五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

振り回されている

2010年02月05日 | 第3章 無意識の世界
私に限って、そんなことはない。振り回されているわけがない、、、という思い込みが、自分の軸をぶらせていきます。

先日、私もそのような体験をしました。
「私に限って、人に振り回されるわけがない」
こんな思い込みの強い人ほど、「今日は俳優になりたい、明日は警察官になりたい」という人に振り回されたり、オレオレ詐欺にだまされたり、するのだ、と自分でも反省しました。
それでも、心理学の学びをしていたおかげで、私がヘンなのではなく、相手がヘンなのだ、という自信を持った結論に達しました。身内の集まりほど、現実吟味力が低下していくのです。。。私の場合、そこが落とし穴でした。

悩みの深い人が、「ピアノを習いたい!」と言えば、家族は喜んで、ピアノの先生を探します。でも、数日経つと、その夢も覚め、今度は、「俳優になる!」と閃き、また家族は、俳優になるための学校を探したりします。それも、数日経つと、違う夢にすり替わっています。

確かに悩みの深い人のアイデンティティを考えることは、とても大切なことです。

でも、その前に、関わる人のアイデンティティをじっくり自己確認してから関わったほうがよさそうです。家族といえども、同じ体と心を共有しているわけではありません。

二人の関係の中で、関わる人の「統合性」はとても大事なポイントだと思います。

関わる人が、一緒に揺らめいていたら、悩み深い人は、一層揺らめいていきます。

一緒に悩みの淵に落ちる前に、気付いた人から勉強し、カウンセリングの理論の知識を身につけたほうがたほうがよさそうです。

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ほめること信頼すること

2010年01月27日 | 第3章 無意識の世界
相手ときちんと向き合い、正面向いて話を聞いていく姿勢と、相手を信頼している状態が、相手にきちんと伝わっているかどうか?

悩みの深い人に眉間に皺を寄せて、深刻な表情をして対応しても、緊張感は緩みません。

「話を聞く」立場である時は、いつも、そんな自分自身の姿を幽体離脱しているように自らを観察する必要があります。それだけ気を遣います。でも、「相手を信頼する」気持ちがあれば、聞く立場の人は自然と表情が柔らかくなり、おのずから自然体になっていきます。

世の中、ほめられたい人が多いらしい。。。

では、「ほめられたい」人は誰かを「ほめている」かな?

「する」「される」は、あなたと私という関係性の中で成り立つものです。

ほめる人が増えれば、ほめられる人も同じように増えていきます。

一方通行では、相互関係は生まれません。

ほめることは、相手を信頼することと同じです。

「非難したりネガティブな考え」は、「ほめたりポジティヴな考え」よりも安易に湧いてくるようです。
人の本質は、不安感だといわれています。

信頼しほめることを意識する訓練を積んでいきたいものです。

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無関心

2009年12月02日 | 第3章 無意識の世界
無関心さは、どこから芽生えてくるのかな。。。

昨日の新聞記事に、子供の暴力が増えていることが書かれてありました。
記事に反応はしても、「自分と子供の関係は、どうなんだろう?」と改めて自問自答した人はどのくらいいるんだろう?

社会的な事象に関心があっても、いざ、自分の子供のこととなると「遠い太鼓」のように響いてくる方は多いと思います。それはある意味で「無関心」と同じことだと私は思います。

社会問題は、まずは「私」と「あなた」の関係という基本から始めていきたいものです。

ガンジスの砂粒のように、「あなたと私」の関係から繋がりは広がっていくのですから。

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五感と成育史 3

2009年11月19日 | 第3章 無意識の世界
意識されず、無意識の世界が自分の行動を支配している場合もあります。

特別な人がそうだ、というのではありません。

私自身も同じく、自己の意識を超えた無意識の世界を持っています。

たとえば、成育史もその一つです。

赤ちゃんのころの体験は、覚えているものではありません。でも、そのとき意識していたものが体感として残り、自分の知覚と解釈の仕方に関係していることもあるようです。

「遺伝と環境と老化」という概念を思い浮かべると、成育史と今の自分のモヤモヤが、何かと繋がるかもしれません。

無意識の世界…

ユングは、それに着目しました。
チベット死者の書には、その無意識の世界が表現されており、それがいくつもの「感情」として、具体的に書かれていることに驚き、気づいたわけです。。。

ロジャーズの理論にも通じるものがあります。

ぼちぼちと何度も何度も繰り返し勉強しながら、自己の成育史の理論武装・自己分析をやっていこうではありませんか。。。

カウンセリングの学びは、他者分析や他者事例を学んでも、あんまり意味がないようです。まずは、自分のことから始めたいものです。他人の悩みに関わることは、そんなに簡単なことではありません。


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チベット死者の書・バルド ソドル

2009年11月07日 | 第3章 無意識の世界
「埋蔵経」ということばがあります。

「偉大な経典は、しかるべきところに隠され、その経典が必要な時代に発見される」…仏教の世界の話ですが、キリスト教の死海文書とも似ているように思います。

その埋蔵経のひとつが「チベット死者の書」(英訳)本当の題名は[バルド ソドル]といいます。

「誰かによって発見され、意味のあるものとしてその時代に必要なものとして大切にされていく」

未来永劫を祈った人々が、どんな思いをこめて経典を埋蔵したのかは、学者にお任せするとして、心理学を学ぶ私たちにとって読まなきゃ、話にならない、というくらい必要不可欠な「チベット死者の書」のお話を数日間語っていきたいと思います。

この本に私が出会ったのは学生の頃でした。30年くらい前のことです。
その時に読んだのは、「ニンマ派の書」です。

これは、18世紀にオックスフォード大の人類学者エヴァンス・ヴェンツがインドの古道具市で見つけたものです。それを英訳し、今度は心理学者ユングが読みました。
ユングは、このチベット死者の書を読み感銘を受け、個人の意識を超えた無意識の世界を心理学に応用していきました。

1960年代には、ハーバード大の心理学者ティモシーリアリーが、麻薬による幻覚作用と死者の書の修行の行程の共通性を論文発表し、それが当時のヒッピーに愛読されるようになり、学界から無視されることとなりました。

現在、私たちの勉強会では、ニンマ派ではなく、ゲルグ派を使用していますが、ユングの原型論を体得しようとするならば、私個人としてはニンマ派のほうがわかりやすいかな、と思います。無意識の意識化は、理論と実践、両方から作業していかないと誤解を招く恐れがあるかもしれません。
「比較宗教学的見地に立った心身ともに健全な世話人」のもとで学ぶのがベストだと思います。

続きは明日に

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探し物

2009年09月06日 | 第3章 無意識の世界
数か月前に支払った領収書がとうしても見つかりませんでした。

在るべき場所に保管しておらず、ありそうな引出しの中をひっくり返しても出てきません。

数か月前の記憶をたどろうとしても、そんな時ほど、思い出すわけもなく。。。
手帳を眺めながら自分の行動を思い出そうとしましたが、これまた必殺技の過密スケジュールの中でのやり取りだったため、そんな細かいことはすっかり記憶喪失です。

あくる朝、ふと、自分の傾向を思い返し、瞑想???…

ありましたありました…

数か月使っていなかったバッグの中に

あたふたと探し物をする前に、「こんな時」の自分の傾向というか、癖というかを冷静に自覚し直す必要がありそうです。。。

カウンセリングの理論は、そんなところにも役に立ちます

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理想と現実のギャップ

2009年08月27日 | 第3章 無意識の世界
昨日は、不安感に踏みとどまってみることを書きました。

不安感に踏みとどまることができず、すぐに何か違う話題にすり替わってしまう…

不安感に踏みとどまることができず、相手を非難したり、攻撃したりする…

不安感に踏みとどまることができず、妄想のような夢を描く…

不安感に踏みとどまることができず、具合が悪くなったり…思い込みが強くなったり…

理想と現実のギャップに気づかず、現実吟味力に欠けて、防衛機制が過度に反応している時は、同じ傾向の話題ばかりが衛星のようにぐるぐる回り、関わっている側は、だんだんと取り込まれていきます。

理想と現実のギャップ
理想は「せねばならない」とか「成育史上の概念」です。
現実は湧き出す本音の感情です。

人の悪口や罵倒する言葉そのものは本音の感情ではなく、何らかの感情が湧き上がる結果、表現される言葉です。だから、その言葉の裏に隠れている「感情」があるはずです。でも、いくら親でも親友でも、その感情を代弁する言葉できません。
本人にしか分からないからです。

本人が気付く本音の感情…
自分の不安感と向き合うことが今は無理でも「本音の感情」という言葉を思い出すだけでも何かが変わるかもしれません。

焦らないで、ゆっくり…

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錯乱状態を静める

2009年08月07日 | 第3章 無意識の世界
突発的な事態が起こった時に、その瞬間自己に湧き出す感情を思い出してみると、自分の傾向、個性がよくよくみえてきます。

予期せぬ出来事は、自分との関わりの度合によってずいぶん違います。

世間で起きた予期せぬ出来事。
身近な人に起きた予期せぬ出来事。
家族に起きた予期せぬ出来事。
自分に起きた予期せぬ出来事。

世間で起きたことが、まるで自分に起きたかのように不安にかられたり、
自分に起きていることなのに、まるで他人事のようになったり、
あまりのショックで、口に出せなくなったり、あるいは自分のプライドが傷つくことで、周りに当たり散らしたり、、、

自分の身に起こったことで錯乱している人がいたら傍に居る人が、ひたすらひたすら黙って聞くことで、だんだんと自分の意識が感情の錯乱から解釈へと繋がっていくはずです。

答えは自分の内に必ずあります。
でも、ひとりではなく、傍にいる人の存在が自問自答を促すはずです。

良いとか悪いとか、そんなことは、人によって解釈はまちまちです。。。
倫理道徳による概念ではなく、
自分の傾向を知っておくことは、自分の身を助けます。

地球上の65億のヒトは全て違う個性を持っていますが、ヒトとヒトとの繋がりでヒトは生かされていることも忘れないようにしたいものです。

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四十肩

2009年08月04日 | 第3章 無意識の世界
家の外構メンテナンス、足場が外れようやく落ち着いたと思いきや、今度は自分の体をメンテナンスしなくてはいけない事態に(×へ×;)

昼から出掛け、いくつかの用事を済まし過ごしているうちに、みるみる右肩が痛くなり、握れなくなってしまうくらい。。。自分の腕の重さに耐えきれず、左腕で支えて帰宅。。。トホホ・・・

四十肩(五十肩目前!)や椎間板ヘルニアを経験しているので、この不穏な状況に危機感を抱き、頼りにしている近所のヨロズ先生(何でも診てくれる)に駆け込みました。

肩関節周囲炎。。。やはり、四十肩。。。トホホ。。。

ブログが書けるくらいなので、生活には支障ありませんが、腕が上がらず不便です
家族が不在の日だったので、夕食は気楽にラーメン屋さんでタンメンを頂き、女主人と四十肩体操の仕方の話題で盛り上がり「右肩の次は、左肩よーー、」と脅かされ帰宅。

暫くは、この痛みと付き合いながら、しょうがない、、仕事仕事。。。

夏風邪に気をつけなきゃ!と気を付けていたのに別のところに表れるとは

ま、人生、こうやって思いがけないことの繰り返しだわね

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自我との関わり

2009年07月29日 | 第3章 無意識の世界
ふわふわした状況の中で「自我」というものに衝撃的な出会いをしたのは、過去に数回あります。

どういうことかというと、自分が自分であることの出会いという意味です。

現在の私は、ある場合においては逃避しているものもありますが、自我との関わりの中でしっかりと自我を意識している率が高くなってきたように思います。

思春期の長さは、人によってまちまちですが、私の場合は30歳くらいまで思春期だったように思っています。
自分の中で起こることへの決定、決断、責任感・・・
かなり欠落していたように思います。

自分の責任で行う諸々のことは、考え方も行動も感情もいつも何かによりかかっていたように思います。

だから、何か所在なしにフワフワしている、そんな表現が正しいかもしれません。
フワフワしていると自己を管理する自己責任の所在もフワフワしています。

一番衝撃的な自我との出会いは、「神様は私たちに自由意思を与えてくださった」ということを知った時です。

ということは、自分が選ぶことも、決定することも、行動することも、自分という身体が自分でやらなきゃ始まらないことだ、ということです。

答えは、自分の内にあることに気づかされた瞬間でした。

このことを「当たり前だ!」と思われている方は本当に幸せです。

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あるがままの感情

2009年07月08日 | 第3章 無意識の世界
昨日、理性と感情について書きました。

理性は、動物に備わった経験(遺伝も含む)による抑制力や、倫理道徳、社会規範の概念からくる「感情を抑える力」だと私は解釈しています。

感情は、自然と湧き出す自己の感情です。思考とは違います。思考は湧き出す感情から派生する、その人の経験による考え方や思いのことであると解釈しています。
だから「感情」と「思考」は、分けています。

では、「あるがままの感情」ってなんだろう?

倫理道徳に囚われることなく、あるがままの感情を感じとる作業は「あるがまま湧き出す感情を意識」していなくては、意識化することができません。
意識化する、ということは、ある意味理性で読み取ることだとも云えます。
矛盾するようですが、理性なくしては、あるがままの自己感情を意識することができません。

「あるがままの感情」
単純に表現すると、「好き」「嫌い」、「怖い」「怖くない」、「安心」「不安」そのような対極的な感情の意識化から始めてみるのもよいと思います。

「好き」であるのに、わがままを言って相手に嫌われるような言動や行動を起こしたり、「嫌い」であるにに、倫理道徳に惑わされ好きであると思いこんでいたり・・・または、「嫌いである」感情を表出できず、意識に上げていなかったり。。。そんなこんなで、自分自身も「感情」から派生するあらゆる「思考」を経験しながら生きているわけです。

「好き」「嫌い」の感情を思考操作する前に、それらの感情を瞬間でも良いから、自分の中で一旦落としてみると、「意識化」が計れます。

今日も「あるがままの感情」を大切に・・・

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理性と感情

2009年07月07日 | 第3章 無意識の世界
腰越勉強会、早くも第六回。年間の中間地点となりました。
海から吹く風が湿度の高さを抑えてくれたので、下界よりは過ごしやすかったと思います。そうはいっても、梅雨の蒸し暑さからは、いい加減解放されたい気分です。

今日のお題は「理性と感情」について。

このテーマを自問自答していくには、自己開示の訓練が必要かもしれませんが、今ここでの感情を最も大切にしながら、今現在の自分の現実吟味力の範囲で考えていくことが一番ふさわしいかな、と思いました。

自分の感情と自分の理性は、私という中でのどのように使い分けているか?または、自分の思考と行動において、どちらが優先されるか?

そのような内容をブレーンストーミングしていきました。

私は根本的には、「感情」優先です。でも感情が湧きあがりながらも、行動や思考するときに、理性が働いています。それが、抑制の利いた大人の理性ならば、気に留めることはありませんが、ある事例に出合うと理性的に思考すべく無理に抑制することもままあります。それが防衛機制のなかのなんであるかは、これから考えようと思います。

あるがままの感情が、あるがまま意識の上に上げられれば、別に言語化する必要もありません。意識の上にあがってきたものを意識的に抑制したとしても、一回は意識の上に確かに上がっているのですから、抑圧とは云い切れません。

私自身「理性と感情」を考える前に、「抑制と抑圧との関係」を今一度、吟味してみようかな、そう思った勉強会でした。

気候に相応しく、じっとりと重たいテーマであったことは確かのようです。

皆さま、お疲れ様でした。
ご師匠様、ありがとうございました。

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切り替え

2009年06月15日 | 第3章 無意識の世界
よくよく考えてみると、昔は定期的に「頭を空っぽにして、何にも考えない数日間」をとるために旅をしました。「一気に時を駆け抜け、全てを片付けたら、荷物をまとめて飛行機に乗る」という旅です。

頭を切り替える。

今、私自身、ちょっと必要なようです。

時期的に荷物をまとめて旅立つこともできないので、徹底的に映画を観続けました。
映画の中でたくさんの旅をしました。フィラデルフィアにローマにスイス、南アフリカ共和国・・・・

住まう場所と違うところに立ち、そこから改めて自分を見つめると、ふるいにかけられたようにすっきりと自分自身を取り戻していきます。

自分の頭を切り替える方法・・・・いろいろあるはず・・・

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歌舞伎座

2009年06月13日 | 第3章 無意識の世界
来年、東銀座の歌舞伎座が取り壊されます。

久しぶりに歌舞伎を観ました。

お目当ては、金太郎さん、4歳の初舞台。
お父さんの染五郎さん、おじいちゃまの幸四郎さん、三代での連獅子です。

見得を切る手さばきなんぞは、もうすっかり一人前の歌舞伎役者です。
親の後を継ぐ金太郎さんの存在は、次の時代を継いでいく確かな道筋。

思えば、昭和54年の染五郎さんの初舞台の連獅子が私の初歌舞伎体験でした。学生の頃です。
懐かしさと、時の早さを感じつつ、お江戸の時代に旅した気分を存分に味わいました。

話は変わり、幕間に頂くお弁当は、歌舞伎ならではの風景ですが、アメリカ人の観光客のおばちゃん達が、びっくりしたようで、皆が座席で頂くお弁当を写真に撮っちゃったり、まるで、宇宙人に遭ったかのようなサプライズだ!と興奮気味。逆に、それを眺める日本人のお客さんたちが、「あら〜、立ってバナナなんて食べちゃってぇ〜、クッキーだけじゃ、おなかすくわよねぇ〜」などと、ひそひそ・・・

どっちが動物園の檻の中の動物か分からない状態・・・

風習から見える比較文化。異文化交流と外交は、庶民の触れ合いから始まるものなのだ・・・と、しみじみ実感いたしました。

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どう解釈する?

2009年06月08日 | 第3章 無意識の世界
世田谷美術館での江戸表具の会は、おかげ様で700人近い方に見て頂き、無事終了いたしました。この場を借りて、御礼申し上げます。

さて、
その展覧会に出品されたニ副で対の表具の本紙(作品)解釈で最終日は大いに盛り上がりました。

本紙は、「福の神」と「貧乏神」
掛け軸作者の方は、家では「福の神」だけ掛けて「貧乏神」は縁起が悪いので掛けないそうです。

私たちは、そんな説明を受けながら、じっくりと二人の神様を眺めました。


福の神と云われている神様は、浅黒い顔に、バラバラひあごひげを生やし、だらりとした着物は腹まで下がり、床の上にアグラを掻いています。
肩には、袋を担いでいます。

貧乏神と云われている神様は、白い肌です。着物もきちっと着ていて上質な感じがします。右手に金の打ち出の小槌を持ち、俵の上にアグラを掻いています。
肩には、接ぎを当てた袋を担いでいます。

鑑賞者の皆さんと腕を組み、唸り出しました。

「貧乏神だと解釈しているのは、実は、福の神では?」
「接ぎ当ての袋に惑わされたか???」

言葉で神様の説明をすると、小槌と俵という「言葉が目に入る」わけですが、絵で見ると、瞬間、「袋の接ぎ当てに目がいきます」。

さてさて、どちらの解釈がしっくりくるんでしょうねぇ〜

今日から家に掛けるのであれば、両方掛けてあげた方が、福を呼びそうな気がします。

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