落ち着くものは何も変わらないと思うと、貧乏性の私も、少しは気分が沈静化するように思います。

そして、「変わらずに在るもの」を見ようとすると、私の心が見えてくるようです。

白く輝く中秋の名月を日付の変わらぬうちに再び仰ぎ見、暫し瞑想でもいたしましょう。

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秋の味覚をお裾分け

2007年09月22日 | 第5章 和解と平和
釧路に郷里のある友人が、秋刀魚を届けてくれました。
産地直送のぷりぷりした秋刀魚。

お彼岸の墓参りに出かける前に、ご近所にお裾分け。

早速お刺身にするとおっしゃる方。
塩焼きに、とおっしゃる方。
我が家の両隣、今晩の夕食のおかずは間違い無く「秋刀魚」です。

結局、私の母もクーラーボックスを車に積んで、やってきました。
食い気とあらば、猪突猛進のイノシシ干支の母。
戦時中の体験から「食べ物」に関してのこだわりは、大変なものです。

結果的に一人の方から送られてきた秋刀魚は、縁ある5家族の食卓に。

一人で頂くよりも、沢山の方々が、顔をほころばせながら頂く方が幸せです。
分け合うことから、会話が生まれます。
理解も深まります。

しかも、秋刀魚の取り持つ縁と、母が駆けつけてくれたおかげで、都内にある二つのお寺のはしごをし、三つのお墓をお参りすることができました。

私の両祖父母、義父母、叔母、義叔父、そして遠いご先祖様も、きっと天上で秋刀魚の味を味わう私達をニコニコ眺めていることでしょう。
相変わらず、食い気だなぁ~、と。

本日の味覚の幸せを皆さんにもお裾分けいたします。

そうそう、お萩も頂いたことを付け加えておきます。

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個性の美しさを観る

2007年09月21日 | 第5章 和解と平和
五感と体感は、一人一人、違います。
同じ匂いを嗅いだからといって、同じことを思い浮かべるわけではありません。

今日は、私の母の絵画教室の日。長年の私の友人が母に絵を教えてくれています。
お天気が良いので、外での写生会となり、私の家の近くの公園で、今年最後の蓮の花をスケッチすることとなりました。
朝早くに集合したので、私が覗きに行った頃には、既に何枚目かを取り組んでいたようです。

先生である私の友人は、生徒さんと同じように、集中して蓮の花を描いていました。
描く絵が楽しそうでした。
そして、描いている皆さんの姿は、凛として、対象物を観る目に自信のような強さや豊かさを感じ、イキイキとされていました。

描くという場を作り、時間を共有するだけで、「描く時間」を持つことができるのです。一人では、なかなかそのような時間は持てません。
限られた時間内に集中して一つのものを作り上げる経験は、自分の五感と体感を磨く良い機会だと思います。
母も、珍しく飛んできた青サギを蓮の風景に入れ、柔らかい蓮の葉を描いていました。

五感と体感をどのようなカタチで表現するか、それも、その人次第です。
そして、表現したものを他人がどのように感じ取るかもその人次第です。

文章で表現したもの
音楽で表現したもの
料理で表現したもの
書で表現したもの
衣服で表現したもの

自分の思考と感情と行動から生まれた「表現」に自信を持って生きることの大切さをしみじみ思った午前のひとときでありました。

生き甲斐の心理学を学び、その普及活動をしている私は、この活動自体が私自身の生き甲斐です。
出会った方々の個性の美しさを感じ取り、その美しさを大切にするとそこから信頼が生まれます。
そして「その方自身の良い方向」に何らかの道が開けた時の歓びは、ほんとうに言葉になりません。

丁度3年前に自殺した親友を想い、今日のブログを書きました。

自分の「個性の美しさ」を知ることは、同時に「生きること」です。
答えは、必ず自分自身の内に宿っています。

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萩が咲きました

2007年09月16日 | 第2章 五感と体感
まだ先だろうな、と思って三日間勉強会で家を留守にしました。

帰宅すると、誰もいません。
息子は部活の試合で留守。
ご主人さまは、庭の草刈をしてくれたらしく、駐車場に雑草やら枝が詰められた袋が二つばかり置いてあり、どうもその後、スポーツクラブに行った気配。

そんなつかの間の時間、夕食をつくるにはまだ早いので、開花のお知らせを書くことにしました。
秋風は吹いているのですが蒸し暑く、辿りついた我が家にホッとし窓を開けると、咲いてる咲いてる。

今年もやってきました。萩の花。
先日の台風でまとめてあった枝がばらばらになり、重たいので持ち上げることもできず、そのままにしていたら、良いあんばいに枝が垂れ下がり、居間で座っている私が目線を上げずに観ることができます。

まだ少ししか咲いていませんが、今週末には満開になりそうです。
月見酒ならぬ、萩見酒でもいたしましょう。
今週我が家で立て続けにある勉強会にいらっしゃる方は、ちょっぴりお徳かもしれません。

風に揺られてサヤサヤと音を立て、秋の匂いを運んでくれます。

先日訪れた函館は、秋から冬へと一気に向うのでしょう。
こちらはようやく足踏みしながらやってきた秋の贈り物。
少しずつ愉しんでゆくことにしましょう。

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五感と体感の長新太

2007年09月13日 | 第2章 五感と体感
「ごろごろにゃーん、ひこうきがとんでいきます」
「ひこうきは、ごろごろ」
「ねこは、にゃーん」

いま、横浜のそごう美術館で、長新太展が開催されています。
イラストレーターであり、絵本作家。
一昨年に亡くなりました。

絵本「ごろごろにゃーん」は、衝撃的でした。

子供が幼稚園の年少さんのときに出合い、魚類好きの息子も、その絵本のとりこになりました。
飛魚のようなかたちをした飛行機に猫が乗り、「ごろごろにゃーん」と飛んでいくのです。どのページを開いても、「ごろごろにゃーん、ひこうきがとんでいきます」と書いてあります。飛行機の窓ひとつひとつに猫の顔が描かれています。一匹ずつ魚を持って。

フレーズの反復が何故かコミカルで親しみを感じるのです。

絵本を読んであげると、ページをめくるごとに息子も覚えたせりふを声に出し、大喜び。

絵は、一見粗雑に感じるのですが、長さんの情動が絵筆に移り、それが、そのまま絵となっていくように思います。

枠を持たず、情動に素直で、ストーリーはあるのですが、とんでもない発想を躊躇する事無く堂々と描き通すのです。そして、皮肉もしっかりと忘れない。ユーモアのセンス抜群。おとぼけも最高。

「おとなこども」の長さんは、情動の体感をしっかりと絵で見せてくれるわけです。

自分の感じた感性に自信をもって、ストレートに表現する。すると自然にワクワクした気分になり、頭で描いた小さなものが、ほんとうにくだらなく見えてくるのです。

息子もこんな風に育って欲しいと願いながら、子育てしてきたつもりです。
してきたつもりでも、子供は、どう思っているか、それは分かりません。
見た目では、のびのびしてはいますが・・・。

頭の中の脳みそが詰っちゃってる、、と思われる方は、是非この展覧会に足を運んでみてください。お薦めです。

絵本もたくさん出てます。

「おしゃべりなたまごやき」「ゴムあたまポンたろう」「キャベツくん」「あわてんぼライオン」「ごろごろにゃーん」「ころころにゃーん」などなど。。。

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憧れ

2007年09月11日 | 第3章 無意識の世界
何を求めて生きるか。

何を大切にして生きるか。

生を受けた瞬間から現在に至るまでの経験が、自分の体内の無意識から意識へと変換された瞬間を感じ取った三日間を体験しました。

それは夏の始まりに、ある観想修道会の儀式に招待を受けたことから始まったように思います。

生涯、その聖堂に足を踏み入れることは出来ないだろう、という思いと同時に、きっとその機会は訪れるだろう、という確信に満ちた期待が自分のイメージの中に共存しながら、ずっとずっと待ち続けていました。
35年前にその修道会で求めた十字架は、誰にも祝別されることなく、ずっと私の懐にしまわれていました。

(子供心にその十字架に惹かれ求めた話は以前、ブログに書きました。)

幼い頃に、祖父のアトリエで感じ取った「柱のようなもの」。神社の銀杏の木の下に佇み、機織り工場の音が響く中、そこから見えてきた「何か尊いもの」。
どれもこれも、私が生きるために必要なツールでした。

聖堂に座り、船越桂氏の作品、サルベの聖母像を見上げました。
その作品に出会うことは、私の「憧れ」。

1977年につくられた聖母。
船越桂氏も、まだまだお若い時でありましょう。
若さであるからこそ、表現し得たもの。
その聖母から、母性というよりも、処女性の強さを感じました。
若葉の香りというか、カモミールの香り、と表現するのが相応しいかもしれません。

青々しい香りの聖母が、イエスを抱き、音無く姿を顕わすのです。
とても静かです。

「自分の尊い命を 生涯その修道会に捧げる儀式」

戒律の生活。確かに厳しいでしょう。
私自身、式に臨むまで、かなりの緊張感がありました。
ところが、そこから見えてきたものは、生身の人間が醸し出す、「愛」そのものでした。
柱に殉じ、祈り、働き、学び、日々を繰り返すことは、自己の内を広げるための大きな役割を果たし、きっと修道者の方々の喜怒哀楽の豊かさは、多分私の想像を超えるものではないでしょうか。

・・・内なる内は外である・・・

内なるもの、本当に求めたいもの、本当に大切にしたいもの、それらを見据えると宇宙のように広がる外へと開放されていくのを感じます。

それは、言葉で表すならば、「愛」の一言かもしれません。
それ以外、思い浮かびません。

そして、ありがたいことに、35年前に求めた十字架は、ついに祝福を受けることとなりました。

人生における体験や解釈、そして想いの「パズル」が綺麗に繋がり納まる出来事は、やはり、憧れ、求め、大切に思い続けると、叶うようになっているのかもしれません。
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見えてくるもの

2007年09月02日 | 第2章 五感と体感
この夏は、大切な人との別れから始まり、そしてその人の魂が私の「身体に宿る柱に」スンと納まることで、夏が終わりとなったような気がしています。

今日は、そんな「身体に宿る柱」にスンと納まる、身体に良い体感を味わってきました。

泣く、という感情表現はとても大切なことだと思います。
もらい泣き、悔し泣き、悲しくて泣く、恐怖、不安からの涙、そして、歓びの感動から溢れる涙、いろいろです。
涙は、言葉では表わすことの出来ない心の情景とでもいえるかもしれません。

この2ヶ月間、数ヶ所で、その方との別れを悼むミサ(カトリック)に与かり、同時に自分の心を見つめてきました。
今日の追悼ミサはその方が生まれ育ち、司祭として巣立った教会で行なわれました。

御聖堂には、ご両親、ご姉妹、そして共に育った人々、育てた人々、それぞれの強い想いと祈りが込められ続けています。
やはり、違うのです。他の御聖堂とは違う感覚を、入った瞬間に感じました。
でも、それは特別なものではなく、静かで安らかで、安定した空気感なのです。
観想修道会の御聖堂で感じるものと同じようなものでした。

そして、人々の呼吸と共に魂が一つになる不思議な体感を覚えたのです。

これは、あくまでも私の体感から来る「自己概念の再構成」といわれるものなのですが、
その体感が、ほんとうに私を泣かせてくれました。
気持ちが良かった・・・。
涙が心を浄化するって、このことなのか、、つらつら想い帰路につきました。

夏の終わり。
秋の始まり。
そして、待降節へと導かれていきます。

心と身体が、スンと納まり、また前を向いて歩いていくとしよう。
過去でもなく、未来でもなく「今」を見据えて。

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秋の始まり

2007年09月01日 | 第2章 五感と体感
急に涼しくなりました。

庭から聞こえる虫の音も、なんだか急に寂しげに聞こえてきます。
真夏の頃までは上り坂のような気分でいましたが、涼しくなった途端、下り坂を歩いているような気持ちになるのは何故でしょう。

人の感情、というのは単純だなァ、と思います。

気温が下がり、ちょっと過ごしやすくなった途端、自分の置かれている環境ががらっとかわったように思えるのです。

9月に入り、また勉強会が始まります。
「生き甲斐の心理学」の勉強会に関わっていらっしゃる方々との再会を楽しみにしています。

9月7日池田の勉強会もいよいよです。

通信講座のワークショップも9月14日~16日と、せまってきました。
「ロジャーズのパースナリティ理論」

NPO法人主催の勉強会は、どなたでも参加可能です。
詳しくはHPをご覧下さい。

きっと、また新しい出会いもあることでしょう。
過去でもなく未来でもない、「今」、この時を大切に、「得ること」「育むこと」を大切にしていきたいものです。

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