さて・・・これを日をまたぐまでにうpできるかどうか。できなかったらどうだということもないけれど。
言葉と意味に関係のなさそうなことばかり書いているが、つまりは言語が常識や習慣を介して意味を与える一方、同じ言語が行為をも導くというような連関を考えようとしているわけである。(6)はその行為が、個々の意識とは切り離されて別次元の組織化を行うようなところへ、うっすら関係しているのかいないのか、というような、今のところ頭の中でも全然つながらない展望をメモしただけのことである。
もっと直観的に言えば政治の嘘は我々自身の常識的な判断が仕方なく伴う嘘の疎外されたものだとか、だいたいそんなようなことを考えようとしているわけである。つまり言語の本質は嘘である。もちろん嘘だからなくせというようなことを言おうとしているわけではまったくない。そんなことを言いたがる(それしか言うことを知らない)のは反原発の左翼テロみたいな連中だけである。超越性(要は神様)を仮定しないとき、嘘以外の何が我々に本能以上の行為を可能にし、社会の中に利害の交通整理を導入することができるというのか。
こんなことを考えている理由のひとつは、言語哲学のようなものに本当はどこから切り込んで行ったらいいのか、その自分なりの切り口を見つけたいわけである。
そこで「言語の本質は嘘である」なんて言い出したら言語哲学が木っ端微塵にならないか。いやいや、そんなことにはならんだろうと思っているわけである。ただ、サールせんせいを含めて言語哲学のテキストはどれでもそうだが、こんなこと大真面目に、それも、どれひとつをとってもひどく脆そうな論理の上でちまちま論じ上げること自体が、いったいどれだけ信用の置けることなのか、誰だってそう思うはずだと思うのだが、わたし自身も疑問で仕方がないわけである。
理科系の世界でもたとえば数学のやってることは、数学というのはもともとそうだというところがあるのだけれど、この議論はいったいどこへ向かっているのだろうと思うことが多々あるわけである。
まったくの純粋数学はまったくの抽象パズルだと思えばそれで済むところがあるからまだしも、たとえば経済学者という人がゲーム理論の数学について、まさに数学そのものの議論をやっているところに出くわすと、これは確かに数学には違いない(実際ハンパなこっちゃないのである。あのへんは全部途方もなく数学である)けれど、こんな話が本当に経済に関係あるのだろうかという疑問はどうしてもつきまとうわけである。実際やってる本人も、肩書こそ経済学部なんたらの人であっても、ご本人はどう見たって数学屋そのものの顔をしているわけである。その人物が得々と板書している背中を見ながら、この人があるときみんなに向かって「実はわたしはただの数学者です。正直言って経済とかどうでもいいんです」とか告げたとしても、たぶん周囲の誰も不思議なことだとは思わないで「いや、あの・・・それは知ってたし」とみんなから言われるに決まっているとしか思えないわけである。
そんなことでいいのかと言って、数学の場合は実はそれでも構わないのである。確率微分方程式の伊藤清センセイ(故人)という人は、そもそもあの理論を統計局務めの傍らに作り上げたわけである。それははじめ物理屋が、あるいはロケットを含む制御工学の人達が注目し、後にはそのロケット屋がスピンオフした先の金融工学で応用することを思いついたのである。どこで何が役に立つのか、どうせ判りはしないのだから、所属だの肩書だのといったことは数学者とその研究にとっては、もともと大した問題ではないし、大した問題だと思うべきでもないと思われているはずである。実際「経済とかどうでもいいんです」という意味のことを、晩年の伊藤センセイは力説すること頻りであったと言われている。
だから分析哲学だって、と分哲屋がひょっとして言いたがっているのだとしたら(そんな印象もないけど)、それは違うだろうと思うわけである。数学の融通無碍は数学が現実である必要は必ずしもないという本質から来ているわけで、哲学が現実を失うわけには行かないはずである。物理屋が実験を失うわけには行かないように。
もちろん物理学でも数理物理の、ヒモだとかどMだとかの怪しい領域になると、もう実験もへちまもない(実際、実験できないし!)世界であったりするが、それでもそれが物理学だと言えるのは、それをやってる人達の間に、物理学として組織された専門家の集団の一員としての自覚があるからだろう、とわたしは思っている。分哲もたぶん一緒のことで、そうでもなければ可能世界意味論みたいな議論を真顔のままずっとやっていられるとは、到底思えないことである。
そしてすべての素人は、だから、それらを真顔では眺めていられないわけである。この種の議論のいったいどこに現実がかかわっているのか、字面や論理をどう追ってみたところで皆目見当もつかないのである。たまにポロッと現実的なことを喋ったりするとだいたいろくなこと言わないことからしても、事態はさらに怪しいと思えてくる。素人がこれらを、そうは言っても無意味ではないに違いないと思って眺めるとすれば、だから、何か自前の道具が必要になるはずなのである。
・・・おお、なんか今日中に埋まった。
言葉と意味に関係のなさそうなことばかり書いているが、つまりは言語が常識や習慣を介して意味を与える一方、同じ言語が行為をも導くというような連関を考えようとしているわけである。(6)はその行為が、個々の意識とは切り離されて別次元の組織化を行うようなところへ、うっすら関係しているのかいないのか、というような、今のところ頭の中でも全然つながらない展望をメモしただけのことである。
もっと直観的に言えば政治の嘘は我々自身の常識的な判断が仕方なく伴う嘘の疎外されたものだとか、だいたいそんなようなことを考えようとしているわけである。つまり言語の本質は嘘である。もちろん嘘だからなくせというようなことを言おうとしているわけではまったくない。そんなことを言いたがる(それしか言うことを知らない)のは反原発の左翼テロみたいな連中だけである。超越性(要は神様)を仮定しないとき、嘘以外の何が我々に本能以上の行為を可能にし、社会の中に利害の交通整理を導入することができるというのか。
こんなことを考えている理由のひとつは、言語哲学のようなものに本当はどこから切り込んで行ったらいいのか、その自分なりの切り口を見つけたいわけである。
そこで「言語の本質は嘘である」なんて言い出したら言語哲学が木っ端微塵にならないか。いやいや、そんなことにはならんだろうと思っているわけである。ただ、サールせんせいを含めて言語哲学のテキストはどれでもそうだが、こんなこと大真面目に、それも、どれひとつをとってもひどく脆そうな論理の上でちまちま論じ上げること自体が、いったいどれだけ信用の置けることなのか、誰だってそう思うはずだと思うのだが、わたし自身も疑問で仕方がないわけである。
理科系の世界でもたとえば数学のやってることは、数学というのはもともとそうだというところがあるのだけれど、この議論はいったいどこへ向かっているのだろうと思うことが多々あるわけである。
まったくの純粋数学はまったくの抽象パズルだと思えばそれで済むところがあるからまだしも、たとえば経済学者という人がゲーム理論の数学について、まさに数学そのものの議論をやっているところに出くわすと、これは確かに数学には違いない(実際ハンパなこっちゃないのである。あのへんは全部途方もなく数学である)けれど、こんな話が本当に経済に関係あるのだろうかという疑問はどうしてもつきまとうわけである。実際やってる本人も、肩書こそ経済学部なんたらの人であっても、ご本人はどう見たって数学屋そのものの顔をしているわけである。その人物が得々と板書している背中を見ながら、この人があるときみんなに向かって「実はわたしはただの数学者です。正直言って経済とかどうでもいいんです」とか告げたとしても、たぶん周囲の誰も不思議なことだとは思わないで「いや、あの・・・それは知ってたし」とみんなから言われるに決まっているとしか思えないわけである。
そんなことでいいのかと言って、数学の場合は実はそれでも構わないのである。確率微分方程式の伊藤清センセイ(故人)という人は、そもそもあの理論を統計局務めの傍らに作り上げたわけである。それははじめ物理屋が、あるいはロケットを含む制御工学の人達が注目し、後にはそのロケット屋がスピンオフした先の金融工学で応用することを思いついたのである。どこで何が役に立つのか、どうせ判りはしないのだから、所属だの肩書だのといったことは数学者とその研究にとっては、もともと大した問題ではないし、大した問題だと思うべきでもないと思われているはずである。実際「経済とかどうでもいいんです」という意味のことを、晩年の伊藤センセイは力説すること頻りであったと言われている。
だから分析哲学だって、と分哲屋がひょっとして言いたがっているのだとしたら(そんな印象もないけど)、それは違うだろうと思うわけである。数学の融通無碍は数学が現実である必要は必ずしもないという本質から来ているわけで、哲学が現実を失うわけには行かないはずである。物理屋が実験を失うわけには行かないように。
もちろん物理学でも数理物理の、ヒモだとかどMだとかの怪しい領域になると、もう実験もへちまもない(実際、実験できないし!)世界であったりするが、それでもそれが物理学だと言えるのは、それをやってる人達の間に、物理学として組織された専門家の集団の一員としての自覚があるからだろう、とわたしは思っている。分哲もたぶん一緒のことで、そうでもなければ可能世界意味論みたいな議論を真顔のままずっとやっていられるとは、到底思えないことである。
そしてすべての素人は、だから、それらを真顔では眺めていられないわけである。この種の議論のいったいどこに現実がかかわっているのか、字面や論理をどう追ってみたところで皆目見当もつかないのである。たまにポロッと現実的なことを喋ったりするとだいたいろくなこと言わないことからしても、事態はさらに怪しいと思えてくる。素人がこれらを、そうは言っても無意味ではないに違いないと思って眺めるとすれば、だから、何か自前の道具が必要になるはずなのである。
・・・おお、なんか今日中に埋まった。