惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

年が明けたら・・・

2009年12月23日 | miscellaneous
本気出す、と書こうと思ったが、現況を鑑みるにちっともそんな感じがしない。

半年間何をしていたかというと、相変わらずのこと、仕事をして読書して、それ以外の時間はほとんど外為相場の分析に費やしておりました。もちろん相場はビタ一文たりとも張っていない。ヒストリカルデータをあっちこっちから入手しては分析とシミュレーションを繰り返しているだけである。もともと信号処理の算数に心得があるので、そのへんの知識と経験を元手にしつつ、最近の時系列解析の算数を独習し、理解したはじからモデル構築とシミュレーションの計算機実験を繰り返しているという次第。

要はエンジニアの自主トレ的勉強を兼ねたお遊びだぜ、と自分には言い聞かせているが、内心では「エンジニアを引退するまでの間に外為で稼げる程度のモデルを作れたらいいな」と思っていたりもする。公的年金なんて貰えるとは思っていない。貰えたところでタバコ代だけで消えてしまうだろう。わたしには妻子もいないし、長生きなんかする気はハナからないわけだが、そんな気がないから早死にするとは限らない。現に、30まで生きられるかと思っていた20代の不安はどこへやら、気がつくともうじき50歳なのである。平均寿命くらいまでは生きてしまった場合を想定しつつ、老後の稼ぎを考えなくてはいけない。

実際問題として、現状では外為で稼ぐ(コンスタントに利益を出す)というのは難しいだろう、というのが目下のわたしの判断である。前にもちょろっと書いたことだが、相場の変動リスクもさることながら、システムリスクが大きすぎるからである。ただのギャンブルではない、それ相応に根拠のある運用を実行しようと思ったら、普通に思いつくようなすべての要因に対してフェイル・セーフやヘッジをかけられるようになっていなければならないが、個人でそれだけの環境を整えるのは、不可能とは言わないまでも非現実的というのに近い大変な作業になる。おまけに、FX業者も金融庁も、そうした環境構築の助けになるようなことは何ひとつ考えていないし、したがってインフラもない。ほとんど1ステップ毎に徹底した安全対策が(誰になくてもユーザには!)必要だという意識などまったくなさそうである。監督官庁も含めて頭の中がまるっきり博徒や胴元のそれでしかないのである。

──

なんかもう哲学なんて眼中になさそうだな、と思われることかもしれないが、別にそんなことはない。意欲は必ずしも衰えてはいない。しかし最近になってどうも、普通に本を読むことですら、以前は感じなかった種類の苦痛を覚えるようになっていたりする。いや苦痛というのは大袈裟だとしても、なんというか微妙な煩わしさのようなものを感じるようになっている。おそらくは、ごく軽度の「うつ」であろう。内分泌性のそれではなくて、単に「トシをとった」という意味の。

それよりもわたしの眼中から、こちらははっきり消失しつつあるのは社会情勢のようなものである。政権党が交代したことくらいは知っているが、だからと言って何とも思っていない。本当に何とも思わない。政権が交代すれば何かがよくなるとか悪くなるとかいうことは、わが国では、特にわたしのような個人にとっては、もはやありえないのだ。十年前は一種の虚無感でそう思っていたのだが、最近ではもう虚無感ですらなくなっている。

端的に言えば、我々がそう思っていたような意味での社会というものは、今や壊れてしまっているのである。外枠は、つまり見た目は以前とそれほど違わないように見えても、内側の統合はあらゆるレベルで壊れてしまっているのだ。その壊れた機械に年間500兆円のエネルギーを注ぎ込んで、まだ動く部品だけが動いている。わたしが今生きているのは、どうもそういう(もはや社会とも呼べない、強いて言葉を当てはめるなら)周辺環境の中なのである。

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