エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

 疎開の時のおやつ

2017年08月21日 | 雑感

2017年8月21日

 

  終戦翌年の3月、食糧事情が京都よりましと思った父の判断で、5歳少し前の私は母に連れられて姉・妹とで

父の郷里の鹿児島の寒村に疎開した。

戦争が終わったのに疎開とはおかしな話だが私はこれも疎開と云っている。

しかしこの疎開は京都の配給制度が比較的整っていたことを考えると、とんでもない誤算だった。

 

 主食はサツマイモとイモ蔓入りおかゆで、腹いっぱい食べた記憶がない。

嗜好品としては大人たちがイモで作った水飴と、木灰のアクを含んだ汁でもち米を煮込んで作る

“ちまき”(あくまき)だけだった。 あくまきはキナ粉をまぶして砂糖をかけて食べる。

でも両方ともたまにしか食べさせてもらえない。

 

村の子供たちが日常唯一自前で調達できたのがニッキ、私たちはこれをキシンと呼んでいた。

これは“日桂”の木の根の皮だ。味はシナモン(スリランカ産)と同じ、辛くてかじりすぎると口の両端がただれ、

“あくち”になる。


その木は村にただ一本、父の母の従姉妹・おむつばあさんの家の裏の崖に生えていた。

私が従兄らとこっそり根を掘っていると、気配を感じて“木が倒れる、家が潰れる!”と、ばあさんが怒って

飛び出してくる。この攻防戦を繰り返しながら穴は段々深くなっていった。

 

 村へは京都から広島・門司・久留米をへて、時には貨物車に乗って、阿久根の親戚の家に泊まるなどして

3日くらいかけてたどり着いた。

そこで、一つ上の従兄にくっついて腹を減らしながらも裸足でのびのび村中を走り回りまわった。

70年経った今でも韋駄天のように走っていた村の運動会でのお兄さんの姿を生き生きと思いだす。

それはこんなに早く走る人がいるのかとびっくりするほどで、後のオリンピックの野口みづきはまさにこのお兄さんと

同じく韋駄天だった。

やがて1年が過ぎ、私や姉は鹿児島弁をしっかり習得して京都に帰って行った。

 

ところで疎開先で食べたキシンの味は京銘菓の八つ橋を食べるときに思い出す。

 

                           

 

 

 

                

 

八橋とは米粉・砂糖・ニッキを混ぜてむし、薄く伸ばした生地を焼きあげた堅焼き煎餅の一種で、

形は箏(そう・こと)を模しているともいわれており、凸に湾曲した長方形の形をしている。

 

  

   唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

                 (三河の国八つ橋にて詠める  在原業平 )

 

 



 夏の終わりや大文字

2017年08月19日 | 雑感

      2017年8月19日

 

昨日は送り火の炭を頂くため大文字山に登った。今日の大文字はもう惰性だ。

 

大の字に着くと、高校時代の地元友達のグループと会った。60年前の同級生だ。前は20名近くいたのだが、

だんだん脱落していった。このグループは定年後に集まったらしい。

 

彼らはいろんなお菓子を持ってきている。しきりに薦めるが、私はあまいものがきらいだ。

全部断わっていたら、Eちゃん(同級生)が冷凍保存剤をくれた。首筋や顔に当てると気持ち良い。

これは眼に鱗だった、よかった。こんな使い道があるのだ、これから持って来よう。

 

Hが言うに、「この中で一番健康なのは俺や」

Eちゃんは大文字で転倒、顔を複雑骨折。私は肺を、それに大腸がん、前立腺、甲状腺がん、などみなそれぞれ。

しかし汗を拭いているHの腹は私が小学生だったころの横綱鏡里(わかるかな)級で危険をはらんでいないとは

いえない。指摘して、「自分の年齢をなめるな」、と言ったら奥さんが“ほんとです”同意した。


ところで彼らは、私もこのグループに加われといった。

私は“時間に縛られるのは嫌だし、群れるのもいやだ”と断った。私の友達はTとMだけで充分だ。

年と共にだんだん付き合いがうっとうしくなる。

 

 彼らは先に下山した。私はあとから来たカップルが地形がわからないというので、説明してからゆっくり下山。

途中でかれらのグループを追い抜いた。

 

 わたしの大文字行はただただ体力維持の訓練だ。

私はもと陸上部で、どこに行くのも訓練的歩き方法をとる。

仲間に馬鹿にされるし、自分でも半分納得してないが長年の習慣、習い性になっている。

 

 ところで、大文字の帰りにギンヤンマを見つけた。オニヤンマでなくてもギンヤンマでもこの頃は珍しい。

 

 そして、家に帰って壁に蝉の抜け殻があった。

 

 一首うかぶ、

 

“空蝉と夏の終わりのギンヤンマ”

 

家内に披露したところ曰く 「はい、才能ナシです。もうなんというか手直しできません!」

彼女はこのごろテレビ、プレバトを見ていて、なっちゃん先生の言葉づかいのたくみさにいつも感心している。

まあいいじゃないか。

 

次は、私の疎開の経験です。


大文字送り火の消し炭

2017年08月17日 | 雑感

 

2017年8月17日

 

大文字に行った。

このところ2週間ほど体調が悪かったため登っていないが昨日は送り火だったので、消し炭でももらってこようという気になった。

                                     

銀閣寺横から登り始めると、小さな女の子がよちよち歩いている。すこし上ではお父さんが待っている。聞くと2歳とのこと。この親子は随分時間をかけて、最後子供はお父さんの肩車で大の字まで到達した。

                                     

いつもより人出は多いが、本気の人は早朝行って結構大きな炭を手に入れる。私が行ったのは1時ころだったから、あらかた中心部の火床の炭はなくなっていたが、それでも小粒のものは残っている。

消し炭は、厄除け・災難除け、のお守りになるという。すこし頂いて帰って来た。

                                     

最後の写真は、妙法山の“法の字”の昨日昼のものだ。

五山の火床は古い地元の人に護られているが、人出不足で結構しんどいらしい。

 

                                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


戦争その2・お盆

2017年08月16日 | 雑感

2017年8月16日

 

昨日は大戦の犠牲になった伝説の名投手・沢村栄治についての文を出した。

 

今日はお盆の最終日8月16日だ。京都では五山の送り火が行われる。

写真は家の近くから見える妙法の“法”の字だ。

                             


3日前にこの世に帰ってこられた先祖の霊、おしょらいさま(御招霊さま)がいろいろ接待をうけ、今日帰って行かれる.

船形の送り火に乗って帰られるという説もあるが、それなら残る、大文字、妙法、左大文字、鳥居形の四山の火が

その船を見送ることになる。 

 

お盆の最中の8月15日は終戦記念日だ。

この二つがぴったりあったことは偶然とはいえ大きな意味を持っていると私はいつも思う。

毎年お盆が来るたびに、我々は祖先に想いをはせる。

そして同時に大戦で無残に死んで行った人たち、そして8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下の思いが

よみがえって私たちは合掌する。

 

もし、終戦がお盆以外、たとえば5月のゴールデンウイークの時だったらどうだろう。

大戦の記憶を持った人々がいなくなってしまえば、ながい時の経過とともにやがて大戦は忘れ去られてしまうのでは

ないだろうか。


しかし、お盆と終戦記念日が合致しているかぎり、人のこころの中にこの日はいつまでも特別な日として

日本人の記憶のなかに刻み続けられることになるだろう。そうあってほしいと思っている。


戦争その1・伝説の名投手沢村栄治に会いにゆく

2017年08月14日 | 雑感

 

2014年8月記

 

2014年8月5日の朝日新聞に、沢村栄治の記事が載っていた。

京都学園(旧京都商業高校)に銅像があるという。

それを読んで私と家内は子供のころから耳にし続けた伝説の投手に会いに出かけた。

ちなみに私は野球ファンでもないし、野球にはまったく関心はない。関心はないが“沢村栄治”には関心がある。

 

京都学園中学・高等学校の入口から坂道を下っていくと、木々に囲まれた一角にその銅像はあった。

均整のとれた体格、バランスのいい投球姿勢。

                              

銅像の足元に、彼と京商時代にバッテリーを組んだ山口千万石氏の書いた碑文がある。

2003年、この像が出来る直前に山口氏は亡くなり、彼の碑文だけが残った。 

 

山口氏は、“彼の遺品は何も持っていないが、えらい形見をもらった”、と沢村の球を受け続けて変形した左手の

指を見せたという。

 

沢村は三度徴兵された。

 

志村正順アナウンサー(NHK)が、戦地から帰還して再び野球に加わるようになった沢村を見て愕然とした。

しばらくは彼だとわからなかったが、わかったあと、あれほどの投手が、と涙が出そうになった、そして戦争とは

これほど残酷なものかと思ったそうだ。

 

沢村は剛腕ゆえ、”手榴弾投げ競争”にたびたびかり出された。硬式球の3倍以上ある手榴弾だ。

その結果、投手の生命である右肩をつぶしてしまった。

 

三度目の出征で、彼が乗ったフィリピンに向かう輸送船が撃沈され、屋久島沖で戦死。   享年27歳。

それから70年経つ。

 沢村栄治の銅像を見ている私らの傍らを、はじけるような笑い声と共に自転車を押して上がってくる屈託のない

女子生徒のグループが通り過ぎていった。

 

山口氏の碑文には、”この像を、未来の平和に願いを込めて、母校に学ぶ若人諸君に贈る”という旨の言葉が

記されている。