惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

チアガールイカちゃん

2011年09月30日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
原題は「チアガールイカちゃん(トレス)」で、つまり新シリーズのOPのワンカットをトレスしてでっかい画像を作ってみました、というもの。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」
銀河さんさん様)
※トリミング・縮小・背景色調整済:原寸大画像はリンク先でどうぞ
→pixiv/銀河さんさん

・・・だったら縮小したりトリミングしちゃ意味ないじゃないか、ということではあるわけだが、だからまあリンク先でご覧あれと。上はきっちり50%縮小して、さらに全体の1/4くらいにトリミングしてある。つまり元画像は2000x2000以上あるのである。

●(追記)

ちなみに新シリーズのOPの動画はここにうpされている(そのうち消されるだろうからお早目に)。まあ、ニコ動でもOct.4から配信される(→ニコニコチャンネル)ので、それまで待っていてもいいことである。

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THN1-3-12e

2011年09月30日 | THN私訳
3-12 複数の原因をもつ半知識(承前)

この原理が時として働いては、通例に反する現象から引き出される推論を生み出すことがある。これには疑問の余地がない。とはいえ、よく考えてみるとこの原理は、この種の推理のたいていの場合に心に影響を及ぼしている原理ではない、とわたしには思える。なぜなら、我々が心の習慣的な決定にのみに従う場合は、別に何も反省もせずに推移する。つまりある対象を見れば、通常それに伴う他方に関する信念は、一瞬の間(ま)を置くこともなく直ちに起こるのである。習慣は熟慮を俟たず直接に作用するので、我々は反省するヒマさえないのである。しかしいま考察している半知識的な推理においては、そうした例はめったにない。対象の邪魔されない(ほぼ恒常的な)連接に由来する推理において生じるよりもさらに少ないのである。前者の種類の推理においては、我々は通常、過去の例に反する場合をわざと(knowingly)考え、双方の相違点を勘案し、それぞれについての実験結果を慎重に重みづけるといったことをする。そういうわけで、この種の推理は習慣から直接的に生じるのではなく、ある間接的な(oblique)やり方で起こると考えられる。以下その説明に努めなければならない。

(つづく)

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高速哲学入門(286)

2011年09月30日 | 素人哲学の方法
3.11以降に出版された本は皆、なんらかの形で震災と本書の関係性を明記したがる。哲学書まで「震災後の日本にはこういう考え方が必要なのではないだろうか」とか書いてある。「このタイミングで震災と関係ない本を書いたら怒られるのではないか」みたいな心理があるんだろうか。
(yubais)

という主はきっと少々うんざりした気分でいるのだろう。判らなくもない。実際は主が思っているようなことではなくて「このタイミングで震災と関係ない本を出す出版社は商売する気がないんじゃないか」である。「怒られるのではないか」どころではない、おそらく出版社編集部の管理職の人とかは反応の鈍い部下を毎日叱咤しているはずである。ただでさえ出版業界は壊滅的な状況なのである。哲学書だろうと何だろうと震災絡みにすれば売れそうだと思える限り著者を脅してでもそういうことを(せめて「序文」「あとがき」の中ででも)書かせるに決まっている。著者が書かないなら帯でも題名でも広告でも何でも、それ絡みを匂わせる方法はいくらでもあることである。

実際、売れるのかって、過去に実績があるわけである。1995年は阪神大震災とオウム事件のおかげで出版業界はもちろん、メディア業界全般がものすごく潤ったのである(計算機関連の出版も潤ったが、こちらは専らWin95のおかげである)。そしてそれは何年も尾を引いたのである。出版社もそうなら著者もそうで、オウム事件がなかったらそもそも注目されることもなかった(あるいはとっくにフェイド・アウトしている)であろう人社系の著者は1ダース2ダースじゃきかないくらいたくさんいる。

まあ、だから、今般の震災後に人社系の学者先生とかが一斉に震災ネタと反(脱)原発ネタの本を出すというのは、そういう意味で言ったら全員、これらの直接の被災者からクソくらえと罵られても仕方がないくらいのことをやっているのである。・・・とはいえ、物書きとか編集出版というのは、最初から最後までそういう商売なのである。

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THN1-3-12d

2011年09月29日 | THN私訳
3-12 複数の原因をもつ半知識(承前)

しかしながら、反対事象に関して哲学者と普通の人々が行う説明がどれほど異なるにせよ、その推論は常に同じ種類のものであり、同じ原理を根拠とする。過去における反対事象は、未来に対する「ためらい気味の信念」というべきものを、ふたとおりの仕方で与える。ひとつは、現在の印象から関係の観念へ移行する完璧でない習慣と推移を生み出すことによってである。ふたつの対象の連接が完璧に恒常的ではないが頻繁であるという場合も、心は一方の対象から他方へ移行するように決定される。ただし統合が邪魔されない場合、つまり、これまでに出会ったすべての例が一様に同じであった場合のような完全な習慣によって決定されるわけではない。日常経験からわかるように、推理にせよ行為にせよ、生の指針に確固としたスジが通っていることは、未来においてもそうしようとする強い傾向を生み出すものである。ただ今の場合は行為の定常性や一様性が劣る、その程度に比例して、習慣の力の程度も劣ったものになるわけである。

(つづく)

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てるもこセット

2011年09月29日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
原題は「おい、デュエルしろよ」という妹紅さん。つれない輝夜「めんどくちゃいのでパス」。上の題はコメントから。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」
アドン丸様)
※縮小・背景色調整済:原寸大画像はリンク先でどうぞ
→twitter/circle_of_adon

この作者の人はなんといっても動画の「ウチの風神一家」(別名・コスプレ守矢劇場)シリーズで有名だが、絵柄の引き出しはたくさんあるらしく、動画とは全然違う絵柄で、たとえばこういうのを静画の方にうpしていたりもする。

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セル・オートマトン再訪(3)

2011年09月28日 | 複雑性と人工生命
さて、(1)の遷移規則を適用することを繰り返したとして、個々のセルの状態が「1」になる確率はどのくらいだと思うだろうか。というか計算で求まるだろうか。詳しいことは省くが、各々のセルの状態が独立だと仮定して遷移規則を繰り返し適用するとその値は(sqrt(5)-1)/2=約0.618034といった値に収束する。で、実際やってみるとどうなるかというと、実はそうならない。以下は長さ500セルの環状CAを10万世代実行した場合の状態「1」セルの個数の時間発展である。


グラフでは正確に読み取れないが確率0.5を中心として不規則に変動し続けるのである。サイズが非常に小さい場合は別として、ある程度以上大きくなれば確率0.5+ノイズになることは変わらない。

上の計算が間違っていないことは、ごく初期の状況を見るとわかる。下図は最初の100世代の推移である。


初期状態は確率0.5の乱数で与えているので、最初の数世代は上記の計算通り約0.6くらいの値になっている。その後低下して0.5近辺に落ち着くのである。どうしてこうなるのかといって、確率論的には、要は隣接しあうセルの状態は互いに独立ではないわけなのである。それは(2)で示した絵を見ればだいたい察しがつくわけだが、これを言いかえれば、初期状態はまったく独立に与えたセル状態が、世代を経るにしたがって独立でなくなる、つまり全体として秩序を獲得した、つまり組織化したことになるわけである。与えた遷移規則からこのような組織化が生じることを導くことは、不可能ではないとしても非常に困難であることが多い。

この例はまだ単純な方だが、もっと複雑な規則を与えた場合の集合的な振る舞いを遷移規則から解析的に求めることは困難だったり、不可能だったりするのである。複雑性の世界でときどき言われる「創発(emergence)」とはこの種の組織化を指して言っていることが(よく)ある。最初にそう説明されると何かスゲー神秘的なことのようにも思われる現象である。

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THN1-3-12c

2011年09月28日 | THN私訳
3-12 複数の原因をもつ半知識(承前)

もし特定の対象どうしが常に連接しあっているとすれば、生活や行為をどうすればいいかはまったく楽な話だということになろう。恐れるべきことは己の判断の間違いだけで、自然の不確実性を懸念する理由はまったくないわけである。けれども実際は、ある観察に反する別の観察がありうる。また原因と結果の順序が、以前の経験とは異なることがしょっちゅうあるわけである。我々はこの不確実を考慮して推理を変更し、互いに反する出来事を考察しなければならなくなる。そこで問うべき最初の問いは「反対(contrariety)ということの本性と原因は何か」である。

普通の人々は対象を額面通りに受け取るものである。そこで出来事の不確実さは原因の不確実さと見なされる。普通の人々にとって原因とは、それが作用する途中で何ら障害されることがなかったとしても、時々わけもなくずっこけるような何かなのである。哲学者の見方によればそうではない。哲学者によれば自然というものは、そのいたるところに微小な(あるいは見えないところに)無数の動因や原理を隠し持っているのである。通例に反する出来事が生じるのは、原因がわけもなくずっこけたのではなく、反対事象を引き起こす原因のヒミツの作用から生じるのであり、少なくともその可能性があるのだということになる。この可能性は、さらなる観察によって厳密に精査してみて、通例に反する結果は通例に反する(別の)原因から生じている、つまり複数の原因が互いに妨害し対立していることから生じていることがわかれば、確実性に変わる。たとえば農夫は時計が止まる理由について「このポンコツはしょっちゅう機嫌を損ねやがるんだ」という以上の理由を挙げることができない。けれども時計職人は(その時計を調べて)バネや振り子に別条はなく、常に正常な力が歯車に加わっていること、しかしどうやら時計の動き全体を止めるようなゴミが入っていてちゃんと動作しなくなるようだ、といったことを容易に見抜くものである。だいたいこんなような事例のいくつかから、哲学者は、あらゆる因果の結合はすべて必然的なものであって、ときどき生じる例外は反対事象を引き起こす原因のヒミツの作用から生じるのだ、という原則を作るのである。

(つづく)

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物理屋が慎重なのはいいことだが・・・

2011年09月28日 | チラシの裏
今日も今日とてニュートリノの話。昨日書いたバカ話に少しは脈があるのかどうか知りたくてあちこち検索をかけてみたのだが、まあ、アレだね、複素質量というだけで筋が悪いというか、基本的にトンデモ扱いで頭っから相手にされないと考えていいようだ。実際、検索にかかったサイトのざっと7割方はひと目で判るようなトンデモだった。そのうちのひとつが自分の記事なのだから嫌になってくる(笑)が、こんだけトンデモ比率が高かったら、まともなところがあったとしても忌避されてしまうのは仕方がない。

わたしのバカ話というのも複素質量ということにキモがあるわけでは本当はなくて、相対論と今回の実験結果がどちらも正しいと仮定して、さらに超新星爆発やその他のニュートリノ観測結果も併せて考えると、今回の結果をもたらす正当な原因があるとすれば地磁気の影響くらいしか思いつかないということがあるわけである。短距離でなら影響が現われるが、超新星くらい遠くから飛来したニュートリノでは影響が相殺されなければならない。また地球上の場所によっても変化しうる(カミオカンデ実験では目立った速度差は検出されていない)、それってどんなものだと考えているうちに昨日のトンデモを思いついた次第だ。

そこから一足飛びに複素質量などと言いだすのが筋が悪いわけで、それを言うならまずニュートリノ振動と混合のモデルや実験結果の方に目を向けるべきだったのである。で、それを扱っているサイトもいくつか眺めてみたのだが、これは、さすがにわたしの手には負えない(笑)。少なくともアタマの中だけで適当に考えているだけでは駄目で、このあたりの理屈をじっくりベンキョーしてかからないといけないようだ。しかし今のわたしにはその余裕などない。

一連の記事でわたしが言いたいのは自分のトンデモ理論の主張などではなくて、物理屋の人達はただただ慎重に再実験結果の報告を待ってるだけではなしに、今回の実験結果が正しいとした場合の理論的影響について素人にもわかるような説明をやってほしい、ということである。「そんな暇はねえ」などと突っぱねられることだとすれば、わざとトンデモ理論を書いてでも引きずり出したいわけである。

物理屋は俗世を超越している人が多いもんだから、世間でこういう騒ぎが起きても長いこと無視していて、それが最後に「相対論は間違っていた」本のたぐいがブームになったりしたくらいになってようやく出てきて何か言う、というパタンが多すぎるわけである。それでは遅すぎるのである。

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えーと

2011年09月28日 | miscellaneous
正直忙しいのである。忙しいくせしてニュートリノのこととか適当なことを考えたりしてしまうせいで仕事がちっともはかどらないのである。

昨日今日とTHN私訳がえらい短いのもそのせいだと思ってもらいたい。せめてこれだけは1パラグラフずつでも進めようとしているわけである。

他のシリーズものは止まっている格好になってしまっているわけだが、状況が好転次第再開するので、当分はこの手のお茶濁しな記事ばかりになるのをご了承願う。

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THN1-3-12b

2011年09月27日 | THN私訳
3-12 複数の原因をもつ半知識(承前)

注意しておくべきことは、ここで説明した種類の半知識は(複数あるうちの)最初のものにすぎなくて、完全な導知識(proof)が存在できるようになる以前に自然に起こるものであるが、すでに成熟した人はもはやそれを知る機会がないということである※。最も進んだ知識を持つ人であっても、多くの出来事について不完全な経験を持つにすぎないし、不完全な経験から自然に生じるのは完璧ではない習慣や移行にすぎない。それはまったく当たり前のことだというのも本当である。とはいえ、そこで考えてみなければならないのは、心はすでに因果的結合に関するもうひとつの観察を行っており、その観察から、その観察から推理に新たな勢いを与えるということである。周到な準備と検証があれば、ただ一度の実験(結果)に基づいて論証を構築することもできるのである。我々は任意の対象について、それに伴うものをいったん見出してしまうと、常にそれが伴うはずだと結論する。この原則が必ずしも確実なものとして構築されないとすれば、それは実験が不十分なためでなく、しばしばその反例に遭遇するからである。このことから第二種の半知識が導かれる。それは我々の経験や観察に反する半知識である。

このあたりはうまく訳せた気がしない。原文は次の通り。yet no one, who is arriv'd at the age of maturity, can any longer be acquainted with it.

(つづく)

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よーしパパ、トンデモ理論書いちゃうぞー

2011年09月27日 | チラシの裏
パパじゃないんだけどさ。

例のニュートリノのスコルツェニー現象(と勝手に命名する)を今日つらつら考えていて、質量を複素で考えたら説明がつかないだろうか、という気がしてきた。もちろん無知な素人の思いつきである。間違っているのは承知の上で書いている。これを書いておけば誰かが読んで真っ青になって、そうではありえないゆえんをきっちり説明してくれるかもしれないではないか。

複素質量といって、いわゆる質量が複素なのではなくて、ある複素量の絶対値二乗が質量として観測されると見なすわけである。位相成分は変化しても質量は変化しない。長い目で見れば平均化されて相対論は破れないが、ごく短い距離でなら「位相ワープ」がありうるのではないかというわけである。

肝心なのは、その複素質量の位相成分は勝手にふらつくわけではなく、何かの定常的な作用によって変化するのでなければならないということである。そうでなければ15000回計測して6σ以上の有意差が光速を超える方に生じるわけがない。この場合のその何かとはどう考えても地球である。地球の何なのか。わかりやすい候補がふたつ。地球の質量か、もしくは地磁気である。前者は普通に相対論の効果を及ぼすわけで、これはとっくに計算に入っているだろう、とすると後者だろうか。これが今日考えたトンデモ理論である。

もちろん素人考えの範囲でも危ういところはたくさんある。そもそも上述のごとき複素質量の概念がトンデモなのだが、それ以上に位相成分が電磁場の作用を受けるということには何ら理論的な根拠がない。状況からみてそれしか候補が見当たらないというだけである。そのトンデモがクリアできたとしても、もしもそうなら同じことは質量を持つたいていの粒子について(質量に逆比例して効果は小さくなるとしても)言えなければならないということになる。他の粒子についてこうした速度のふらつきが相対論や量子論の外で生じたという実験結果は、少なくともわたしは知らない。さらに、仮にニュートリノについてのみ成り立つ話だとしても、電磁場の作用でそれが生じるなら、粒子加速器の周辺を飛び交っているニュートリノの飛跡の中に同じような現象が見出されていてもおかしくないはずだが、そういう報告も、少なくともわたしは知らない。もっとも電気的に中性のニュートリノの飛跡は電磁場によって曲げられない。上が正しいとしても変化するのは(見かけ上の)速度だけである。飛跡から速度変化を読み取ることができるかどうかは知らない。

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ふつくしいおぜうさま

2011年09月27日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
原題は「おぜうさまー!」で、上は訓練されたコメント欄を合併させてみた。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」
ナヅカ様)
※縮小・背景色調整済:原寸大画像はリンク先でどうぞ
→pixiv/ナヅカ(dk)
→作者HP「ちなみのちなみに」

ちなみに同じ絵がうpされているpixiv上では「悪魔」という題名がつけられている。はいてない悪魔でカリスマで。そういう題も考えたのだが、わけが判らないので自重した(笑)。

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ニュートリノ再実験

2011年09月27日 | 報道から
ニュートリノの速度 再実験へ

名古屋大学が参加した国際研究グループが素粒子の1つ「ニュートリノ」の速度が光より早いという実験結果を発表しましたが、研究グループは、実験結果を検証するため、メンバーを入れ替えて、再度同じ実験を行う計画を明らかにしました。

これは、名古屋大学で26日行われた今回の実験に関する講演で、国際研究グループに参加している名古屋大学教養教育院の小松雅宏准教授が明らかにしました。(中略)小松准教授は「心理的に抵抗があったが、常識に合わないからといって結果を発表しないのは研究者として正しくないと思い、発表に踏み切った。実験の信頼性を高めるため、引き続き実験を行いたい」と話していました。

(NHKニュース・9月26日 23時51分)

もし本当なら物理にとって最も基本的な概念のどれかを修正しなければならないのだから、再実験は当然だ。できれば場所も変えてほしかった気はするが、これだけ精度の高い実験が行える環境がほかにはあまりないのだろう。

それにしてもこのニュースはどいつもこいつもタイムマシンとタキオンの話ばかりしていて困る。そういう発想になるのは、たいていの人が心のどこかで「相対論は間違っているかもしれない、いや間違っていてほしい」という変な期待を抱いているせいではないのかと勘繰ってみたくなる。あくまで物理の常識に沿って考えれば、相対論も正しく、この実験結果も何らかの意味では真実を伝えているとした上で考えるべきところだ。専門の物理屋の誰でもいいから、あくまで仮定の議論とした上で、理論的にどんな可能性がありうるかの一覧表でも作って(たぶん、とっくに世界中で始めてはいることだろうが)公開してほしいところである。

実際、もし今回の結果がやはり間違っていたとしても、どこが間違っていたのかということに対して非常な関心が集まることになるはずである。報道されている事柄から考えられる限り、間違いがあったとしてもそれ自体がちょっとやそっとのことではないはずだ、ということである。その間違いから別の未知の事柄について示唆が得られる可能性すらあると思う。



それにしても忌々しいのはこのgooブログの仕様である。「ジャンル」の報道/ニュースカテゴリの中に「科学」の項目がないのである(ちなみに「哲学」はどこのカテゴリの中にもない)。「韓流」なら項目どころかカテゴリまで設けているくせにである。

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高速哲学入門(285)

2011年09月26日 | 素人哲学の方法
同僚が、哲学に興味のある女性に私は初めて出会った、と、最近ニーチェに興味津々な私に言ったけど、「哲学」がなんなのかわからないのであった。ニーチェというひとに興味があるだけなんだ、哲学って何?って言ったけど、そこはなぜかスルーされた。思われるより頭が悪い、それが私。
(maru_ryoko)

その哲学には一切関係なしにニーチェという人物に興味を持つというのは結構すごいことだ。アタマいいとか悪いとかの問題ではなく、哲学史上屈指のヤンデレ妹を持ったその兄の方に興味を抱くというのだから、それはなかなか、ただごとではないと思えることである。

またそういう女性を「哲学に興味のある」と勘違いする同僚も大概な人だという気がする。ニーチェに興味があると言ったら、普通はそれが男でも女でも「哲学に興味のある」人だとは、少なくともいきなりは思わない。「なんだ、いいトシこいて中二病か?」と、わたしなら真っ先に問い返すところである。

女性のことはよくわからないが、男の場合は割合よくあるパタンで、十代とか二十代でニーチェを読んでたなんていう黒歴史の持ち主は結構いる。で、それが黒歴史だということは自分で気づかなくても、周囲にもうひとりやふたりは似たようなやつがいるもので、そのけったくそ悪い言動を眺めていれば嫌でも気づく。気づかなければオカシイのである。全部が全部そうだとまでは言わないが、実際、哲学をニーチェの著作から読み出したという人物にろくな奴がいたためしがない。それは野球を覚えるのにアンチ巨人から始めるようなものだと言っていい。

素人哲学にはキャッチボールの相手もいないから、だいたいは突拍子もない自己流になってしまうのだが、だからといって「アンチ巨人から始める」というのはそもそもの料簡からして問題があるのは明らかである。ニーチェ自身がそこまで傲岸不遜の人ではない、もともとは地味な文献学者で、ちゃんとバットの素振りから始めているわけである。

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セル・オートマトン再訪(2)

2011年09月26日 | 複雑性と人工生命
前回示した規則から生成するパタンの例を示しておく。横方向はセルの並びで、縦方向は上から下に世代の経過を示している。


説明するまでもないことだが、こういうのをどうやって作るのかというと、上の図の場合はプログラムでCSVファイルを吐かせておいてExcelに読み込ませ、列幅と行高を適当に調整して表示させているわけである。そのCSVファイルを吐くプログラムも示そうかと思ったが面倒くせえ(笑)からやめた。わざわざプログラムを作ったのは大規模な実験もできるようにするためで、上の図のようなものを描かせるだけだったらExcelだけで作ることもできる。

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