エッセイ -日々雑感-

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 ハンコ廃止、おじいさんのランプ、と、元号について

2020年10月19日 | 雑感

2020年10月19日

 

政府主導のハンコ廃止の話、一瞬、新美南吉の「おじいさんのランプ」が頭に浮かんだ。

ランプ売りを生業とするおじいさんだったが、あるときから電燈が村に入りだした。それでおじいさんは絶望的になってランプを次々と集めて谷川に投げ入れて割っていった、というのが家内、私のぼんやりした幻想的なシーン、記憶だ。

 

 しらべなおした、“孫にきかせる「おじいさんのランプ」の話”はちょっと違う。おじいさんはランプもない村で過ごしていたが、あるときランプが輝く“竜宮城”のような村に行った。おじいさんは、これからは“ランプの時代だ”、と思い、そしてランプを手掛け成功した。ところが、いつしか電灯が村に入ってきる時代になった。おじいさんは絶望的になって、自分のもっているランプ全部に油をいれて点火し、谷川に持っていって木に吊るして、それに石をなげて割った、“これが自分の終わるやりかただ”、と。しかし、数個割ったあとで、“これではだめだ”、と反省した、そして、おじいさんは本屋になった。

 おじいさんが孫に言うには、“自分の仕事が時代に合わなくなったら、それにしがみつくことなく、別の道をさがせ”、というきわめて教訓的なことだった。わたしも家内も誤解していた。

 

 これとハンコ廃止の話は大勢の人間が職を失うという点では同じだが、同じようにみえて、少し違う。たしかに会社内での稟議書でハンコを貰うのは一苦労だ。行政行為としての《ハンコ押印》を他の方式に変換し,行政簡素化,高速化していくと言う流れは,避けられそうにない。しかし、すべてうまくいくのだろうか。重要書類に必要な実印、割り印などはどうなるのだろう。それにたびたび発生する偽ソフト。

ランプの死は機械的で、絶対的に仕方なかった。

 

 ついでに言えば公的書類の元号年記入。昭和生まれの私は、昭和時代は私の生まれ年に25たせば西暦になれたが、平成から混乱した、そして令和。元号年記入のたびに天皇制まで否定したくなる。「西暦でも元号表記でもどちらでもいいですよ」と記入書類を変えるのは、ハンコ廃止・ランプ排除よりもずっと簡単で被害は少ないし、たいていの人は喜ぶはずだ。元号表記をいつまでも強制する国が気持ち悪い。

 

鹿児島の寒村から出てきた父はかなの歳になるまでランプ生活だった。ランプのホヤみがきの役割だった、いま生きていれば110歳位、の叔父が言うには。「ランプのホヤをピカピカに磨くのは、けっこうおもしろかったとよ」。

 


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