そもそも大人は流石に「線形」の意味くらい知ってるでしょうに
そんなことはねえよ。俺だって学部再入学して数学やり直すまでは相当怪しかった(笑)「線形」が「linear」の訳だと判っていてもだ。「線形方程式」「線形順序」「線形空間」「線形作用素(演算子)」etc. と、文脈によって「線形」という形容のかかりどころが結構違うわけだ
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ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
(室生犀星「小景異情」その二)
犀星は北陸の人で、この詩の「ふるさと」も北陸の風景が念頭に置かれていたはずだ。俺は故郷に住んでる間この詩を読んでも判らなかったが、東京に来て3日も経つとすっかり判った(笑)田舎を出てきた人は故郷においては死人になる。この詩はその死人の唄で、死んだことのない人には判らないのだ(笑)
「少女たちは荒野を目指す」この番組はどうも、ハナシの本筋であるところの同人エロゲ制作のすったもんだはまるで面白くない(笑)のだが、本筋から逸れたところの、たとえばこの7話で主人公と幼馴染が葛藤したりイチャイチャしたりしているシーンなんかは実にいいのである
そして今夜の番組はどういうものか、どれもそういう風に眺めると一番面白いような作りの話ばかりだった。「ノルン+ノネット」しかり「だがしかし」しかり、そればかりか「ルパンⅢ世」や「アクティヴレイド」までもがそうだった。示し合わせたわけでもなかろうに、いったいどういう偶然なのだろう
農業に限らず金融だの販売だの福祉だのそれこそ教育研究だのなにを見ても「日本は遅れて追いかけている」という感じが普通になっちゃってるんだけど、いつからそうなったんだろう。30年前には誰もそうは思ってなかったと思う。
ウソつくんじゃねえよ、と言いかけて、30年前と言ったらすでに1986年だな、と思い返した。それなら確かにそういう面があったかもしれない。プラザ合意が1985年だから、1986年というとそろそろバブルが始まった頃だからである
これが30年前でなく35年前、つまり1981年だったら、農業でも金融でも流通でも福祉でも教育でも何でも「日本は圧倒的に遅れている」という印象を持つ人が圧倒的大多数だったと思う。バブルの頃に限ってそうじゃなかったのは「金さえあればなんとかなる」という楽観的なふいんきがあったからだ
ちなみに1986年に「誰もそうは思ってなかった」というのは、少なくとも俺という例外がいたことをつけ加えておきたい。俺でなくても、計算機ソフトウェア開発で当時の世界水準を多少なりとも知っていたら、わが国がいずれソフトウェアの分野で大敗北するのはほぼ確定的に見通せたはずである
米二大外交専門誌「Foreign Affairs」「The National Interest」のシリア情勢関連記事抄訳とその感想(Conflictwatcher/Togetterまとめ) togetter.com/li/940113 「シリアで勝利しつつあるアサド大統領」
つまり無知がどうとかいう話ではなく、図式としては「便所飯」とおんなじではないかという気がする。便所飯の背景に「友達のいない人と思われてしまう」不安、その不安から生じる攻撃と防衛があった(とされる)ように、事実的知識をめぐって同じ不安と、不安から生じる攻撃や防御が蔓延りつつあると
「シュヴァルツェスマーケン」渡邊哲哉監督が語る“ロボットもので、仮想戦記もの”(アニメ!アニメ!) animeanime.jp/article/2016/0… ”これやっていいんだろうかという部分もありました。シュタージは実在したんです。しかも相当酷いことをやっている。非常に気を遣いました”
別にそれが正解だと強く主張したいわけではないのだが(笑)上のブログ主は同世代のようだし、石森でも石ノ森でもマニアックなファンはたいてい無視する作品だから、敢えてそう答えるようにしているというものだ。「ごっこ」が連載していた小学生の頃からだ