大阪の家ではガスは止めたままなので、風呂は銭湯。冬場なので二日は風呂なしで済ませたが、一駅歩いて朝風呂にいく。
さっぱりして家に戻る。今日はどうしようかと考えて京都に行く事にした。
慣れ親しんだ阪急、京阪ではなく、近鉄で行く事にする。
つまり一旦奈良に出て西大寺で京都線に乗り換える。それも京都駅までは行かず途中の竹田駅で京都地下鉄に乗り換えて中心街にはいる算段をする。
近鉄京都線に乗るのは初めてである。急ぐ理由は無いし、同志社が開いた新田辺キャンパスを車中から覗いてみようと言う目的もある。
新田辺キャンパスは駅のすぐ傍だと思っていたのだが、駅からかなり離れた小高い丘陵の上に展開していて車中からはほんの一端しか見えない。といってわざわざ降りて見に行くまでも無いが随分と恵まれた環境に見える。
1年2年は全学部が新田辺、文系は後半の2年及び大学院は今出川校地に戻るという30年以上続けた分離教育体制を最近になって文科系は今出川、理系は新田辺での一貫教育に再集約したのだが、文系学部が今出川に戻るというのは嬉しい事である。
京都市営地下鉄の烏丸御池で下車する。どこにいくというきっちりした目的は無い、哲学の道を歩くには些か寒い。
まずは気になっていた洋食屋を探す。京都市役所の左筋、つまり学生時代に四条烏丸や三条京阪から歩いて大学に行く時に通った道で、店名は忘れてしまったがコークスの強火を使う店だった。コークスを使っていたのはその店とスッポンの大市くらいと言われていた。ハンバーグとカレーが滅法旨かった。
ネットで検索してもそれらしい店の名前が出てこないので確かめてみたいと思って歩いてみたが、この場所だと記憶の有る場所に洋食店は無かった。廃業したと見える、確か湯川秀樹博士も通っていた店であるが残念。
更に御所に向って北上してフランスパンの新進堂ベーカリーに行き着く。ここは昔の通りの外観で嬉しくなる。この店でバタールやエピを買って大学のサークルで食べるのが楽しみであった。買おうかと思ったが、じいさんが一人エピをばりばり食べて街歩きをしても様にならないのでやめておく。
北上はここまでで取りやめ来た道を戻り、千枚漬けを何軒かで買う事にする。戻る道すがら二条で福田本店という小さな漬け物屋に入る。70歳過ぎと思われる女性が独りで店番をしており、いかにも小規模の手作り店なので2袋買い求める。リュックに入れて、河原町通まで出て京都ホテルに向う。
京都ホテルが経営不振でオークラに身売りしたと聞いていた。あの風格あるロビーは無事なのか気になったから。近づくと改装されていて以前の黄色みを帯びた外観では無い。
でもロビーは昔通りの雰囲気で残っていた。ここで良く外人夫婦の送迎をやったものだ。
昼飯時になったので先斗町に向かい路地の左右を確認しながら昔、何回か通ったチャップリンというバーがもしや残っていないか探してみるが、残っている訳も無い、結局は「開陽亭」という昔何回か通った洋食屋にはいる。
芸能人の色紙が何枚か掛かっており、昨年亡くなった大滝秀治さんの色紙が掛かっている。
もう駄目か
と思ったり
まだやれる
と思ったり
色紙を眺めながら「俺も同じ心境だけど、まだやれる と思う日の方が多いか」と言い聞かす。洋食弁当を頂く。人形町の芳味亭と似た内容だが芳味亭のほうがいいなと思う。
先斗町から今度は祇園の花見小路に向う、霰がぱらぱら降りだすなか八坂人社南の「八百伊」を目指す、今回の千枚漬け購入の主な目的店である。だが千枚漬けだけ品物が置いていない。店員に尋ねると「申し訳有りません、電話注文の方の分で手一杯で今の季節は店に置く分が殆どでき無いんです。」そりゃ無いと思うけど。
店売りは百貨店売りより優先順位を下げるのかよ。文句をいっても埒があかないけど。
河原町まで戻り高瀬川沿いの村上重で千枚漬け4袋を買う。そして村上の手前にあるフランソワで珈琲とチーズケーキを食べる。この店も40年ぶり。一時間ほど京都マダムや学生達の談笑を盗み聞く。
店を出て急に白みそを買おうと思い立つ。大学1年の時に偶然見つけた「石野」である。「そんなもの買ったら重くて、余計に膝が痛くなるがな」と思うも確か四条通りを少し下った所だと記憶を頼りに四条通りから少し下って一筋西方向の四条通りに戻るというジグザグ歩きを始めるがなかなか行き当たらない、その代わりに良さげな料理やを何軒か見つけていつか来ねばと思うも、些か疲れてスマホで場所を確かめてみると四条下る堀川通りで、記憶違いだったか店が移転したのかはわからないが本日の歩数は既に1万6千に達しているし。寒い中遠すぎる、
諦める事にするが大阪に戻っての晩飯では勿体ない。といって早めの晩飯まで喫茶店で粘るのも些か苦しい。暫し考えて出した結論は「喫茶店で粘るつもりで電車の座席に座って、神戸まで行こう」である。
阪急特急に乗車して梅田まで、そこで神戸線に乗り換えて三宮まで、電車賃は600円で時間は正味1時間10分。喫茶店で粘るよりずっと意味のある時間とお金の使い方。4時少し過ぎに三宮に着く。
訪ねてみたい店があった。
このブログに書いているが3年半程前、母の癌宣告後の入院中に一晩だけ家を空けて神戸に行き昔の神戸支店の女性達と夕食をとったのだが、その時に馴染みの店の消息を教えてくれた。震災で潰れたと思っていたが別の場所でやっているよと聞いていたのでいつか訪ねようと思っていた。
スマホで同じ名前の店を検索したが電話番号非公開となっている。もしかしたら違うかもしれないと思ったが鯉川筋を上がり、山手通りを越して更に登ると山手にこんな所が有るのかという生活感の漂う町並みである。昔ながらの対面販売の魚屋と八百屋と小さな郵便局が有る住宅街。といっても神戸市役所から徒歩5分なのだが。
店の佇まいと書いてあるメニューを見て彼女の店に間違いないと確信した。開店時間前だが店に入る。40代の夫婦が開店準備をしていて
「早いけど構いませんか?」と聞くと「どうぞ」と案内されてカウンターに座る、女将の姿が無いので「こちらのお店昔、東門通りでやっていましたか?」と聞くと記憶のあるビルの名前が返ってきたので「お母さんはおいでですか?古い客なんですけど」「おりますよ、もうすぐ来るはずですが、今携帯ですぐに呼びます。」
数分で彼女は現れた。私が振り返って名乗ると一瞬探る目つきをしたがすぐに分かってくれて30年ぶりの再会を果たした。
もうすぐ古希だという彼女は体型も変わらずスマートでロマンスグレーが素敵であった。
この店にはひとかたならず世話になっている。J社の痛ましい事故を神戸支店に居る時に経験した。新幹線で戻ってくるご遺族の出迎えが初動の頃の任務だったが、事故後2週間くらいして担当ご遺族が決まり、東京から同じ貨物畑の1年先輩のO岩さんが世話役で同乗してきた。その後の葬儀への立ち会い、補償交渉まで行う担当世話役と共に数日をすごし、その後も節目の時に3人で対応したのだが、その際に内輪で食事をしながら役割分担、ルール確認をする場が必要だった。私はママに頼んでカウンター奥の目立たない場所を確保してもらっていた。当時から殆ど常連客で持っている店で、私の素性は常連に知られていたが多少内容が漏れても大丈夫だろうという自信があった。
その頃の経緯も彼女は当然だがよく覚えていた。「お母さんが好きだからと言ってイスズベーカリーのパン良く買われていたわね、お元気ですか?」と聞かれたので母の顛末を彼女に話す。
私は「当時よくK重工のMさんと言う私より少し年長の方が来てましたね、親父さんが元大臣だったけど、K重の給料安いってこぼしてましたよね。」「あの方も結局政治家になったんですよ、麻生内閣で大臣されましたよ、今でも時々見えますよ」へーあの人が~テレビみていても分からなかったな~。
「お店の料理で一番懐かしいのは二日目のカレーとイカナゴの釘煮でしたよ」というと「もうカレーは作ってないわね、イカナゴはまだ釘煮をつくる時機じゃないけど、はしりのイカナゴをお出ししましょうか」昔のようにぐい飲みを選んで4品程頂いた。
住宅街の瀟洒な店で愉しい2時間を過ごし坂を下って三宮から阪神電車の奈良行きに乗車して乗り換えなしで大阪の鶴橋まで帰還した。
またくることになるだろう。
こういうこともある、店は大事にしないと。