Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

グレゴリー・コルベール【Ashs and Snow】 展。(ノマディック美術館)

2007-05-06 | 芸術礼賛
 国も人種も、あるべきところにない。
サハラに寝そべるチーターにオポッサム、エジプトの古代遺跡の列柱間を舞う猛禽類に、鴇。それは生態系というものから連想される、我々のあらゆる固定概念に対して故意にねじれを生じさせるように作られた、演劇的環境。完璧に不自然な方法を用いて、ほんものの自然を作り出すための装置である。

 描かれているのは、「そこにだれと居るか」。
動物や人間という些細な差異はともかく、ケモノが暮らす場としての大地において、必要なのは環境や生態系の整合性ではない。
写真および映像の背景となる砂漠や海、川というそれぞれの環境は、「大地」という意味を同じうした記号と化してそれを象徴している。

 わたしは、此処に、この世界に、だれと居るか。
 あなたは、其処で、だれと居たいのか。
「此処」は、多分どこでも構わない。


 一瞬を切り抜かれた写真に共通して映される「動物と、人間」。
 更に、そのなかの「人間」に共通する要素は、明らかなる【胎児性】であった。
柔らかく目を閉じ、肢体をぐったりと弛緩させたり、あるいは手を胸前でクロスさせる姿勢は、瞑想や熟睡を想起させる。


    待機。

 それは、光を放った明瞭なるグレーゾーン。輪郭を取り払った(より正確には、輪郭が生まれるよりも以前の状態)無防備な剥き出しのいのち。
もういちど、新たに育ってゆける可能性を人間が見出すために、なにかを失くす前の状態へと回帰するための清浄なる待機の姿勢。動きの凍った画面はは生と死の境目のようにも見える。待機が一瞬後に終了してその目を開けさせるのか、もしくは人間が人間としての形状をいつか失い、水や砂といった大地に溶けて背景と化してしまうまで続くものなのか、それは観るものには判らず、待機する彼らにもきっと判らず、それにも拘わらず、自由だ。誰の自由?

 映像の中にある人間は、完全なる受動体としてのいきものだ。
動物の眼は開かれ、人間の眼は閉じられる。
人間がそこに茫洋とした形のまま「在る」ことを動物がどのように受け止め、どのように選択したかという結果だけが延々と描かれる。動物の選択によって、人間はその大地に「在る」ことを赦される。

 動物が人間に触れる一瞬の仕草は、聖書の中でもっとも重要な意味を持った特別な洗礼の瞬間を想起させるくらいに神々しく。動物との接触が行われた瞬間の、画面の向こうに居る人間の喜びと安堵が、大地に生を受けて最初の呼吸をしたかのような大きな愉悦の溜息が、きこえる。



 人間はなぜ、挨拶や愛情伝達という「記号」としてしか、触れるということをしなくなったのだろうか。
肌や掌というものの存在そのものが示す、深遠なる大地の意味をいまふたたび。

 


 





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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
場の力 (Tak)
2007-05-06 23:38:33
こんばんは。
TBありがとうございます。

六本木ヒルズで見た時と
全然印象が違いました。
「場の持つ力」はこうも
作品にそして観る者に
影響を与えるものなのですね。
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コメント一番のり(?)♪ (無学☆)
2007-05-06 23:44:16
素晴しい。

同じ作品を観ても、私が観い得たものは貴女が得たものの幾許にも満たないと思い、改めて崇拝します。

彼が投げかけた象徴の意味を、
私のもやもやとした感動を、
言葉にしてくれた気がします。
一片の違和感なく読み通しました。(ま、これはいつものことですがw)
読めば読むほど、深みにはまっていきます。

もし、貴女と彼の目が合ったとしたら、にやっと笑い、一瞬にして永遠の友となるのでしょうね。

漂流する美術館。現れては消える美術館。それも雪と雪解けを模しているようで、、この空間でなければ "ashes and snow"は成立しない気がします。
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Unknown (Assvaal)
2007-05-07 00:11:09
ゾウ?
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そういうことだったのか!! (ヨーコ)
2007-05-07 00:59:52
保留にしておいたことを、読み解かれた気分よ。

たまにはわたしも深く思索しなければなーと思いました。

それと、マユはいつまでも揺るぎない場所からものを見ていて、そして明晰で素晴らしい。まだ認識せぬマユに惚れたレポートの存在を、また思い出しましたよ。
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「場」のふしぎ。 (マユ)
2007-05-07 21:47:31
>Tak さま

普段は無沙汰しているくせに、こうして時たま押しかけてしまってすみません。いつもご丁寧にコメントを頂き、有難うございます。

私は六本木ヒルズのほうは、時間と体力の兼ね合いで「日本美術が笑う」だけで断念してしまいました。

けれど、意図的であってもそうでなくても、そこに設置された「場」はそれそのものがひとつの演出空間であることは確かですね。なにが最も効果的か、なにが最も正しいかなんてきっと誰にもわからないのだけれど、ノマディックの「場」は、明らかにあるひとつの確固とした方向性を提示することに成功していたことは判りました。

違う「場」の設定の可能性に、思いを馳せてみたくなります。


>無学 さま

残念! 二番乗り(二番煎じじゃなくて)でした(笑

美術に触れた際に心の奥にガツンときたり、心の表面をそよそよと撫でられたりするような感覚を言葉にするということは、とってもリスキーな行為だという自覚があります。それは、私の心の中にあるものと非常に近くにあるものだけれど、言葉という制限の中で、ちょっとだけ形を変えてしまう。そして、それを他者に伝達してしまう。それは、良いことであると同時に、きっととても危険なこと。

あの空間の中で私の頭の中に浮かんだ沢山のキーワードを、無作為に浮かんだ沢山の画像を並べて、それらの間に関係性という糸を引いたら、こうなりました。

それは、あの空間を体験したすべての人の心の中にあるものとはきっと異なっていて。けれど共通点もきっとあって。
共通点があるからこそ、ややこしいのだ。

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象という大地。 (マユ)
2007-05-07 21:52:44
>Assvaal

そう、ゾウ。

象の写真はとても沢山ありました。
凍ったような静寂な映像から、歓喜沸き立つような動画まで。
それはしんしんと雪が積もったあとの凍ったような夜半の時間や、熱帯低気圧が通り過ぎるまさにそのさなかのような熱情から、モンスーン地帯の雨上がりのような重厚な暖かさまで、様々な自然の表情をそのまま体現しているかのようでした。


>ヨーコちゃん

そういえば、大学一年のときのあのレポートは、言葉にならないものを言葉にしようとあがいた文章でした。
脳障害を持つ女性が「調和」という言葉の意味や定義も知らないままに調和を体現するすがた。それをどのように表現したらよいのかに苦慮した記憶がいまだにあります。
そのときの作業と、今回の文章を構成する際の脳みその方法論は、確かにかなり似通っていると思います。さすがだなぁ。わたしでさえ忘れかけていたのに。

ともあれ、わたしが(私の眼が?脳が?)居るとされる「揺ぎない場所」とやらを、わたし自身が知りたいよ(笑)
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