エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

日本体操協会のパワハラについて

2018年09月04日 | 雑感

2018年9月4日

日本体操協会のパワハラ問題が、静かに潜航してい

る。新聞には今は大きく取り上げられていないが、

軽々しく動かないという対応をしているためで、最

後、決着がつけば、大きく報道され、協会は大改革さ

れるだろう。


今回の発端は、ある女子選手のコーチが、髪の毛を

ひっぱたり、叩いたりしたということをもとに、協会

側の一部の実力者が、このコーチ―をパワハラで除

名処分にしたという。ところが、そのコーチにならって

いる当該選手が、“事実はそんな簡単なものではな

い”、と反乱を起こしたきわめて特異なケースだ。

 

教育のためのパワハラ(暴力)はどういうところまで許

されるのか。

私は中学から大学まで陸上部に所属して、大学卒業

後も実際5年くらい現役と楽しんだ。そして、結婚して

子供が小学校4年から入ったサッカークラブで10年

以上コーチをした。だから何十年というスポーツ歴

だった。ただし、所属したのが、すべて弱小団体だっ

たから、パワハラ、すなわち先輩が後輩を、指導者が

子供を殴るなどの場面はまったくなかった。精神的に

は集合団体だから、いろいろあっただろうことは否め

ないが。

 

さて我が家のパワハラについてだ。これは、前に書い

文章だが、重複してもいいだろう。

40年近く前になる。

私の娘は整理整頓が極端に悪く、家内はいつもイラ

イラ嘆いていた。

 あるとき、自転車の鍵がなくなり、探し回ってやっと

出てきた。と思ったら、すぐに、翌日だったか、誕生

日にと、母からもらった祝い金が紛失した。

続けさまのことだから、私は怒って、娘を正座させ、

日ごろのだらしなさをこんこんと説教した。

 そして、説教が終わった後、“お前の虫歯はどちら

か”、と私は聞いた。娘は、そのとき虫歯が腫れてい

て痛がっていた。

娘は、 “右”と答えた。

私は、そこで左ほほをかなりきつくはたいた。娘は

わっと泣き出した。やっと説教が終わって、許され

る!と思ったときの不意打ちだ。

なお、この時の金封は勉強机の引き出しから、すりぬ

けて下に落ちていたらしい。

私は息子を三回、娘を二回殴っているが、それぞれ

私としての理由がある。

息子は、“殴られた理由には一応納得している”、と

いっている。

 

父の日が前にあったが、「父の思い出はなに?」と娘

に聞いたら、“一番憶えているのは、はじめて殴られ

たこと、説教が終わったと思ってたら“痛い方はどっ

ちや“、無邪気に“こっち”と云うたら・・・パーン、め

ちゃめちゃ傷ついた”。

私は、娘も、息子もずいぶん可愛がった。まあ、あれ

が強烈に娘の心に残っているとしても、私の愛情に

は変わりはなかった。

なお、私の上の行為には賛否両論あって、息子

は“理にかなっている”、といい、娘と家内は“信頼を

傷つける”、と否定的だ。

 

しかし、私は、自分のやったことは、間違ってはいな

いと思う。それで、彼女が良くなったかどうかは別とし

て、ちゃんと今まで憶えていて、まともに私に付き

合っている。息子は、私の行為をみとめている。

 

 もうこれからは、“絶対に暴力はだめ”、という、ステ

レオタイプの発言しかスポーツ関係者はできなくなっ

たが、これは間違いだ。行き過ぎはだめだが、やられ

た本人が納得していれば口で言うより効果はあると思う。

 でも、相撲の場合なんかはたびたび行き過ぎるし、

実際ひどい例がある。

今回の女子体操のコーチのパワハラは、彼女がなん

とも思っていないらしく、協会幹部の言葉の、態度の

パワハラが恐怖だったそうな。

日大アメフト、レスリング、ボクシング、・・・・、どこまで

行くのか、直接の暴力ではなく、もっと陰湿だ。

いやになる話ばかり出てくる。

 

 


包丁始末記

2018年09月02日 | 雑感

2018年9月2日


我が家には包丁があまっている。母が亡くなったあと残った包丁もあり、使いきれない。

結構いい包丁もある。有次、菊一文字、三木の出刃包丁。

 

私の山小屋友達で、包丁とぎを専門にしている後輩がいる。

彼には前に、わがやの、“さびいわし刀”数本を処分してもらったことがある。

                                 

                        


 

写真、右は今回その後輩に処分してもらうもの、右は我が家で残すもの。 そのうちの4本の砥ぎを

頼むことにする。

 

家内は、我が家の包丁の切れ味にいつも文句をいっている。

包丁砥ぎは、感性の問題だ。わたしは上手とは言えないが、まったくの音痴でもない。

 

砥ぎのうまい友達は本職を含めて数多い。山小屋修理仲間だから当然だ。


彼らは、“あんたのは、船頭が艪をこぐようや。ゆっくりゆっくと先端をまるめてるんや”、という。

 

ただ、いまでも少しは腕があると思うから、家内に、“その4本は、オレが砥ごうか?”、と言ったら、

“あなたがやるから、全部だめになる!”、と言われた。

 

若いころはいまほど悪くはなかったが、歳とともにどんどん腕が悪くなる。

 

“バカとハサミは・・・”、言うにことかいて、思わず口に出た家内の言葉だ。


 “ハア?!”、と私がいったら、“ごめん、ごめん”、と家内。

 

先日、後輩が来て、その日のうちに4本砥ぎを仕上げ届けてくれた。すべて有次だ。

みごとなもので、すべてぴかぴか、切れ味は抜群になっている。

お礼は、そこそこいい酒一本ということだが、まだ渡す機会がない。


                                   


追記:

私は長年、“有次”、を有難がっていたが、山仲間が、“コーナン”、で買ってくるいろいろな安物の

刃物の切れ味を見て、結局、“なんでもええのやな”、とわかるようになった。

まあ、名前が欲しいのは恰好だけです。