惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

言葉と意味(7)

2011年07月31日 | チラシの裏
さて・・・これを日をまたぐまでにうpできるかどうか。できなかったらどうだということもないけれど。

言葉と意味に関係のなさそうなことばかり書いているが、つまりは言語が常識や習慣を介して意味を与える一方、同じ言語が行為をも導くというような連関を考えようとしているわけである。(6)はその行為が、個々の意識とは切り離されて別次元の組織化を行うようなところへ、うっすら関係しているのかいないのか、というような、今のところ頭の中でも全然つながらない展望をメモしただけのことである。

もっと直観的に言えば政治の嘘は我々自身の常識的な判断が仕方なく伴う嘘の疎外されたものだとか、だいたいそんなようなことを考えようとしているわけである。つまり言語の本質は嘘である。もちろん嘘だからなくせというようなことを言おうとしているわけではまったくない。そんなことを言いたがる(それしか言うことを知らない)のは反原発の左翼テロみたいな連中だけである。超越性(要は神様)を仮定しないとき、嘘以外の何が我々に本能以上の行為を可能にし、社会の中に利害の交通整理を導入することができるというのか。

こんなことを考えている理由のひとつは、言語哲学のようなものに本当はどこから切り込んで行ったらいいのか、その自分なりの切り口を見つけたいわけである。

そこで「言語の本質は嘘である」なんて言い出したら言語哲学が木っ端微塵にならないか。いやいや、そんなことにはならんだろうと思っているわけである。ただ、サールせんせいを含めて言語哲学のテキストはどれでもそうだが、こんなこと大真面目に、それも、どれひとつをとってもひどく脆そうな論理の上でちまちま論じ上げること自体が、いったいどれだけ信用の置けることなのか、誰だってそう思うはずだと思うのだが、わたし自身も疑問で仕方がないわけである。

理科系の世界でもたとえば数学のやってることは、数学というのはもともとそうだというところがあるのだけれど、この議論はいったいどこへ向かっているのだろうと思うことが多々あるわけである。

まったくの純粋数学はまったくの抽象パズルだと思えばそれで済むところがあるからまだしも、たとえば経済学者という人がゲーム理論の数学について、まさに数学そのものの議論をやっているところに出くわすと、これは確かに数学には違いない(実際ハンパなこっちゃないのである。あのへんは全部途方もなく数学である)けれど、こんな話が本当に経済に関係あるのだろうかという疑問はどうしてもつきまとうわけである。実際やってる本人も、肩書こそ経済学部なんたらの人であっても、ご本人はどう見たって数学屋そのものの顔をしているわけである。その人物が得々と板書している背中を見ながら、この人があるときみんなに向かって「実はわたしはただの数学者です。正直言って経済とかどうでもいいんです」とか告げたとしても、たぶん周囲の誰も不思議なことだとは思わないで「いや、あの・・・それは知ってたし」とみんなから言われるに決まっているとしか思えないわけである。

そんなことでいいのかと言って、数学の場合は実はそれでも構わないのである。確率微分方程式の伊藤清センセイ(故人)という人は、そもそもあの理論を統計局務めの傍らに作り上げたわけである。それははじめ物理屋が、あるいはロケットを含む制御工学の人達が注目し、後にはそのロケット屋がスピンオフした先の金融工学で応用することを思いついたのである。どこで何が役に立つのか、どうせ判りはしないのだから、所属だの肩書だのといったことは数学者とその研究にとっては、もともと大した問題ではないし、大した問題だと思うべきでもないと思われているはずである。実際「経済とかどうでもいいんです」という意味のことを、晩年の伊藤センセイは力説すること頻りであったと言われている。

だから分析哲学だって、と分哲屋がひょっとして言いたがっているのだとしたら(そんな印象もないけど)、それは違うだろうと思うわけである。数学の融通無碍は数学が現実である必要は必ずしもないという本質から来ているわけで、哲学が現実を失うわけには行かないはずである。物理屋が実験を失うわけには行かないように。

もちろん物理学でも数理物理の、ヒモだとかどMだとかの怪しい領域になると、もう実験もへちまもない(実際、実験できないし!)世界であったりするが、それでもそれが物理学だと言えるのは、それをやってる人達の間に、物理学として組織された専門家の集団の一員としての自覚があるからだろう、とわたしは思っている。分哲もたぶん一緒のことで、そうでもなければ可能世界意味論みたいな議論を真顔のままずっとやっていられるとは、到底思えないことである。

そしてすべての素人は、だから、それらを真顔では眺めていられないわけである。この種の議論のいったいどこに現実がかかわっているのか、字面や論理をどう追ってみたところで皆目見当もつかないのである。たまにポロッと現実的なことを喋ったりするとだいたいろくなこと言わないことからしても、事態はさらに怪しいと思えてくる。素人がこれらを、そうは言っても無意味ではないに違いないと思って眺めるとすれば、だから、何か自前の道具が必要になるはずなのである。

・・・おお、なんか今日中に埋まった。

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Stay With Me - Faces

2011年07月31日 | 年を経た洋楽オタの話
これが夏休みの最後になるかしら。

from YouTube

・・・って、実は来月末にも休みがあるんだけどね。

今年はもう311以来、なんでもこんな具合で、あらゆる調子が狂わされっぱなしである。

●(追記)

・・・って、曲名とバンド名の順序をいつもと逆にしてしまった。直す。

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言葉と意味(6)

2011年07月31日 | チラシの裏
以前「政治」について考察していたとき、考察の軸に置いていたアイデアは、(人間の社会に関してそれが合理的な存在理由を持つとした場合、その)政治の本質というのは交通整理のような利害の調整だということだった。それが必要になると言えるのは、十字路のあらゆる方向からとめどなくクルマ(個々の利害)がやってくると言えるからである。たまにぽっかり来ない時間帯はあったとしても、永久に来ないと考えることはどんな場合でも妥当とは言えない。放っておいても来るのである限り交差点で利害は衝突しうる。衝突するだけならともかく、事故が起きればクルマの流れは阻害されてしまう。

「交通整理」を誰がどんな目的で発明したかはわからない。ただそれが自然に、あるいは偶然に生じうる何かだと言えないことは、計算機プロセス間のデッドロックの例を見れば明らかである。プロセス同期機構は個々のプロセスの論理を超えたところから導入されるより仕方のないものである。きわめて小さな確率でそれが偶然生じ得るとしても、その偶然は無数にある交差点のひとつひとつにおいて反復される保証のないものである。つまり進化的な積み重ねということは、こうしたことに関する限り自然には生じえないと言っていい。とはいえ、もちろん魔法があるはずはない。

利害の同期ということは、動物一般において、単純な行動については自然に生じることがある。少なくとも現に自然に存在する。人間以外のたいていの動物に存在する繁殖期というのがそれである。極端な場合それは1年のあいだのある特定の1日の、そのまた数時間、いや、ほんの数分ばかりの極端に短い期間でありうる。こうした同期が存在することについては進化的な説明が可能であると思う──詳しい記述は忘れてしまったがE・O・ウィルソンの「生命の多様性」という本の中でそれを読んだ記憶がある。あるいは読んだ上で本職の生物屋さんから話を聞いたのであったかもしれない。また自然選択=自己組織化という観点から自分のアタマの中で勝手に複雑性の補足説明をつけたのであったかもしれないが、いずれにせよあらかた忘れてしまった(笑)。ま、とにかくそれは可能である。ただそれは、生殖行動のような、最も基本的なという意味で単純な行動に限られる。ある種の鳥がメスを誘うために途方もなく手の込んだ形態(極彩色の体色や特定部位の肥大化)や行動(歌と踊りとその舞台装置の製作)を発達させるとしても、それらの形態や行動の進化を駆動しているのは、ただひたすら交尾交尾交尾交尾交尾ということだけである(笑)。

ところでこの例で利害をクルマに例えていることは、それは必ず動きを伴うものだということの反映でもある。クルマの動きは利害にもとづく人間個人の(あるいはたかだか非常に小さな協調的集団の)行為になぞらえられる。クルマがとめどもなくやってくるというのはつまり、人間は生きていれば何かしら行為しないでは済まされないような存在だということの比喩である。人間ならずとも動物はたいていそうである。ほとんどの動物は食べ物を、交尾する相手を、場合によっては休息を求めて始終動き回らずには済まされない何かである。まあ、ナマコやコアラや年老いたネコのように、ほとんど動かない動物もいるのだけれど。

人間の特徴のひとつは、その行為を、やや古くさい語彙だが「本能」すなわち生物学的な意味での機械論的な原理に基づいて行うのではなく、意識において行為を構成する存在だということになる。人間は「本能」以上の行為理由を持つのである。構成される行為は愚かな行為であるかもしれないし、自殺的な行為であるかもしれないが、いずれにせよそれは人間に特徴的なものである。普通の動物は愚かな行為もしなければ将来を悲観して自殺したりもしない。それは機械がそれをしないというのと同じ意味でしないのである。

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高速哲学入門(200)

2011年07月31日 | 素人哲学の方法
「日本人の誇りと言うとき、われわれは西洋人と互角なのだという意識に支えられており、さらに他のアジア・アフリカ人とは違うのだという意識さえうごめいている」(「差別感情の哲学」中島義道)
(ChungKangHeon)

自分でそう書いているのだからナカジマ君自身はそうであるのに違いない。ナカジマ君のカント研究は西洋人と互角の水準にあり、一方、他のアジア・アフリカ諸国におけるカント研究なんぞは、へっ、まったくものの数にも入らないのだということに、ナカジマ君の中ではそうなっているのだろう。本当なのかねと問いただしてみたくなってくる。特に後者について。

勝手に決めつけてもらっては困ることである。たとえばわたしがわが国のマンガやアニメ作品のことを「日本人の誇り」だと言う場合、それは西洋人と互角かどうかということを少しも意味しない。それどころか、欧米人や欧米の社会にはこうしたものは逆立ちしたって作れるわけがないよと思っている。一方、近年では台湾をはじめとして他のアジア諸国の人の中に、わたしが見てもおーっと驚くような優れた作品を、あえて言えば並大抵の日本人作家よりも優れた作品を生み出す人さえ現れつつあるわけである。実際このblogでもいくつか紹介している。アフリカ諸国の人でそういう人はまだ見たことがないから、そっちは省かざるを得ないが、いずれにせよそんなことで「日本人の誇り」を傷つけられたなどと思うわけがないし、「(我々日本人は)他のアジア人とは違うのだ」という風にも思わないわけである。思うやつがいたらアタマがおかしいとしか言いようがない。

わたしは自分の素人哲学については、まず絶対的な少数派だと自分のことを思っているが、マンガ作品全般の評価ということになれば自分のような見解が少数派だとは思っていない。PTAとか東京都みたいな文化テロ組織の連中を別にすれば、だいたい誰でもこう言うだろうというくらいに思っている。以前ナカジマ君の本の評文で書いた通り、ナカジマ君は専門のカント研究では余人の及び難い業績の持ち主である、けれども、それをのけると随分つまんない教養主義の信奉者なのである。上のごとき差別感情はそのつまんない教養主義と、その教養主義自体がもともと西欧近代の社会構成に由来するもので、明治以来それを無分別に日本社会に、特にその知識階層に移植しようとしてきた事実から生じるものにほかならないのである。

そして、日本人が読めば優れたカント研究者の残念な教養主義であることが丸わかりのナカジマ君の一文を麗々しく掲げては「そらみろここに差別がある」と言わぬばかりの、この呟きの主であるガイジンもまた、ナカジマ教養主義の反面みたいなろくでなしの差別感情の持ち主に違いないとわたしには思える。

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高速哲学入門(199)

2011年07月31日 | 素人哲学の方法
あなたの努力を否定する者はあなたの努力に嫉妬しているのだ。そういう輩は、いざあなたの努力が実ると、然も前から応援していたかのように振る舞う。そんな人間とは早々におさらばすべきだ。

「哲学をやる人間は全て変人」・・・この主張は間違ってはいないだろう。しかし、(中略)私からすれば、哲学を学ぶ人間は変人であるという詭弁を弄するような人間こそ変人である。なぜなら、哲学とは生きることそのものであるからである。生きることを学ぶ意味がない、それは即ち生きる意味がないといっているようなものである。

努力することとは哲学することだ。なぜなら、努力することとは生きることである。そして、生きるということは哲学である。すると必然的に努力は哲学である、となる。
(philosophy_st7)

複数の呟きを適当に拾ってみたのでリンクはTLの方に張ってある。

で、この主のプロフィールによれば「主に人の生き方について自分の意見を述べていく。哲学や倫理学といった学問に興味がある」とのことだ。確かに「人の生き方について自分の意見」が述べられている。書きっぷりから哲学や倫理学に「興味がある」というのが本当であるらしいこともわかる。興味はあるけど、哲学も倫理学も確かに知らない人のようである。

「意見」と「無知」の両方について書いてみる。その前に、最初の呟きの「然も」とは、こう書いて「あたかも」と読ませたいのだとすれば間違いだ。「然も」は「しかも」としか読めない。また「しかも」に「あたかも」という含意はない。

努力するとは生きることだろうか。何の根拠も示されていない。こういう無茶なことを言うときはせめて「努力してない人は皆死んでいるとは言えない」という、誰にでも言える最も簡単な反論を退けた上で言うべきである。

自分が達成したいと思う目標があるときに、それに向かって努力するのはいいことだ。これを否定できる人はめったにいない。人は普通、戸棚のうんと奥にあるコップを取るためにさえ、なんとかそこまで手を伸ばそうと「努力」するものである。もっとも、そのコップは実は戸棚の反対側からすぐ手の届く場所にあることが、傍にいる他人にはわかっていることかもしれない。そうするとその努力を「嗤(わら)う」人はいるに違いない。それでもめげずにこちら側から無理矢理コップを取り出してみせたら、彼はアメリカ人のように両手を広げて「すごいなあ。俺は君ならやれると思っていたよ」と言うかもしれない。わたしなら、その男が友人なら、黙って握手をするだろう。おさらばするなどとんでもない話である。ただ、握手しながら反対の手で「知ってたんならさっさと言ってくれ」と小突くことはするだろう。

哲学とは生きることそのものだろうか。わたしの考えでは、哲学ということのうちには自分の意識において自由に考えるということが含まれている。それがなくては哲学にならないという意味で、それは哲学の本質である。主の言うのが、この自由は生きることの本質でもあるという意味ならわたしにもわかる。ところで主は「哲学を学ぶ」という言い方をする。学ぶことは別に悪いことではないが、自由に考えることとは違う。さらに「生きることを学ぶ」という奇妙な言い方がされている。人間は別に何も学ばなくても生きている。まだ何も学んでいない赤ん坊は死んでいるとは言えない。また、より多く学んだ大人より生きている度合が少ないということもない。

たぶん主は本当は「よりよい生き方を学ぶ」と言いたいのだろう。そしてそうだとすればそのために哲学や倫理学を学ぶというのは、まずお門違いだということになる。だいたい、過去から現在までの哲学者や倫理学者で、こんな風に生きてみたいと思わせるような人物がいるだろうか。わたしはただのひとりも知らない。その私生活にまつわる逸話が残っていると、読むほどに冗談じゃねえやと思う奴の方がずっと多い。ただ、昔の哲学者のほとんどは生涯食うに困らなかった人だ。その意味に限れば「自分もそうであったら素敵だったのに」とは思う。しかしそのことは哲学とは関係がないし、学ぶこととも関係がない。

「哲学を学ぶ人間は変人である」というのは詭弁ではない。言葉の使い方が間違っている。詭弁とは怪しい推論のことである。「哲学を学ぶ人間は変人である」の中に推論はない。直接的な決めつけである。そういうのは偏見というのが正しいのである。偏見はたぶん間違いを含んでいるからこそ偏見と言われるわけだが、しかし普通の人間は大なり小なり偏見を持っている。そういう意味では「哲学を学ぶ人間は変人である」という偏見の持ち主は、そのことをもって変人とは呼べない。哲学を学ぶ人間に面と向かってそう言う者があれば「嫌なやつ」だというだけである。普通の人の中に嫌なやつがたくさんいるとしたら(いるように思えるが)それは「生憎」というのである。

ところで偏見は間違いを含みうる一方で真実を含むものでもありうる。だいたい真実が少しもなさそうなことをわざわざ思う人はあまりいないものだろう。主は「よりよい生き方」について知りたいと思いながら、どう見てもそれは得られそうにない「哲学を学ぶ」ことに興味を寄せている。明らかに目的に反した行為をあえてする人を「変人」と呼ぶのは、それほど間違ったこととは思われない。実際、それらしい語彙を使って言えば、そのような形で行為を構成することを「倒錯」という。これは英語ではperversionというのだが、これは俗っぽく訳すと「変態」のことである。これは通常は性的嗜好についていうことだから、それはないということで「変人」と呼ばれているのだとしたら、残念ながら主についてはかなり正しい評言だということになるのではないだろうか。

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この地震は結構怖かった

2011年07月31日 | 報道から
福島で震度5強 巨大地震の余震か

31日朝早く、福島県沖で地震があり、福島県楢葉町と川内村で震度5強の揺れを観測しました。東北などでは大雨で地盤が緩み、土砂災害の危険性が高くなっていることから、気象庁は、余震による強い揺れに十分注意するよう呼びかけています。
(NHKニュース・7月31日 7時15分)

終わってみればM6.5、福島はともかく東京は震度3で、たいしたことない地震だったと言えばそうなのだが、揺れがかなり長く続いた上に、揺れの大きさも不安定で、揺れている間はまたこれからガンガン大きく揺れ出すんじゃないだろうな、の不安があった。

上では省略したが気象庁によれば、この地震は311の余震だそうである。何を根拠に決めているのかよくわからないことだが、そう言われれば確かにそういう揺れ方の地震であったことは確かである。

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EPOISSES

2011年07月31日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
題名は原題の通り。というかepoissesって何だと思ったら、これはおフランス語で、チーズの銘柄らしい。カタカナ表記すると「エポワス」。なぜゆかりんにチーズか。そうではなくて、この絵は同人音楽サークル「シュールレアチーズ」の新作CDジャケ絵として描かれたもので、この題名はそのCDの題名なのである。


(リンクと画像は「ニコニコ静画」
宮瀬まひろ様)
※縮小済:原寸大画像はリンク先でどうぞ
→作者HP「七色御伽草子」

作者の人は早苗さんの絵をたくさん描いている人である。見覚えがあるどころではない、自宅のPCの壁紙にしていたこともあったくらいだが、これまでこのblogには貼っていなかった、というのも、その早苗さん絵がセーラー服姿だったりして、「これはいい、かわいい」とか言って貼るとあらぬ誤解を招きそうな気がしたからである(笑)。

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高速哲学入門(198)

2011年07月31日 | 素人哲学の方法
[ニコサーチ] :【深い】ヤマカン曰く「人々から徹底して孤立するのが哲学」、「創作とは麻薬」|やらおん! http://bit.ly/rg2sKr #nicovideo
(nicosearch)

ヤマカンというのはアニメ監督の山本寛のことだ。色々変わったことをやりたがる人で、それはいいのだが、それに絡めて変な大口叩きたがる悪い癖があるもんだから、尊敬されるよりはクソミソ叩かれていることの方が多いという、やや気の毒な作家である。しかしアニメ監督とか映画監督とか、そういう職業にはこういう人が割と多いんじゃないだろうか。

たとえば「創作とは麻薬」って、要は「乞食と芸人は3日やったらやめられない」というのを言いかえただけである。しかし絵描きや俳優がそうだというならまだわかるが、「監督」という立場の人物がジャンキーでは困るのではないだろうか。

まあそれはともかく、これを拾ってきたのは前者の「哲学」が検索に引っ掛かって、これもまあ大口には違いないからまた叩かれているわけだが、しかしこれは基本的には正しいことを言っているわけである。古今東西の偉大な哲学者は、皆ひとりで考える人だったのである。哲学には対話がどうこうとも言うし、それだって別に嘘ではないけれど、ひとりで考え抜いてきた人どうしが対話するから時にそれが凄いことになるのであって、普段から人の輪の中でごちゃごちゃやってることしか知らないどうしが対話だとか論争だとかいうのは、そんなのはただの内ゲバとか政治的泥仕合というのである。

そういうわけで哲学は孤立することが多いし、恐ろしいことにこれは逆も真なところがある。ただ孤立しただけでなんとなく哲学に近くなってしまうというのはそれなりに本当である。これは別にロマンチックな話ではなく、現象学的還元というあれで、哲学は大なり小なり自分の意識の外側をエポケーしてしまうことから始まるのである。つまり、日常生活の意識にうつった世界像が曖昧な主観と曖昧な客観がないまぜになったものだとすれば、哲学というのはそれを無理矢理「自己」演算子Sの作用関係の束として書き直してみることなのである。マルクスみたいな唯物論だろうと、あるいは分析哲学であろうと、哲学というのは基本的にそれをするものだということに変わりはないのである。孤立した人は黙っていてもそれと同じことをする羽目になるのである。

あとはまあ、それがこの人物に相応しいことなのかと言ったら、そんなのはわたしの知ったことではない(笑)。

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ポール・ケネディ「世界の運命 ─激動の現代を読む」(中公新書)

2011年07月30日 | 土曜日の本
世界の運命 - 激動の現代を読む (中公新書 2114)
ポール・ケネディ著
山口端彦訳
中央公論新社
Amazon / 7net

えーっとだね。この本はまさにこの「土曜日の本」というカテゴリ名にぴったりくる本である。「世界の運命」だとか、くそ仰々しい題名がついているわけだが(これは中公新書の題名としてつけられたものである)、中身はそんな嫌っ気のする本でも何でもない。ケネディ先生がグローバルな世界の政治経済にまつわるホットな話題を交えつつ(笑)あれやこれやについて、基本的には面白おかしく綴ったコラム/エッセイ集だと思って読めばいい本である。土曜の午後に紅茶でも飲みながら深刻そうな顔して読んでいれば、あたかも充実した時間を過ごしてしまったかのような、変にうつろな気分を味わえることであろう、そういう本である。

・・・本当はそんなに軽い本じゃないかもしれないのだが、軽く読めてしまう、というのは、この本には基本的に日本の話なんていうのはゼーンゼン出て来ないからである。むろん、さすがにこの新書へのまえがきには「三月の恐るべき大津波が残した惨禍に取り組んでいる日本の方々に、心の底から同情の意をお伝えしたい」云々と書かれてはいるが、いや、そもそもこの訳文にしてからがすでに、この本の中での日本の扱いの軽さが、判る人には判るはずである。現在の世界の政治経済の話を書けば、誰がどう書いたって日本のことなど出て来ないことではあろうが、普通以上にそう感じるというのは、つまり、このコラム/エッセイがもともと想定しているのであろう読者層というのが、英米の知的暇人達だからである。たぶん。

けれどもまあ、そのことは裏を返せば、つまり、それを読んでるこちら側からすれば、どこか別の銀河系の政治経済のすったもんだにまつわる話を読まされているのと同じだ、ということでもあるわけである。グローバル政治経済の帰結としていったい誰が死のうが飢えようが、本当言うと読んでるこちらには何の切実感もないし、土曜の午後にぼんやり本など読んでいることに我ながら居心地の悪さを感じるとか、そういうことも何ひとつないのである。

実際、この本は訳者にしてからが相応に弛緩して仕事していることは、たぶん確かである。たとえばリニアモーターカーとでも訳せばいいところを、わざわざ「磁気浮上式列車」などと訳してみたり、リーマン・ブラザーズが「レーマン」になっていたり、まあ、色々忙しかったのだろうなとは思う。どうせだったら「問題の新兵器は高速なんちゃら砲・・・」などと訳さないで「とある米国の超電磁砲(レールガン)」とでも訳してくれていたら、その他も全部遊び心だと思って見逃しておくところだったのだけれど。

で、まあ、そんな風に軽々と読んでしまえるからと言って、しかしテキトーなことが書かれているというわけでも、たぶんない。日本の新聞テレビ(あっ、テレビはもうないのだった)からはまず絶対に得られないような事実なり分析なりが、これはこれでちゃんと書かれている。どこの誰からいくらの金を掴まされてるのか、その現場まで透けて見えそうなジャーナリズムの紋切型作文とはわけが違う。くだらない本を読まされたという後味の悪さが残ることは決してない、ということまでは請け合える。ま、だからどうするってこともないんだけどね。

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高速哲学入門(197)

2011年07月30日 | 素人哲学の方法
日本人宗教に怯えすぎじゃね?世界的に見れば何も信仰してない人のほうが少数だし意識してなくても誰しも多かれ少なかれ宗教的な思想(社会の風習や既成概念)に洗脳支配されて生きてるくせに「俺は自分しか信じない」みたいな自称無宗教者は哲学が足りないんじゃない?
(stkbsm)

こんなこと言うご本人は何を信じているのやら。名前が「洗濯バサミ」とあるから物干し竿と洗濯物の関係くらいは信じているのだろうか。そういう輩はいずれ風が吹いても裏切り者探しを始めることになるんだ。

「世界的に見れば何も信仰してない人の方が少数」なら少数派が多数派に怯えるのは当ったり前じゃねえか。その多数派から出た過激派のあれこれが、現に世界中どこでもろくでもないことをやってるわけだ。多数派の全体はその内なる過激分子とのあいだに教義や信仰の連続性を持たないことを証明してみせる義務などもちろんない、とはいえ本当はそうしない限り、標的にされかねない少数派がその疑いを持つこともまた必然だとしか言いようがないんだ。

無宗教者を「哲学が足りない」などと言って脅す割には論理も何もなってない。特定の宗教の教義や信仰が「社会の風習」や「既成概念」に反映することはいつでもどこでも普通にあることだが、逆もまた真なりなんて誰が言ったんだ。誰が言ってなくても証明できるってんならやってみせたらいい。普通の人が日常習慣通りに振る舞ったり、時には振り回されているような感じを持つことまで「洗脳支配」だなどと言うなら、それをやってる「主体」は何だ。日常生活のどこにもそんなものの存在を感じさせる気配はない、だからたぶん存在しないと考えるのは、それ自体は別に絶対的なことでもないかわり、「自分しか信じない」人物が行う推論としては完全に論理的に妥当なんだ。風が吹いて洗濯物が落ちたら、洗濯物は風に洗脳支配されているなどと考える方が妄想なんだ。

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自註の続き

2011年07月30日 | チラシの裏
下の「自註」がいささか尻切れ気味なのは、そこまで書いたところで土曜の昼飯の時間になってしまったので、いつもの通り近所のファミレスに出かけ、おっと、その前に本屋に寄って「土曜日の本」を買い、食って読んで帰ってきて続きを書き出しているのである。

さっきの記事ではさておいた「哲学書は原書で読め」ということについて改めて書いてみる。そもそもこのblogにしてからがサールやヒュームの本の私訳をやっているくらいだから、原書で読むことに意味がないなどとわたしが言うはずはない。わたしがイチャモンをつけてみたくなるのは「まず原書で読め」とか「原書以外読むな」といったたぐいの言い草である。以前実際にイチャモンをつけた経済学者のように「Kindleならタダで読める」とかいうような隠微な言い方をしている場合も含めてである。

専門の哲学科の学生だったらそれは、どうせ先々まで読むべきテキストのほとんどは外人の書いたものばっかりなんだから、最初から原語で読めるように練習しておけ、という意味合いもあろうことで、それに文句をつけようとは思わない。abstractと、せいぜいsummaryくらいをさらっとナナメ読みして「はいはい、次々」と放り投げることを覚えなければ、プロの研究者なんてやっていられないわけである。いまどきは哲学だって、また相当にマイナーな主題であってさえ、ネットで検索してみれば、仮に全部きちんと読んでいたら一生かかっても絶対に読み切れないほどの文献が出てくるわけである。ちまちまと翻訳なんかやっていたら研究やら考察どころではない、ましてやディベートなんぞ夢のまた夢だということに、どうしたってなるはずである。

そういう意味では、だからと言うべきなのか、ひょっとするとこれから先の世界では、外人の書いた文献を自国語に翻訳することは、専ら素人哲学(場合によっては素人科学ないし工学)のやるべきことだという風になるかもしれない。そんな、ある意味でアホみたいなことやっていても食いっぱぐれずに済むのは、食い扶持を別に稼いでいる、あるいは親が大金持ちか何かで食うのに困らないような、いずれにせよ素人だけだからである。このblogでやってる私訳もそのつもりだなどとは、実は全然言うつもりがないのだが、ただ実際にやっているとそんな気がして来ないでもないということである。

そしてそのことは逆に、素人がわざわざそんなことをすることの根拠は、本当はというか究極的にはどこにあるのか、という問いを招き寄せることでもあるはずである。そのことの方はわたし自身は明確に意識している。それをいま言葉で指し示すことはできないとしても、わたしは明瞭に知っているからである。パソコン屋というのは素人計算機科学もしくは工学の別名で、わたしはそれを30年かそこらやっているからである。・・・変に恰好つけて言わないとすれば、要するにそれは公私ともにそろそろ廃業かしらという気配が漂ってくるようになったので、わたしは次第に哲学の方にシフトしつつあるのである(笑)。幸いほとんど誰も手をつけていない(笑)というか、なんか色々やってるうちに気がつくとこっちの方に押し出されて来ちゃったよ、というか。PCと違ってこいつはろくな銭にもならないことは判り切っているのに、まったく困ったものである。

話をもとに戻せば、実はパソコンのパの字も存在しなかった小学生のころでも、たぶんその言葉にならないイメージだけはわたしの中に明瞭にあったのである。「英和辞書を使うな」の類にいちいち突っかかるのは、その種の言い草の何かがそのイメージの核心に抵触するからである。それは、パソコン屋の文脈に逆翻訳すれば、GNUプロジェクトのRMSみたいなど阿呆が、linuxの連中に改めて担ぎ出されるまでは頻りに「パソコンを使うな(由緒正しいUNIXマシンを使え)」などと言い散らかしていた(担ぎ出されたとたん、ぴたりと言わなくなった。まったくもって最低の野郎だ)ことに、そっくりそのまま重なることだったのである。今日気づいたのはそういうことだった。

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自註

2011年07月30日 | チラシの裏
何でも書いてみるものだ。このblogの「高速哲学入門」というのは、半分くらいはtwitter検索した呟きの中からなんとなくわたしの気に障るようなことを(笑)呟いてるのを拾ってきては、それをテキストエディタにコピペしてじっと眺めて、思い浮かんだことを書き並べてみる、そういう即興であるわけである。

ブルースの即興みたいに前もってコード進行とかがおおよそ決まっていればまだしもなのだが、正直そんなグワイのいいものはないのでフリーダムの滅茶苦茶になってしまうことも時々ある、そのかわり、書く前にはあまり考えたこともなかったようなアイディア(笑)、ないしは記憶のインプレッションが、そこから生じてくることもたまにある。

たとえば(196)で「翻訳文化というのは大衆的な基盤があるところでなければ本当は成り立たない」と書いているのは、書いた本人がびっくり仰天した(少なくともわたし個人にとっては)前代未聞の見解なのである。この一文は一文まるごと、どこからともなくテキストエディタの画面上に現われたのである。びっくりしたまま「それはなんでだ?」と考え込んだ結果がその下の記述なのである。

「哲学書は原書で読め」云々はさておいて、世の中には英語のテキストを読むのに「英和辞書を使うな」と宣う人が時々いることになっている。たいていは教師だが、教師でも何でもない人の中にもたまにいる。そしてわたしは、コドモのころから、その種の言い分を耳にすると、相手がほとんど何者であろうとオートマティックに反発することになっている。事実そうしてきたのである。学生のころ、出張ゼミの後の雑談で尊敬する老教授が言った時でさえやらかしたことである。そしてその都度、どうしてこの種の言い分に自動的に突っかかってしまうのか、自分でもその理由がよくわからないと感じてきた。

自分でも理由がわからずに突っかかっているのだから、議論になったとしても言い負かされる以外のことを経験したことはない。相手の方は当然ながら不思議そうな顔をしている。その人なりに苦労して英語のテキストを読むことを覚え込んできた、その体験的な事実なり実感なりに基づいて言っているだけなのに、この男(わたし)はいったい何を、というか自分はろくに英語なんか読めもしないくせして、いったい何が気に食わなくて突っかかってくるのだ、という、だいたいそういう顔をしているわけである。少なくとも突っかかっているわたしの方からはそう思われている。つまり何か間違ったことを、明らかに間違った相手に言っているらしいことが自分でもわかっている。わかっていても突っかからずにいられない。これはいったい何なのだということがずっと不思議で、謎だった。

この長年の謎が(196)を書いて氷解した。どう氷解したかは(196)の通りである。何でも書いてみるものである。

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高速哲学入門(196)

2011年07月30日 | 素人哲学の方法
(以前、誰かに聞いた話に「韓国は漢字を捨てたので西欧哲学を翻訳するのがむずかしい、うまいこと新語をつくれないから」というのがあったが、あれはほんとうだろうか)
(quinoppie)

それよりは「儒教の国だから」ってことの方が大きそうな気もする。翻訳文化というのは大衆的な基盤があるところでなければ本当は成り立たないわけである。西欧近代も儒教的東洋もそれぞれの意味で階級性の強い文化だから、そういう社会でエリートだということになってる連中は、翻訳なんかせずに頭脳流出するか頭脳往復して、いずれにせよ直接原語で読んでしまうし、大衆は鼓腹撃壌するか飢えるかするだけで、哲学なんか知らないということさえ知らないままでいるわけである。わが国でも頭脳流出/往復してきたようなやつに限って「哲学書は原書で読め」なんてことを真っ先に言うわけである。ご本人が実際にエリートと言っていい秀才だからという場合もたまにはあるが、たいていは単に強烈な西欧コンプレックスの持ち主で、心の底では西欧流の階級社会が一番だと思っているだけだからである。

まあ、韓国のことは判らないな。本当のとこなんて判りはしない。

仮に漢字がなかったとしたら、わが国における西欧哲学の翻訳はどういうことになるかと言ったら、そらもちろんカタカナ語だらけになるわけである。最良の場合それは全編これナガシマさんトークのようになるわけである。「つまりですね、パーセプションというのはその、いわゆるひとつのインプレッションというか、アイディアということですね、それがこう、ガッ、と、ガッとくるわけでして(以下略)」・・・巨人ファンならなんとかなる。

最悪の場合はどうなるかって。それはもちろん、VisualStudioの機械翻訳ヘルプのようになるわけである。アホらしくなってきたからこっちの文体模写は割愛する。

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ドルが下がれば円は上がる

2011年07月30日 | 報道から
当たり前じゃないか、と言われればそうだが。あーあーあーあー、と。

円相場 一時76円台に

29日のニューヨーク外国為替市場は、アメリカの債務不履行を避けるための国債発行の上限額を引き上げる問題が、依然として決着していないことに加え、さきほど発表されたアメリカのことし4月から6月までのGDP・国内総生産の伸び率が、市場の予想を大幅に下回ったことなどから、ドルを売って円を買う動きが一段と強まり、円相場は一時1ドル・76円95銭まで値上がりしました。

円相場が1ドル・76円台まで値上がりしたのは、東日本大震災の直後に1ドル・76円25銭の最高値を記録して以来、4か月半ぶりのことです。
(NHKニュース・7月30日 4時10分)

周知の通りヨーロッパはガタガタ、アメリカも、アメリカに「デフォルト」なんて言葉が実際に出てきてしまうくらい絶不調なのである。外為相場を人為的に誘導しようったって、日米欧の3極すべての台所が火ィ吹いてちゃ誰もできないのである。ひとり中国のみ埋めたり掘ったりしてるだけでいいんだから、まあ気楽なものである。

まあ週末の間は外為はお休みなので、週明けからどうなるかですね。

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いつか天魔の黒ウサギ #3

2011年07月30日 | miscellaneous

(いつか天魔の黒ウサギ 第3話「《月》が揺れるプールサイド」/Aug.5まで無料配信中)

画像はEDから。本編は相変わらずグロ上等の中二世界だが、EDと予告は別世界である(笑)。

昨日の「無口」の感想で、ブラウザで30分番組を見るのは大変だと書いたが、これなんかどうするのかというと、3分見ちゃあ休んで、ということを繰り返して見ているわけである。そんなにまでして見たいのかといって、いいじゃないか別に。この番組は実に色んな要素のごた混ぜでできている。これほど色々ごたまぜになってるのを見るのは珍しいというか、並大抵の人ではコンテも切れまい何かである。ある意味感心しながら見ているのである。

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