エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

ご愁傷さまです

2017年02月05日 | 雑感

              2017年2月5日

昨日の朝刊に電報の広告特集が折りこまれていた。

“結婚祝い、入社祝い、合格・卒業・入学祝い、母の日のお祝い、叙勲祝いなどを当社の電報サービスで”と

いうものだ。

その中で気になることがあった。 弔電のイラストでの夫婦の会話、“〇〇さんのお葬式は家族だけでやるそうだが、

気持ちだけは伝えたいから電報を・・・”という内容だが、その〇〇さんは私だ。

叙勲の祝いとか結婚式のイラストでも名前を使っているが、これはいい。でも弔電のイラストではだめだ。

私も歳だし2年前に肺がんになっている。そして昨年母がなくなった。          

                                                             

まあ必ず来るものだから仕方がないが、名前を使われたものとしてはあまり気持ちがよいものではない。

この類のものの制作ではもう少し慎重であってほしいと思うのだが。

 


恵方巻きとバレンタイン

2017年02月03日 | 雑感

2017年2月3日

 

今日TVで節分の恵方巻きの番組があった。タレント達が面白おかしく恵方巻きに挑戦していた。

 恵方巻きについては、関東ではあまりやらないというタレント、関西では昔からの習慣だというタレント、でも今では

では節分のイワシと同じように大昔からの風習というような言われ方をしている。

 下の文は昔節分のころに書いた文だ。でも、恵方巻きに反対しているのではない、ただ前から不思議だと思って

いただけのことだ。

                                  

2010年1月29日記

 昨日、“K寿司”に行った。早かったのでほかに客はいない。

ここは小さな店だが値段がやすくて雰囲気もいいから結構はやっている。

ビールをたのんでふと横を見ると、従業員のおばさんが赤のマジックで恵方巻きのチラシに値段を書き入れる作業を

していた。

 私はこの、“2月3日節分の日に恵方(えほう)に向かって巻きずしを丸かじりすると福がくる”という行事はどこから

きたのかずっと疑問に思っていた。

少なくとも私の子供のころにはなかった。

いつからそんな習慣ができたのか、と店主に聞くと、

『昭和40年代(1965-)にできた。   厚巻き業界(たまご焼きの業界)とノリ業界(これは乾物をあつかっていて

かんぴょうなんかも海苔まきに使うから丁度いい)と寿司業界の三者が協議して、不況時の2月を乗りきるために

作りだしたバレンタインのようなものですわ』、としごく明快な説明をしてくれた。

2月がなぜ寿司屋、卵焼き屋、のり業界にとって不況で落ち込む時期かもと説明してくれたが、その説明は長くなる

から省略する。

 

さて、おばさんは店主に、「かならず福がきますと書いてあるけど、これほんと、どうなんですかね・・・」と懐疑的質問

をする。

店主、ちょっと困って、「いや、それは考えようなんや。今、交通事故にあうと考えたら・・・」とわけのわからない釈明をす

る。

物の値段は店によって、そして時によって変わるから値段を手書きにしなければならないのはわかるが、チラシも去

年と同じのを使うわけにはいかず、印刷屋に毎年たのまなければならないらしい。

恵方は年ごとに変わるからだ。

 「これ、予測できないんですわ。どこかでサイコロふって決めてるのとちがいますか」と店主。

今年もまた節分の日がやってくる。今年、平成22年2月3日の恵方は西南西の方向だとチラシは言っている。

 

 

 

 


奥さん(その2) 学生、卒業生との交流

2017年02月02日 | 雑感

             2017年2月2日

学生は先生宅に入り浸っていた。特に下宿生だ。

オカダさんが言う、“金がなくなったら先生とこに行く。メシは食える、酒は飲める、そして雀荘とちがって金払わんと麻雀ができる”。

だから卒業し、結婚して子供が出来ても卒業生は先生宅を訪れる。どれだけ多くの卒業生の仲人をされたか数え切れない。 

先生の定年退職時に、当時講師だったウエダさんが入手可能な限り多くの卒業生の写真と先生夫妻への手紙がついたアルバムを作った。

先生が教授になられた時の最初の学生に始まって在校生まで。

先生の記憶は素晴らしく、88歳で亡くなられる直前まで、卒業生の卒業年度を正確に憶えておられた。

奥さんも同様だ。卒業生の奥さんの名前、特に親しい場合はその子供達がいつ生まれたのか、名前は・・・・、など。アルバムは奥さんの宝の一つだ。

それと、細やかな心遣い。

          

           

私の娘が生まれた時に、”おめでとうカード”と一緒に、娘が生まれた日の朝日新聞と、京都新聞の朝刊と夕刊一部ずつを送ってくださった。

新聞とは私も考えつかなかった。昭和48年(1973年)7月17日。

ミンダナオ島で旧日本兵が生き残って現地で結婚して生活しているとの記事がある。祇園祭の宵山(17日の祇園祭の前夜)の写真がある。

先生が亡くなられてひさしいが、今でも卒業生は頻繁に来る。前回書いたように年1回の老年組の旅行、若手の年一回の奥さんを囲む会がある。

奥さんは90歳になった。

老いはあれほど活発だった奥さんにも徐々に訪れる。

業生が電話を何回かけてもかからないときがある。そんな時は先生宅に一番近い私のところに、どうなっているのか、と問い合わせがくる。

たいていはなんともない。

まだ健康のためにコーラスをやっておられるが、歩行に難がでるようになった。

 

そういう我々も歳をとった。“T会”の最長老は79歳。超80歳はリタイヤーしている。

 


 奥さん(その1) - カワタさんとの別れ

2017年02月01日 | 雑感

 2016年12月

カワタさんが亡くなったという知らせに驚いた。24年間続いている大学の研究室の教授夫妻を囲む一泊旅行会“T会”で10月末に会ってから2か月とたっていない。 

先生は6年前に亡くなられたが、“T会”は今も連綿と続いている。人数はちょっと減って25名ほどだ。私ら年寄り組とは別に60歳以下の若手も年一回奥さんを囲んでいる。

 奥さんは、“K会”の名で花を送りましょう、と言ったが、これは長老ススキさん、一年上のオカダさん、そして私が反対。そういうことを始めたら、これから何回もやらねばならない。前回それで苦労した、“K会”は任意団体だ。

 私は「奥さん、あなたが亡くなられた時は先生の時と同じように必ず“K会”の名でお花を送ります、でも、それ以外はすべてなしです」といって黙らせた。

私は弔電をうった。他の連中も適当に対応した。

 あとできくと、奥さんは独自で献花したらしい。

 数日後、社葬の案内が来たときに、“カワタさんの”K会“でのパネルを、作ったらどうやろか”、と奥さんは言いだした。“私にはその技術はない”とこれも断った。奥さんは写真が好きで、奥さんの家は家族と我々卒業生、その他、その他、のアルバムで一杯だ。

そのお鉢がオカダさんに廻ってきた。

オカダさんは写真のベテランだ。パネル作りはOKしたが、社葬では混乱するからその後にすると云う。

カワタさんの同級生ススキさんが社葬に行って来た。報告によれば、日ごろ大言壮語するだけあって知事や外務大臣も来た立派な式だったらしい。

 さて、先週の土曜日、オカダさんから、“パネル作ったから見に来い”という電話が入ってきて、奥さん宅に行った。

                                         

先生も学生に人気があったが、奥さんは底抜けに世話好きだからもっと人気があった。

 

逸話も多いが、この話はカワタさんの学生時代、60年近く前の話だ。

カワタさんが車の事故で足をケガしたので、同級生数人で彼を先生宅の長屋にほり込んだ。外出先から帰って来た奥さんは驚いて、“どういうわけ!”と尋ねたら、“カワタの下宿の部屋は二階なので便所がこまるからここに連れて来たのです”。先生一家は当時、ボロ長屋にすんでいた。

“あんたらどうしてここにはいれたの?”と聞くと、カワタさんは、”鍵の隠し場所なんかわかってますがな“、と言うわけで彼は2,3週間先生宅から大学にかよった。

奥さんは腹がすわった人だったが、先生も“そんなことどうでもええやないか”という人だった。だから、学生にとっては絶大に信頼のある夫婦だった。

ただし、カワタさんも奥さんが事故を起こした時にその処理をして恩返ししている。

 

さて、カワタさんはおしゃべりだった、彼の饒舌にうんざりして、敬して遠ざかる仲間もいたが、私は好きだった。

ちょっと体調が悪い、と言ったら冬虫夏草をどさっと送ってくれたこともあった。燃料関係の会社を経営していて、中国と頻繁に取引していた。

この歳になると、友だちが多いのも考え物だ。寂しい思いを何度もしなければならない。