上京はまだまだ、ひと仕事である。TXが開通するまでは、予測もつかない首都高速の渋滞に翻弄されながら高速バスで移動することになる。酷いときには、東京から大阪まで、成田から北京にまで行けるような時間をかけてようやく上野に着くわけなので、まだなにひとつ用事を済ませてすらいないのに虚弱の私はもうへたれている。
とはいえ大好きな仲間たちとの飲みがあるということで(飲めないくせに!)上京したわけなのだけれど、へたれている場合ではないこういう日に気になっていた展覧会にゆくのは得策だ。高速バスが北千住でも日暮里でもなく上野に停車してくれるというのは有難い。
今日のご馳走は「植物画世界の至宝展」。公式サイトはこちら。英国王立園芸協会(RHS)創立200周年記念の展覧会ということで、作品の選定はほぼRHSサイドにおまかせ、ということらしい。副題に「500年の大系」とあるように、展示は5つのステージに分けられていて、「第1章:近代植物画の誕生」「第2章:大航海時代と植物画の黄金時代」「第3章:”植物画”-ジャンルとしての確立」「第4章:植物画の衰退と伝統の継承」「第5章:植物画のルネサンス」という構成が、みっちりと藝大美術館の中のわずかワンフロアに詰め込まれている。ルネサンス、とは今回の展示内容の文脈では1990年代以降、記録としての意味を完全に失ったあとに、新たな可能性を審美性を模索してゆく方向性を指すらしいのでその点補足しておく。
単なる紋様のモチーフであったところから脱却しようとする第1章の作品群は、記録としては今一歩の部分がある。だが第2章と3章では本当にクラクラした。絵画でも建築でもそうだが、「黄金期」と呼ばれる時代にはどうしてこうも突出した技能とセンスを持つ職人(と敢えて呼びたい)が複数纏めて競うように生まれてくるのだろうか、と感嘆するほかない。
「パイナップル」を我々は知っている。説明板にそう書いてあるから、提示された絵を見ながら私たちはあの実のチクッとした皮の部分や、乾燥したアロエのような堅くて肉厚の葉を触感として思い出すことができる。それは、ここでは当たり前の話だ。
「こんな花見たことないです」という絵を提示されて、へぇ、枝はまるで桜のようにすべすべしているんだ。葉の色の表と裏はこういうように違っていて、裏にだけ繊毛が生えているのか。手に刺さらないくらいには柔らかそうだ。花弁はしっとりしたビロードの質感を持っているという点で薔薇にも似ているけれど、僅かに肉厚だね。爪を立てたら少しだけ沈む感じがありそうだ。それにしても、花弁の中心に近いところにある突起部分はなんだろうな。
植物画とは、このように見るものか。
私が今まで見てきた様々な絵のジャンルとは明らかに異なる「見方」を余儀なくされる植物画に自分が直接接したことにより、植物画がそれだけでひとつの分野を担ってきたことの意味が判った気がする。
極端に言い換えるならば、「これ」が「林檎」である。その条件を全て満たすやり方で、果実が、花が、枝が描かれる。林檎でないものと林檎であるものとを隔てる壁を同時に描いている。あるいは、林檎を知らない人がこれを見ることによって、香りまでは無理にせよ、林檎の持つ大きさ、色、質感の全てをもうその場で知ることができる。その絵は「林檎を描いた」ものではなくて、それ自体が「林檎を示して」いる。それぞれの林檎の枝には個性がある。100の林檎からひとつを選び取り、それを描くのが「林檎を描く」行為だ。100枝の林檎のその全てを示すための林檎を描くこと、それが「林檎を示す」行為だ。
私は、この似て非なる大きな違いを文字だけで伝えきれているだろうか。自信がない。
だが更に一歩進んだ個人的な極論では、もうその絵は「林檎」なのだから、本来の記録としての役割を最早失っている今日においては「あら、林檎ね。」「アマリリスだわ」などと記号化しながら見る必要すらもうない。言葉がなくとも、確実にその画は自立しているのであるから。それが林檎だろうがアマリリスだろうが、そこに描かれるものをじっと見詰めて、嗅覚以外の全てを感じる。それだけで充分だ。
兎に角こんな感じの個人的大発見のもと、ひとりおおはしゃぎで館内を行ったりきたり。
第5章のそれは精巧さや技術では過去の時代と並ぶものの、「林檎を描く」ことへの揺らぎが見られることや、構図やおまけモチーフ(虫とか鼠とか)の登場によって過去の植物画とはまた異なる見方を我々に要求しているように感じるが、その方向性は未だ定かではない。
もう充分に堪能したので展覧会カタログはやめて、代わりにアイヒシュテットの庭園、及びFlora: An Illustrated History of the Garden Flowerの2冊を購入。
近目で頑張りすぎたからか、今日は偏頭痛と首の凝りが酷い。身の程を知らずにはしゃぎすぎるとこういうことになる。
とはいえ大好きな仲間たちとの飲みがあるということで(飲めないくせに!)上京したわけなのだけれど、へたれている場合ではないこういう日に気になっていた展覧会にゆくのは得策だ。高速バスが北千住でも日暮里でもなく上野に停車してくれるというのは有難い。
今日のご馳走は「植物画世界の至宝展」。公式サイトはこちら。英国王立園芸協会(RHS)創立200周年記念の展覧会ということで、作品の選定はほぼRHSサイドにおまかせ、ということらしい。副題に「500年の大系」とあるように、展示は5つのステージに分けられていて、「第1章:近代植物画の誕生」「第2章:大航海時代と植物画の黄金時代」「第3章:”植物画”-ジャンルとしての確立」「第4章:植物画の衰退と伝統の継承」「第5章:植物画のルネサンス」という構成が、みっちりと藝大美術館の中のわずかワンフロアに詰め込まれている。ルネサンス、とは今回の展示内容の文脈では1990年代以降、記録としての意味を完全に失ったあとに、新たな可能性を審美性を模索してゆく方向性を指すらしいのでその点補足しておく。
単なる紋様のモチーフであったところから脱却しようとする第1章の作品群は、記録としては今一歩の部分がある。だが第2章と3章では本当にクラクラした。絵画でも建築でもそうだが、「黄金期」と呼ばれる時代にはどうしてこうも突出した技能とセンスを持つ職人(と敢えて呼びたい)が複数纏めて競うように生まれてくるのだろうか、と感嘆するほかない。
「パイナップル」を我々は知っている。説明板にそう書いてあるから、提示された絵を見ながら私たちはあの実のチクッとした皮の部分や、乾燥したアロエのような堅くて肉厚の葉を触感として思い出すことができる。それは、ここでは当たり前の話だ。
「こんな花見たことないです」という絵を提示されて、へぇ、枝はまるで桜のようにすべすべしているんだ。葉の色の表と裏はこういうように違っていて、裏にだけ繊毛が生えているのか。手に刺さらないくらいには柔らかそうだ。花弁はしっとりしたビロードの質感を持っているという点で薔薇にも似ているけれど、僅かに肉厚だね。爪を立てたら少しだけ沈む感じがありそうだ。それにしても、花弁の中心に近いところにある突起部分はなんだろうな。
植物画とは、このように見るものか。
私が今まで見てきた様々な絵のジャンルとは明らかに異なる「見方」を余儀なくされる植物画に自分が直接接したことにより、植物画がそれだけでひとつの分野を担ってきたことの意味が判った気がする。
極端に言い換えるならば、「これ」が「林檎」である。その条件を全て満たすやり方で、果実が、花が、枝が描かれる。林檎でないものと林檎であるものとを隔てる壁を同時に描いている。あるいは、林檎を知らない人がこれを見ることによって、香りまでは無理にせよ、林檎の持つ大きさ、色、質感の全てをもうその場で知ることができる。その絵は「林檎を描いた」ものではなくて、それ自体が「林檎を示して」いる。それぞれの林檎の枝には個性がある。100の林檎からひとつを選び取り、それを描くのが「林檎を描く」行為だ。100枝の林檎のその全てを示すための林檎を描くこと、それが「林檎を示す」行為だ。
私は、この似て非なる大きな違いを文字だけで伝えきれているだろうか。自信がない。
だが更に一歩進んだ個人的な極論では、もうその絵は「林檎」なのだから、本来の記録としての役割を最早失っている今日においては「あら、林檎ね。」「アマリリスだわ」などと記号化しながら見る必要すらもうない。言葉がなくとも、確実にその画は自立しているのであるから。それが林檎だろうがアマリリスだろうが、そこに描かれるものをじっと見詰めて、嗅覚以外の全てを感じる。それだけで充分だ。
兎に角こんな感じの個人的大発見のもと、ひとりおおはしゃぎで館内を行ったりきたり。
第5章のそれは精巧さや技術では過去の時代と並ぶものの、「林檎を描く」ことへの揺らぎが見られることや、構図やおまけモチーフ(虫とか鼠とか)の登場によって過去の植物画とはまた異なる見方を我々に要求しているように感じるが、その方向性は未だ定かではない。
もう充分に堪能したので展覧会カタログはやめて、代わりにアイヒシュテットの庭園、及びFlora: An Illustrated History of the Garden Flowerの2冊を購入。
近目で頑張りすぎたからか、今日は偏頭痛と首の凝りが酷い。身の程を知らずにはしゃぎすぎるとこういうことになる。
植物画の独自性は、対象を「描いた」のではなく、対象を「示して」いるという指摘は、とても理解しやすいです。漠然と、植物画に感じていた違和感を言語化するとそうなりますね。今まで、単純に写真が植物画のライバルだと考えていましたが、写真も対象を「示す」というよりは、描くに近い観点で見ているような気がしました。
こういう系統の特殊な?展覧会は頻繁にあるものではないので、行けないのは残念ですね。
私も、頭痛の中で記憶がはっきりしているうちに・・と思って書きなぐって、読み返したら酷い日本語で誤字だらけ。ダメだこりゃ。
とはいえ、「林檎を描く」「林檎を示す」の違いが伝わったことでほっとしています。よかった。
そして、写真についてはちょっと考えて書くのをやめました。「記録」という用途の面では明らかに写真のほうが近しいはずなのですが、対象への接し方というか対象の扱い方が全く異なります。その姿勢と特性の違いゆえ写真では植物画に完全にとってかわることができなくて、1990年代以降も連綿とこの分野が細々ながら生き続けているのでしょうね、きっと。
私はこの手のものが好きですから、飲みの市なんぞに行って安物の植物銅板画や、虫、魚の図版をたまに買ったりしていました。(最近あまり行かなくなりましたが。。)
TBとコメントをありがとうございました。
私は展覧会へは一緒に行く方の都合もあり、終了間際になりそうですが、マユさんの記事を読んでいたら本当に楽しみになりました!!
大場先生の講演会は、植物に対して愛情を持って語って下さいましたのでより理解できたように思います。もっと詳しいことも沢山話していただきましたが、また展覧会を観にいってからでも感想とともにその辺も書けたらと思います。
今後もよろしくお願いいたします。東京までお疲れ様でした。
こちらもTBさせていただきます。
植物画と、それをモチーフにしたなにかを並列して展示するのはなかなか興味があります。イスラム紋様などがあってもいいかも、と思います。
日本では蚤の市や骨董市で植物系の何かが手に入ることは少ないですよね。因みに、日本における植物の絵では、伊藤若冲の動植彩絵などの系統が大好きです。
>Julia さま
TB有難うございました。
まだ行かれてなかったのですね・・・あまり詳しく書かれているものだから、てっきり既に行ってきたものと勘違いしていました。
真剣に見ると結構クタクタになる展覧会ですが、必要ならルーペを持って行かれても面白いかもしれません。感想記事をお待ちいたしております。
まったく個人的な見解ですが、写真はレンズが眼の役割をしてしまうので、ある時点の視覚体験の固定化という気がするので、対象そのものを提示する能力は、こういう絵の方が凄いのかな、と。みていないのに言うのもなんですがマユさんの文章を読んでそんなかんじがしました。パイナップル以下の説明はとてもいいですね。
偏頭痛なおりましたか。わたしもいま眼精疲労がひどい故、誤字脱字の可能性ありだが見直しませんが読みにくかったらしつれい
1sugiと申します。拙極私的blogにTB&コメントを有り難う御座いましたm(__)m。これを機会に、これからも宜しくお願いいたします。
若冲がお好きなのですね(^^)。動植彩絵は昔々京博での「天皇御在位60周年記念展」に通い詰めてコンプリート(笑)しました。動植彩絵もよいですが、一筆書きみたいな鶴ですとか、「野菜涅槃図」なんかも大好きです(^^ゞ。
さて、拙blogには敢えて書きませんでしたが、今回の展覧会出品作(前半)を見ておりまして、真っ先に思い出したのは速水御舟が写実に狂ってた時期の一連の作品(特に「京の舞妓」)でした。隅から隅までピントがガチガチに合っているといいますか...目で見た「部分」を正確に描き、それを継ぎ合わせて画面を作っているというかなんというか...じっと眺めていると「部分・全体」「遠・近」が入り混じってクラクラくる感じが大層似ておりました。
もちろん植物画と御舟の細密描写では、目的も何もまったく異なりますが、対象を全て画布に固定してくれよう、というコトに徹底する様は似通っているのでは?、という素人考えが今でも抜けておりませんです。
なんて、ガラにもなく解ったよーなコトを駄長に書いてしまいましたm(__)m。藝大美では、前回の平家納経といい今回といい、別棟のマヴォといい、良いモノを見るコトができ、「みぃはぁ」なワタシは大変うれしいです。展示室面積も、ワタシには丁度よい感じです(^^)v...売店の「鮭ぐっず」も大好きだったりしてます(^◇^;)。さて、来週中に東近美でもう一度古径見なきゃ...。
「写真は(略)、ある時点の視覚体験の固定化」
そうそう、まさにそういうことです。私も、写真と図鑑代わりのこういう絵は親戚のようなものかと当初思っていたのですが、実際に展示を見ることによって、写真と植物画との間には決定的な隔たりがあるように感じました。
K-esさまのように、端的にスパッと云えればよかったのですが、パイナップル以下、ずるずると無闇な説明をしてしまいました(笑)が、褒めて頂いてとても嬉しいです。伝わるかどうか不安でしたが、案外うまく伝わっているようでほっとします。
>1 sugi さま
ご来店、じゃないご訪問ありがとうございます。
「隅から隅までピントがガチガチ」
まさにそうですよね。目の構造からするとありえないその表現が、見る者をちょっと不安定な気持ちにさせます。でもその不安定感が、「お好きな人にはたまらない」のですよね(笑)
藝大美術館の「鮭グッズ」だいすきですよ。
高橋由一も大好物ですから。因みに鮭ストラップはかつて彼氏に無理矢理プレゼントしたことがあります。
今後ともどうぞ宜しくお付き合い下さいませ。
でも、マユさんのブログを拝見して、植物画が本来的に備えなければならない要素が何かを改めて気付かされました。そうですよね、図鑑的(といっていいのかな?)な意義を有するにはその特性を列挙することが必要なんですね。へえ~今まで全然そういう見方をしたことが無かったので、面白いです。あまり期間があまり残ってないから、いけるかどうか不明ですが、上野に行く機会があれば、行ってみたいかも?
お時間があれば、是非おすすめします。
「観なくちゃいけない!」というほどの芸術的価値や希少性があるわけでもなく、求心力があるわけでもないのだけれど、かといって頻繁にこれだけのボリュームをいっぺんに並べて見ることができるかといえばそうでもなく。
もし行かれた場合には、感想お待ちしております。