Cozy小路

B級グルメとB級生活を愉しむB級ビジネスパーソンの日常

かかりつけ医に会いに行く

2012-05-26 21:41:42 | Weblog

母の足だと医院まで30分かかったと思う。内科で肛門もみてくれる医者をネットで探して連れて行ったのは4年位前。

最初「なんか、あの先生頼んないわ」と言っていたが、恥ずかしい箇所をみてもらう訳だから、そのうちに母も頼りにするようになった。

歩行器を押して約1キロも遠くまで行くのは危険極まりないと、はらはらしていたが、独りでちょくちょく訪ねて行き、そのうち「先生、お好きみたいだから」と生の平目を持っていったりしだした。私が生モノなぞ持っていくのは良くないよと言うと、百貨店でハムを買って持っていったりしていた。

その先生がお腹のレントゲンを撮った時に、当然上に映っているべき胸の片方が映っていないと気付いてくれたのが母の胸水を発見した切っ掛けだった。その後退院してからも、逆流性食道炎で脱水状態になった時に連れて行き点滴をしてもらって危機をのり超えたのが何回あったか。

昨年末発症する数日前に連れて行き私は「年末年始先生のところも休みになるけど、其の間無事で済むとは考えにくいなあ」と話したのが最後であった。

その後、一度報告に行かねばと思いつつ果たせていなかったので土曜日の医院の受付終了時間を見計らって訪ねていった。

「先生も気にしていただいていたんじゃないかと思うんですが、案の定無事とは行かなかったですよ。」

「今から思うと、こんな遠いところまで独りで車を押してきて、よくも途中で事故に遭わず、路に迷いもせず、ひったくりにやられる事もなく無事に済んだのは奇跡です。」 先生も「本当だね~」

「看取りが終わって落ち着いたら、連絡しますので一度付き合ってください。」

先生は頷いてくれた。

 

 

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歩行器 一足先に帰還させる

2012-05-25 18:21:33 | Weblog

午後母に会いに病室に行くと母の顔はこちらに向いていて、左手を少し私の方に伸ばして来たように思った。

手を握っても特に握り返す反応がないので、元の位置に戻すとやはり手を私の方に伸ばしてくる。三度繰り返して母が私に手を動かして応えているのだと分かった。「有り難う」と母に言い頬を撫でてやると安らかな表情になったように思えた。

2時間程いて、ナースステーションの看護師に「一旦帰って車で来ます。私物を少しもって帰るよ。ちょっとでも身軽にせんといかんからね」というと彼女は「そんな、にこやかに仰らないでください、私は胸が痛いです。」と応えた。

家に戻り病院に取って返して下着類、眼鏡、歩行器等を地下の車庫まで二回に分けて運んだが、折りたたみの見慣れない傘が置いてあった。ステーションに行き、「これどなたか他の方の傘ですよ」と言うと「でも奥の方に落ちていたんです。」というので「見舞いの方は一人しか来ていないし、その方は傘は持っていなかった。うちの母、ここに入院する時自分で傘さしては入ってこなかったでしょ(笑)」「そうですね~ではお預かりします。」

という事で母の歩行器は一足先に我が家に帰って来た。右に着いている赤い札はJALの取り扱い注意のタグシールである。思い入れが有ったのだろう、母はこの歩行器のタグをとても大事にしていた。受付カウンターで新しいタグが着くのを必ず確認していたし、普段使いでも外れそうになると又つけ直していた。

足が不自由になる前から通算するとどれくらいJAL便に乗っただろう。私の転勤先には年に10往復位、伊丹から一人で搭乗手続きをして、鹿児島時代も函館時代も羽田で乗り継ぎしてやって来て10日くらい居て「私は明日帰るから」と帰っていく半同居生活をかれこれ20年近くつづけた訳だから、多分一人で500便以上、そして私と一緒にも200便位は乗っていると思う。そんな彼女の晩年のお供を一足先に帰還させた。病院でも母のトイレ通い、そして私を母が見送ってくれる時に役立ってくれた歩行器、お帰り。

 

 

 

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母に語りかける。

2012-05-25 13:07:33 | Weblog

昨日朝病院の非常口を開けてもらって朝の母の様子を見にいき、穏やかな感じだったので急変はないと願いながら出勤した。

同じJ社出身の総務部長に状況を話した。「今日は経営会議があるし、重要な案件もあるから出席します。万一病院から呼び出しの電話が入ったら申し訳ないがその時点で中坐させてください。その後の下請けとの会議は、場所の電波状態が悪くて、携帯着信を聞き逃すと後悔するので最初から遠慮させてほしい。取りあえず月末までに型をつけないと仕事に穴があいてしまう案件が3つある。今日中に出来ればそれらを片付けてしまいたい。もう数日で母は亡くなると思うのですが、その間に看取りが済めば仕事に支障は出しません。」「昨年末にご説明した通り、見送りは私一人で行うので、会社としての花とか香典の類はお断りするのでご了解願いたい。」と説明した。「じゃ張り紙はするけれどもその通りにするよ、ということは我々は弔意を示すだけでいいのかな」「そうですね、弔電というのも参列者がいるからこそ意味のある儀礼だから、私はいただなくて結構と思います。」と始業前に説明を終えた。

会議は午後一時半からなのだが、総務課長に「私としては10分でも早く始めて、終えた方が気が楽なんだけど」と勝手を言って1時10分には始めてもらった。通常の国内の月例報告以外に普段は説明しない国際の新規案件があり、いずれ会社の主要業務になる可能性があるので社長に説明しておく必要があったので40分位かけて説明を終えた。

幸い電話のなる事は無かった。3つのうち骨の折れる2つは午前中に処理を終え、下請け会議は欠席する事にして残りの一つを片付けて昨日は無事終了した。「明日は休みます。どんな一日になるか分かりませんが有効に使わせてもらいます。」

夕方母を見舞うと、時々痙攣するが私を見ていると感じられたので、オデコをなで、そして眼の横から頬を何回もなででやった。そうすると嬉しそうにしているように感じたから。3回程、小さな声で「あ^」「お^」とか云う。言葉を発してくれたらと願うがそれは無理なようであった。

耳元に「ありがとう。ずっと育ててくれて、学校も一日も休まずに行かせてくれて、いい会社にはいれたのもお母さんのお陰だよ」「80過ぎまで毎日ご飯作ってくれて有り難うね。美味しかったよ」「東京では毎日寂しい思いさせて御免ね」

「大阪に一緒に帰ろうね。薬師寺にも連れて行ってあげるからね」と語り続けた。

7時をだいぶ回って、看護師に「帰ります」というと「誠意をもって見守らせてもらいます。私はお母さんも息子さんも大好きだから」「ありがとう、でも今晩に事切れる感じもするけどね」「そんな事云わないで、血圧も心拍も安定してるからまず大丈夫よ、ゆっくり休んで」といってくれた。

今、このブログを書いている時に電話が入った。只一人の東京地区の親戚が駒場で米屋をやっているのだが、その娘さんからだった。

「母が昨日無くなりました。一度内の母とお母様と一緒の温泉に行けたらと数年前電話でお話ししましたのに残念でしたね」「実は私の母ももう数日の命と思います。「そうですか、じゃああの世ですぐに会えるかもですね」「本当ですね」

彼女とあった事は無いし、遠い親戚だから、普通なら是きりになるのだが、繋がりはアメリカに住んでいる、駒場の伯母さんの妹さんと云う事になる。私はそのアメリカの伯母さんのことが気になって仕方が無い。シカゴの近くの田舎に住んでいる。その伯母さんに何かしてあげたいとずっと思っているので、一度会ってみようと思う。

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こんな天気のいい日に

2012-05-23 13:24:50 | Weblog

昨晩の看病の時、いつもうるさく訴える排泄の求めが無かった。これは病態に変化が起きたなと感じた。余り言葉にならず、何を言いたかったか分からないが「もっと上手にせな」といい、食事を口に運んでやると、最初は余りいやがらずに食べたのが、最後はお茶も「もういい、もういい!」と言って口に含まなかった。

家に帰ってワインを飲みながら「もう数日かもしれない」と考えた。

この1週間程考え続けていた事、それは、敬虔な仏教徒として最期を迎えるに相応しい時期というものが有るのであれば、母はその一遇の機会を通り過ぎてしまっているのではないか という事である。

所詮、私の勝手な解釈にすぎないが。

実は先週と今週の水曜日は渋谷で行われたコンピューターのプログラムのスクーリングを申し込んでいた。

今期は放送大学のスクーリングを5科目申し込んでいる。登録申し込み時期の2月時点の私の思いは母が4月まで命を保つという事は考えられず、急に自由な時間を持つようになった自分にとって、週末は放送大学で新たに学び、人と交わる事が人生の健全なフレームとなると考えていたからである。

そんな中、先週は年休を取ってDatabaseのスクーリングを受け、それなりに理解も進んだ。今週が後半と、試験だったので、昨晩感じた不安の中迷いはあったが、「もういつでも覚悟は出来ている筈じゃないか」と言い聞かせて先週に続き好天に恵まれた今日も教室に入った。

携帯に2度着信があり未登録の番号だが局番が病院の住所と同じだったので、ナースステーションからと察して講義を中座して電話を掛けた。案の定「病態が変わりました、医師も説明したいと申しますので出来たら早めに来てください」と言う内容であった。

講師に中途退席の詫びをいれ直ぐさま病院に向かい、昼前に母の姿を見た。

視線が定まらず。全身が痙攣している。母の手を握ると震えながら握り返してくれた。

「もう頑張らなくていいよ」といって母のオデコをなでた。

程なく医師に呼ばれた。「前回と同じ全身痙攣が起きました、CTの画像をみても腫瘍がはっきり大きくなっています。腫れを停める点滴で対処します。前回と同じように又小康状態になる可能性もありますが、このまま逝ってしまわれる可能性もあります。

「先ほどの電話で今日明日との覚悟をしてきました。それなりに看取りの期間を経ているので後悔は少ないと思うので本当を言えば、このまま解放してあげたいです。」「入院の際、胃ろうなどの延命措置は不要と申し上げましたが、今後高カロリー点滴という状況になるのであれば、それも私はどうかなと思っています。」

「明日は会議があるのですが、明日、明後日と休みを取った方が良いでしょうか?「いやあ、それはちょっと分かりませんね」

再び、病室に戻り、母の手を握りながら考えていると看護師が「会社の電話番号もお聞きしておいた方がよろしいでしょうか」というので「それはいいですよ、常に携帯はもっていますし、いざとなれば会社の前からタクシーに乗れば20分くらいで来れますから」

又4時くらいには病院に行って点滴の効果を確かめる。一応明日は出社するつもりでいる。

「もうすぐお迎えが来るよ」「安心して旅立つんだよ」 こう母にいって聞かせて送り出すことがもし出来れば、これにすぎるものは無い。

 

 

 

 

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何故食べんといかんの

2012-05-12 13:06:07 | Weblog

前の日曜日に看護師長が「排泄の度に立ち上がるの大変で体力消耗するから、又おしっこの管を入れて様子をみましょうか」と云われて承諾した。

もう少し良く考えてから返答すればよかったのかと後悔するのだが、パジャマから鍵チャックのついたツナギに変わった結果、私が母の求めに応じて時々行っていた排泄介助が出来なくなった。そして昼間は車いすに座り、立ち上がらないように紐がかけられた。

相変わらず母は排泄をさせてくれと必死に懇願するが、私は「おしっこは管がつながってるから大丈夫だよ」「トイレに座る時は看護師さんに頼むから」という返事をするしかなくなった。母は「紐を切ってくれ」と云うのに「それは出来ないんだよ」と答えるしか無い。

徐々に母の心の中に、何もしてくれない私への不信感が鬱積し、食事の時に「もう食べたくないんだよ。」というようになってきた。

「でも3食たべて、薬を飲まないと行けないよ」というのだが母は「何故食べんといかんの?」「そんな事無い」と詰問する。それでも主菜だけは無理に飲み込むようにして口の中にかき込んで、「もういい!」と云う。これ以上無理強いして食べさせて何の意味があるのだろう。「お前はしつこいね」と云われる。

穏やかな死を迎えたい、迎えさせたいと願っている二人にとって無理に栄養を取らせるというのは最早するべきことではないと思える。こぼした主菜を数日前に一口味見してみたが、随分塩辛く感じた。こんなものを母はいやいやながら飲み込んでいるとおもうと哀れで涙が出た。

自分の懇願する事をなにもしてくれない息子は、とうとう「もういいよ、早く帰ってくれ」と云われてしまった。

 

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