惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-4-07d

2012年04月09日 | THN私訳
4-07 結論(承前)

以上がわたしの不機嫌と怠惰の心情である。実際わたしは、哲学はこうした心情に対立するものは何も持っていないし、勝利は理性と確信の力によるよりは、よっぽど真面目で明るい気質を取り戻すことの方に期待できる、と、そう思っていることを白状しなければならない。人生のあらゆる出来事に際して、我々はいつも懐疑を保っているべきである。我々が「火は暖かく、水はつめたい」と信じる理由は単に、それとは逆に考えることがあまりにも高くつくからである。いな、(我々が普通の人ではなく)哲学者であったとしても、懐疑的な原理にのみ基づいて哲学者であるべきである。つまりテツガクっぽく振る舞うものでありたいという(心の)傾向によってそうあるべきである。理性が活気づいている、つまり何らかの傾向と混じりあっているところでは、それ(理性)は同意されるべきである。そうでないところでは、それ(理性)は我々に作用するようないかなる資格も持つことはできないのである。

そんなわけで、娯楽や交友に飽きると部屋にヒキコモって空想にふけったり、あるいは川沿いをひとりで歩いていたりすると、わたしは自分の心がまったく内向きになっていると感じる。そこから自然に、読書や会話の中で出くわしてきた、うんざりするほどたくさんの論争の主題のすべてに目を向けようという気になってくるわけである。わたしは、道徳的な善悪の原理、統治(government)の本性と基礎、わたしに活動を促したり支配したりする何やかやの感情や傾向の原因、それらを知りたいという止みがたい好奇心をもっている。あることを認めるとか、別のあることを認めないとか、これは美しいとか、これはひどい(笑)とか、真か偽か、賢いのか愚かなのかを判断するとか、そういうのをどういう原理に基づいてやっているのか、自分がそれを知らないでいるということに気が気ではいられないのである。わたしは、こうしたことのすべてについて嘆かわしいほど無知であるような知的界隈(learned world)の状況を憂えている。かくてはならじ、人類の啓蒙に貢献し、己が発明と発見によって名をなさん、そういう野心が頭をもたげてくるのを感じる。そういうキモチが、現在のわたしの気質から自然とわいて出てくるわけである。もしこのキモチを、何か他の雑事や気晴らしにかまけることによって消そうとすれば、わたしは喜び(を得る)ということについては負け犬になってしまうような気がする。(さよう、)これこそがわたしの哲学の原点なのである。

こうした好奇心や野心がわたしの考察を駆りたて、ついに日常生活の圏外へわたしを放り出すとか、まさかそんなことはないとしても(笑)、しかしわたしはまったくわたしの弱さから必然的に、こうした(哲学の)探求の方へと導かれて行くに違いない。宗教※1はその体系といい仮説といい、哲学のそれよりはずっと大胆なものであることは確かである。後者は、目に見える世界に現れる現象に対して新たな原因や原理を設定するとか、そういうことしかしないものであるが、前者はおのれの世界を展開し、まるっきり新たな場面、存在、対象を我々に提示するものである。人間の心は、他の動物の心がそうであるように、日常会話や行為の主題となる対象の狭い範囲にとどまるということが、ほとんどできないものである。したがって我々のなすべきことは、(その外へ向かう際の)案内役をよく考えて選ぶこと、そして最も安全かつ快適な案内役を選好すべきだということに尽きるのである。そしてこの点において、わたしは大胆にも哲学を推奨する。どんな種類の、どんな名前の宗教よりも、わたしは断固として哲学を好むのである。なぜなら、信心は人間のふつうの考えから自然的かつ容易に生じるものだからである。それだけに心を強くとらえもするし、時として我々の生活や行為の操行をかき乱しもするのである。哲学はそれとは反対である。哲学はそれが正しかった場合でも、ただ穏健で適度な見解を提示してくるだけである。あるいはそれがウソで法外な代物であったとしても、その見解は単に冷静かつ一般的な考察の対象であるにすぎない。それが心の自然的な傾向の進みゆきを中断して暴走するなどということはめったにない※2。(もっとも)犬儒学派(キュニコス派; the Cynics)のような異常な例がないではない。彼らは純粋に哲学的な推理から、かつて世界に現れたいかなる修道士やイスラム苦行僧にも劣らない、まったく常軌を逸した行為に走ったのである。(とはいえ)一般的に言えば、宗教における誤りは危険であり、一方哲学におけるそれというのは、ただマヌケなだけである。

※1 この原語はsuperstitionつまり「迷信」なのだが、このあたりで用いられているsuperstitionという語の意味内容はどう見ても「宗教」のそれであるので、この段落に限ってすべて「宗教」ないし「信心」と訳している。ただし最後の一文の「宗教」は原文もreligionである。こうした訳がバチ当たりで不愉快だと感じる向きはスティーヴィ・ワンダーの名曲「Superstition」、あるいはスティーヴィ・レイ・ヴォーンによる素晴らしいカバー・バージョンでも聴いて機嫌をなおしていただきたい(笑)。
※2 遺憾ながら18世紀のヒュームにとっては想像だにしえないことであったのだろう、20世紀の革命と戦争のすべては、まさしくある種の哲学(理念)が「心の自然的な傾向の進みゆきを中断して暴走」した結果であると言わざるを得ないものである。そしてそれは今世紀に入っても、哲学も啓示も流行らないはずのわが国においてさえ、本当はまだ終わっていないと言わなければならない。ウソで法外な哲学(理念)、ないしは哲学(理念)のウソと法外といったものは、あまりにしばしば、あまりに多くの人々の心を強くとらえ、その生活と行為の操行をかき乱しに乱しまくっているのである。

(つづく)

from YouTube - Stevie Wonder

Stevie Ray Vaughan
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 4月8日(日)のつぶやき その3 | TOP | 4月9日(月)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | THN私訳