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落合博満の“采配”を読んで―私のサラリーマン人生を省みつつ

いつものように読後感想文で恐縮だが、リーダー論の続きで、今回は、あの落合博満氏の語録とも言える本・“采配”についてである。語録に逐一感想を付けることは、大変なことだと今回思い知らされた。野球チームの運営にまつわる様々な局面について、結構多彩な角度から語られていて、テーマが多様になってしまったからだ。これまでも野球監督経験者の本を読んで、自分なりにその都度 結構まとめてきたような気がしていたが、この本についてはそれが非常に困難であった。どうしてこうなってしまったのか良く分からない。ここでは、気になった落合氏の言葉を紹介して、それにまつわる感想をできるだけ付けることにした。この一文が思わずまとまりもなく、ダラダラと冗長になってしまった。筆者の非才によるところで申し訳ない。

この本の初めのところでは、プロとは自立型人間であり、“孤独に勝てなければ、勝負に勝てない”と落合氏は言っている。
それは間違いないことだ。人生とは本来孤独なものだ。生い立ちは人様々であり、生き様も人様々だからだ。何一つ違わない人生などあり得ないのだ。実は、それを恐れて群れる人が多いようだが、時として孤独への覚悟は必要なことだ。
著者は、別のところで、最近、マスコミなどはチームリーダーなどというポジションを勝手に作り上げてしまう傾向にあるが、“チームリーダーという存在によって、競争心や自立心が奪われていくことは、組織においてはリスク以外の何物でもない。”そして「あの人についていけば」とか「あの人を中心に」といった心理が“勝負のかかった場面での依存心”となると言っている。

落合氏は“「上司と相性が合わない」は逃げ道である”とも、“「俺は一生懸命やったのに」と憤慨しても道は開けない”とも言っている。これは真実だ。そして、次のようにも言っている。“俺は好き嫌いで選手を使うことはない”これも、普通ならそれが正しい。しかし、世の中には様々な人間がいることを肝に銘じておくべきだ。人事を経営トップの“好き嫌い” でやる企業も現実にあるのは事実だ。それで上手く行っている会社もあるのだ。“好き嫌い”は人間の最も原初的判断基準であり、ある意味その方が経営が上手く行くのだろうし、それがその会社の文化となっているのだろう。だが、客観的にその会社のムードは絶望的に酷いものなのは事実だ。若ければ、そういう企業からは早々に逃げ出すべきだと私は思う。

プロにとって契約期間外であっても練習は大切であって、これさえやれば絶対に大丈夫という練習方法はない。そこで“不安だから練習する”のであって、“どんな練習(努力)をすればいいのか考え抜くことが大切なのだ。”と落合氏は言っている。練習の結果“技術を持っている人間は心を病まない”し、自信があれば、“ちょっとしたことで悩んだりしない”とも言っている。だからこそ、別のところで落合氏は、野村氏のID野球も大切だが、その前に野球は反復練習が基本だと言っている。“頭を使うよりも先に体力をつける”という優先順位を強調したとしている。確かに、スポーツは体力が基本だ。

落合氏は、プロ野球選手が相手にするべき“自分、相手、数字”と言うものがあると指摘する。しかし、現代サラリーマンには、そのような“数字”はないと思う。ここで言う“数字”とはプロ野球選手にとっては打率であり、ホームラン本数であり、サラリーマンにとってはノルマである。だが、実はサラリーマンの戦いはそんなところにある訳ではない。現代企業戦士に求められるのは、問題解決力である。企業の直面する問題そのものを解消する力だ。ノルマの達成は、問題の解決を生まない。その会社にとっては、単なる問題の先送りでしかないからだ。ノルマを必要とするような戦い方そのものを変える戦略的対応が、求められる。そうでなければ、いつまで経っても単なる優秀な兵士でしかないことになる。そういう兵士が必要な会社もあるかも知れないが、少なくともそのような特定の個人の優秀な属人性に頼る会社は日本では今後永らえることは困難であり、生き残れないのではないか。

次も落合氏の言葉である。“自分の目標を達成したり、充実した生活を送るためには、必ず一兎だけを追い続けなければならないタイミングがある。” “一流の領域までは自分の力でいける。でも、超一流になろうとしたら、周りに協力者が必要になる。”
プロ野球選手ではない、一般サラリーマンの目標とは何だろうか。それは、恐らく“超一流”のサラリーマンではあるまい。“超一流”のサラリーマンという属性には、超人の匂いが漂う。そんな間になることを目標にするというのも変だ。
社長になることを目標にするのも勝手だが、それは一般的なサラリーマンの目標にはなじまない。なぜならば、企業トップになれる確率を考えてみればよく分かる。自分だけは違う、と考えるのも勝手だが、トップになるためには運も要ることを心得るべきだからだ。社長の座を射止める状況とは、それまでの自分の人間会計を含めて会社自体のその時々の経営状況に応じて様々な状況があるからだ。自分に有利な状況なることは、ほとんどありえない。子会社の社長になることも、起業して社長に納まることも狭き道である。だから、一般的なサラリーマンの目標にはなじまないと考えるのが普通である。いみじくも落合氏も別の所で“チャンスをつかめるかどうかには運やタイミングもある。”と言っている。また“人間関係の上での環境に関しては「自分に合うか合わないか」(「居心地の良さ」)などという物差しで考えず「目の前にある仕事にしっかり取り組もう」と割り切るべき”とも言っている。しかし、それに成功という見返りを期待してはならない。
一流になるための協力者とはサラリーマンの場合具体的に誰か。仕事はチームでなされる場合が多いと思うが、そこで味方を得ることが重要だ。チームには夫々が夫々の立場で参加している。チームの成果が、夫々の立場を強化するものであれば、チームは一丸となれる。そこに相互の協力が生まれる。一人のためのピラミッド型の一方的な協力関係ではない。プロ野球選手には、選手を中心としたバックヤードと言うべきチームがあるべきなのかも知れないが、サラリーマンの場合は、そうではない。派閥があるような会社では、その派閥のピラミッドが効くのかも知れないが、それは健全な会社とは言えない。現代サラリーマンはそうした問題解決型のチームで相互に協力して、夫々の立場を強化して行くものだ。その場合のリーダーはチームの司会のような権限しかないのが理想だ。そして、その成果を上げたチームを経営者が成果と共に賞賛することが社内に好循環を起こす起点となる。
結局、落合氏も“道の先にある「勝利」の定義とは、人それぞれ”だと言っている。“ただひたすら、勝利を目指していくこと。そのプロセスが人生というものなのだろう。”となる。

いつもと同じように見える現場でも“どうも普段とは違うんじゃないかと感じとることができれば、頭がその理由を探ろうと働き出す。つまり、視覚でとらえている映像は同じでも、固定観念を取り除けば、さまざまな情報が得られることが多いのだ。”だから、常日頃何か変わっていないかを捉える能力を磨くことが大切なのだ。以前、変化を捉える能力の大切さを説き、それを生徒の活動課題としている高校があると知ったことがあったが、それはこういうことだったのだろう。

“球団の財産は選手だ。どんなことをしてでも選手を守らなければいけない。”
情報公開や透明性が良く言われるが、落合氏は“情報管理こそ監督の仕事”と言う。これが“オレ流”であろうか、マスコミから好かれない理由なのだろう。選手のフィジカル・コンディションについて監督が細かくコメントしたり、ブルペン内を公開するのは良くない、と言い切っている。確かに、それはある意味“個人情報”であり、保護されて然るべきだと思う。
それで嫌われてもやるのが“監督という仕事なのだと思う。しかし、嫌われるのをためらっていたら、本当に強いチームは作れない。”と言っている。何をオープンにし、何を秘匿しなければならないかという基準を持っておくことはどんな組織にとっても重要なことだろう。
落合氏自身、外角の球をホームランにしたことはなかったが「外角のボールをライトスタンドに放り込んでしまう」という評価が定説となり、選手生命が延びたと告白している。だから、現役時代ホームランへのインタビューでは“真ん中のストレートだろう”ととぼけてごまかしていたという。
こういう“企業機密”は“監督と言う立場になれば、絶対に守秘しなければならないことが個人からチームのレベルへと広がる。しかも、対外的なことだけではなく、自軍のコーチや選手にも読まれてはいけない部分もあると痛感した。”たとえば、自組織内における人事情報は絶対的秘匿事項である。だから、予定しているチームの布陣情報は内部でも漏らしてはならないとも言っている。

部下が“私に突っかかってくるのなら、いくらでも相手になる。・・・それがプロフェッショナルというものだと思っている。”と落合氏は言っている。同じことを、先日のテレビでコシノ・ジュンコ氏も言っていた。しかも、その突っかかって来た時を逃さないことも大切だという。お互いのその場でのリアルな気持を重視するべきで、仕事は先に延ばせてもそのタイミングは二度と来ないとコシノ氏は言っていた。

落合氏は そんなことあり得ないと普通の日本人が一笑に付すような極論を真剣に考えるところがある。極論にこだわることこそ、「想定外」を生まないリスク・マネジメントの基本的手法だが、一般の日本人には嫌われる発想である。本書では日本シリーズの優勝条件について、監督会議で持ち出したが、可能性としての極端な状況を展開してみせて、案の定、日本や旧機構のスタッフに相手にされなかった一件を書いている。このあたりが論理的には正しいにもかかわらず、異端とも見られがちな落合氏の面目躍如たる由縁なのだろう。

落合氏は“仕事で目立つ成果を上げようとすることと、人生を幸せに生きていこうとすることは、まったく別物と考えている”と言い、“やりがいのある仕事に巡り会えないと思っていても、だから不幸というわけではない。反対に会社で順調に出世しているからといって、それで人生がすべて満たされるわけでもない。ましてや、人生の素晴しさは、誰と比べて幸せだからというものではない。” “ならば、一度きりの人生に悔いのない采配を振るべきではないか。”と終わっている。
だが、そう言えるのはやっぱり、それは落合氏が“やりがいのある仕事に巡り会えた”からだと私は思っている。


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