陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

テレサ・テン(鄧麗君)と佳曲<何日君再来>

2008-01-08 05:07:02 | 台湾関係
 私は1986年11月に初めて支那大陸を訪問した。北京、長春、吉林へ行き、2週間程を過ごした。早朝、マイクロバスで北京の街を移動している時、バスの周囲には厚ぼったい人民服を着た無数の人々が自転車で通勤している姿を窓越しに眺めていた。まるで洪水のような自転車の流れ、マイクロバスがその中にぽっかりと浮いているようだ。

 ドライバーがカセット・テープを掛けた。女性歌手が北京語で爽やかに歌っている。その中に、「星影のワルツ」があったから、おやと思った。それで彼女の歌声に集中した。支那風にアレンジされたゆったりとした曲が窓外の自転車の流れに良く合っている。とても上手な歌手で、透き通るような声であるが、残念ながら北京語のために意味は分からない。通訳に「この歌手は上手だね。何と言う人?」「鄧麗君(デン・リージュン)ですよ。人気のある歌手です。日本の歌も沢山歌っています」と言って、彼は紙に名前を書いてくれた。きれいな名前だなと思った。

 当時、NHKのテレビドラマ「おしん」が大陸でも放映(白黒画像)され、相当な人気を呼んでいた。日本の演歌も紹介され、取り分け「北国の春」は人気があるらしかった。吉林の宴会パーティで何か歌えというから、伴奏無しで「北国の春」を歌った。演歌で2番まで暗記していたのはそれだけしかなかったからだ。皆大いに喜んでくれた。その時は、中曽根/胡耀邦交流の余韻を感じた。

 帰国して、山東省出身のシナ人青年に「どうでした、印象は?」と聞かれて、色々感想を述べた。「親切にしてもらったが、皆これからの経済発展を期待していたね、何所へ行っても、建設中のビルが多かった。吉林は石炭煤煙で汚染がひどかったが、大河・松花江の流れは実に悠々としていた。かつて満州時代に日本の残したダムや建造物が有効に使われているのを知って、実に嬉しかった」などと語った。

 何気なく、「鄧麗君と言う女性歌手の名前を覚えたよ、上手な歌手だね」と言ったら、「あの人は、大陸でとても有名、人気があります。私もカセット・テープを何本か持っている。日本では、テレサ・テンと呼ばれていますね」との返事。

 その頃、台湾出身の歌手テレサ・テンは、長い黒髪、そして丸顔でスタイルが良く、日本でも時折TVに出ていたので私も知っていた。カラオケで彼女の持ち歌「つぐない」や「愛人」、それに「時の流れに身をまかせ」を歌う人たちも多かった。鄧麗君=テレサ・テンか。道理で歌が上手なわけだ。

 そして3年後に<第二次天安門事件>が起き、90年代に入ってテレサ・テンの歌声がTVであまり聴かれないまま、時が過ぎた。あのおぞましいオウム騒動のあった年、1995年の5月8日、テレサ・テンがタイで亡くなったとのニュースが流れた。享年42歳と聞き、「まだ若いのに、何と!」と正直そう思った。そして、もともと少なかったテレサ・テンの記憶は、私の脳裏から次第に薄らいで行った。

 昨年5月、本屋の新刊書コーナーで有田芳生著「私の家は山の向こうーテレサ・テン10年目の真実」(文春文庫)と言う本を見つけた。何となく買って読む内に、改めてテレサ・テンその人に惹きつけられた。有田氏が克明に調査し、彼の想いを詳細に述べた力作によって、テレサの激しい生き方に共感を覚えた。そして、彼女はあの<天安門事件>の犠牲者なのだと思うようになった。

 この文庫本の原型は、2005年に刊行された有田氏の同名の書(文芸春秋社刊)で、それには書名と同じ彼女の歌のCDが付録として付いていたらしい。今更、同じ本を買うよりはと言うので、「ドラマティック・ベストセレクション:テレサ・テン物語」(ユニヴァーサル、2007)を買って、この歌をじっくりと聴いた。そして、これはテレサの絶唱だなと感じ入った。

 多分、天安門事件の直前、香港の「ロンシャン競馬場」で開催された反中共コンサートの中で、飛び入りライブをしながら歌われたのだろう、まるで語るような歌いぶり、最後に感極まったテレサが「ワオッ」と〆ると、観衆が激しくそれに応えるような雰囲気が録音されている。この歌の淵源や何故テレサがそれを歌う気になったのかは、有田氏の著作に詳しい。その後、テレサ・テンはあの<天安門事件>の悲劇、大陸の若者達の虐殺に打ちのめされ、失意の内に自宅のある香港を離れ、パリに居を移した。

 70年代の末頃、蒋経国・国民党政府は金門海峡でテレサ・テンの歌う蒋介石時代の古い歌<何日君再来(ホヲリィチュインツアイライ)>を対岸に届けとばかり大音響で流し、そのカセットテープを風船に託して大陸へ放った。中共政府は、テレサ・テンの歌を聞くことを厳しく禁じたが、大陸の民衆はそれを掻い潜り、彼女の歌に聞きほれた。

何日君再来  テレサテン


 その時期、20代半ばのテレサは台湾軍を頻りに慰問し、自ら軍服を着て小銃を構え軍の士気を鼓舞していた。台湾の軍人達は、彼女を「兵士の永遠の恋人」と呼んだ。戒厳令が続く台湾では行動に制限があったけれども、香港の生活と日本訪問を通じて共産主義体制の圧制に対し彼女は直感的な反発を感じていたのだろう。

 だが、胡耀邦総書記が実権を持ち、中共の開放政策が一段と進んでテレサの歌への規制も緩んだ。中曽根/胡耀邦交流の頃には、<日中友好>が大きく進展、人的な交流や日本文化の大陸導入も許容された。私が訪中した頃はそんな雰囲気に溢れていた。

 胡耀邦総書記の開放政策に、鄧小平を始めとする古老達は共産党独裁に対する危機感を持った。やがて胡総書記の失脚、その死亡を切っ掛けに89年6月の<天安門事件>は起きた。小平の自由化弾圧は、彼が1997年2月に亡くなるまで後継者江沢民総書記によって維持された。

 その1年前、1996年に李登輝総統の民主的選出に向けて、中共は金門海峡周辺で恫喝のため大軍事演習を行う。対抗して、米国空母艦隊がこれをけん制するなどの動きがあったが、その時既にテレサ・テンはこの世を去っていた。

 テレサは、胡耀邦政権の政策変更を悦んで、北京の天安門広場における100万人参加の大コンサートを企画していた。それは、台湾政府と中共政府の融和を夢見たものであった。しかし、天安門事件が起きて、多数の若者が惨殺されたことを知り、彼女は完全に塞込んでしまったらしい。

 以後、台湾へはあまり戻らず、香港、パリ、タイと住まいを変えるようになって、1995年5月8日にタイ・チェンマイで死を迎えた(気管支喘息)。現在は、台北の北東60kmに位置する金寶山墓地に彼女は眠っている。今も命日には、アジア諸国から沢山のファンが墓地へ集まる。「アジアの歌姫」と言われる由縁である。

 さて、「何日君再来」は、Wikipedia によると1937年に上海で製作された映画『三星伴月』の挿入歌である。作詞・作曲者がはっきりしないのだが、CDにはそれぞれ、貝林・劉雪庵となっている。当時、歌手の周璇が唄って人気を呼んだ。日本では、李香蘭(山口淑子)や渡辺はま子らが唄っていた。

 日支事変中の当時、蒋介石政府はこの歌を日本軍が広めて支那軍を軟化させようと企んでいるとして排斥した。一方、日本軍は南京陥落で重慶へ引っ込んだ蒋介石軍へ「何時帰ってくるのか」と民衆が呼びかけている歌であるとして、やはり排斥した。

 第二次大戦後、蒋介石政府が台湾へ移ってから、過酷な圧政に苦しむ台湾の人々が日本の統治時代を懐かしみ、日本人に「何時帰ってくるのか」と呼びかける歌であるとして国民党政府はこれを禁止していたとのこと。

 1970年代の末に、金門島の広報センターからテレサ・テンの歌う「何日君再来」を大音響で対岸の福建省へ流し、政治的に用いたことは既に述べた。優しいメロディーで、歌詞も恋人が相手を思いやる歌謡曲なのに、政治に翻弄されて数奇な運命を辿ったのだ。現在は、台湾、大陸、そして日本でも多くの歌手が自由に歌唱している。

 
 <心声>ブログさんでは、「何日君再来」の歌詞を掲載し、その日本語訳が示されているが、北京語の歌詞は次の通り。

何日君再来』中国語歌詞(繁体字)

(一)

好花不常開,好景不常在。

愁堆解笑眉,涙灑相思帯。

今宵離別後,何日君再来? 

喝完了這杯,請進點小菜。

人生難得幾回醉,不歓更何待!

説白:
(来、来、来,喝完了這杯再説吧。)

今宵離別後,何日君再来?

(二)

停唱陽関叠,重白玉杯。

慇勤頻致語,牢牢撫君懷。

今宵離別後,何日君再来?

喝完了這杯,請進點小菜。

人生難得幾回醉,不歓更何待!

説白:
(啊…再喝一杯,乾了吧。)

今宵離別後,何日君再来?


 テレサ・テンは、自分と同じように大陸の若者達が行動の自由を謳歌すること、そして敬愛する父母の故郷へ行けることを心から望んだ(彼女の父母は外省人)。若い時は、軍人の仲間となって台湾防衛に精神面で協力したが、蒋経国の死と共に大陸の民主化、そして台湾と大陸の一体化を次第に夢見るようになって行ったのであろう。そんな彼女が、天安門事件に感じた言い知れぬ絶望感を何となく理解出来るのだ。

 歴史的な政治問題の狭間で悩みつつも、天性の才能を生かして燃え尽きた歌姫、そのようなイメージを私は彼女に対し抱いている。テレサ・テンの永遠の恋人は、大陸そのものであった。<何日君再来>は、真に彼女に相応しい歌謡曲である。

(参考)

 リリーさんのテレサに関する詳しいHP<鄧麗君(テレサ・テン)>
 http://www.ne.jp/asahi/lily/teresa/teresa/
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2 コメント

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こちらこそ宜しく (茶絽主)
2008-01-13 04:21:59
Kousotsudr 様

インリン人気は一時的なものでしょう。
私は、気になりません。

今、台湾にいるのですが、今回は金寶山へ行く時間が無いので、スキップします。でも、何時かテレサ・テンのお墓へ行ってみたいと思います。
返事が遅れてごめんなさい。
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今年も宜しくお願いいたします (kousotsudr)
2008-01-08 23:22:21
トラックバック有り難うございました。

良いエントリーでした。
私も以前、中国人留学生(長春出身)に彼女の歌をCDに焼いてプレゼントしたことがあります。喜んでましたよ。本当に中国庶民に愛されていた方だったようですね。

”つぐない”や”愛人”が日本でヒットしている時には、彼女がこういう方だったとは全く知りませんでした。なるほど、当時の経緯がよく分かりました。

今、日本にいてTV等によく出ている台湾出身芸能人と云えば、反日インリンくらいしか思いつきません。
劣化著しいこと、この上ないですね。

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