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10-4 馬と鉄

2017-07-08 20:53:46 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

10 幻の帝国の再現――ヒッタイト帝国――

4 馬と鉄

 アクン・アトン王の宗教改革、ツタンカーメン王の若死に、そのようなことがつづき、王家の威令が弱くなったエジプトでは、アモンの神官の力を利用して、ある将軍が反乱をおこし王位につき(ハルエムヘブ王)、新しい王朝をひらいた(紀元前一三四五)。
 これが第十九王朝である。その後エジプトはふたたび国力を回復し、シリア、パレスティナ遠征を再開した。
 そのためエジプトは、シリアに進出してきていたヒッタイト帝国との戦いが避けがたくなった。
 両国はこうしてオロンテス河畔のカデシュでついに大戦をすることになった。

 エジプト王ラメス二世とヒッタイト王ムワタリシュは、おのおの約二万の兵を率いてここであいまみえた。
 この戦いの情況と経過は、エジプトのカルナク、ルクソル、アビドス、アブ・シンベルなどの諸神殿に、ラメスの勝利をたたえる詩として石に彫りこまれている。
 ほかにパピュロスに書いたものものこっている。
 それは誇張し、ラメスの勝利のようにのべているが、どうも彼はムワタリシュの計略にまんまとはまって大打撃をうけ、やっとのことで脱出し、命びろいをしたらしい。
 そしてラメスはダマスクスまで軍をひいた。
 その退却中に、ヒッタイト王から和平をこう手紙がついたことになっている。しかし戦後、ヒッタイトはシリアの中・北部を確保し、エジプト人とむすんでいたアムル国がヒッタイト側についているから、どちらかといえばヒッタイト側か勝利であったことは確かであり、おそらく和をこうたのも、エジプト側からであったろう。
 ムワタリシュ王のあと、その息子ウルヒ・テシュプが王位をついで、ムルシリシュ三世となったが、叔父のハットゥシリシュを攻めて失敗し、逆に王位を奪われた。叔父はハットゥシリシュ三世と号した。

 彼はウルヒ・テシュプの生命は奪わず、追放しただけだった。
 このハットゥシリシュ三世とラメス二世のあいだに取りむすばれた条約が、さきにヴィンクラーがみつけて書いたものだった。
 長い条約で、詳細な規定があり、ボガズキョイのものは後半が失われているが、両国の不可侵と、防御同盟を約束したものだった。
 この条約をむすんだのち、ラメスはハットゥシリシュの王女を王妃にむかえた。
 当時のオリエント世界の二大勢力が手をむすんだ結果、オリエント世界には平和がおとずれ、それは七十年間つづいた。
 カデシュの戦いでヒッタイト軍に勝利をあたえたのは、軽戦車のおかげだった。
 調教した馬にひかせる戦車は、ヒッタイト人の発明ではなくもちろん、エジプト軍にもあった。
 しかしヒッタイト軍のは、とくに改良がくわえられていた。従来のぶざまな板車輪でなく、六本の輻(や=スポーク)の車輪が二つつき、優美な外観のとおり、軽やかでスピードがあった。
 彼らはこういう戦車で、戦車隊を編成して、戦闘したのである。
 馬を飼い、その馬に乗ったり、戦車につけて戦うことは、紀元前一五〇〇年前後にはじまった。
 それがどこではじまったのかは、よくわからない。ヒッタイト人、フルリ人、カッシート人、ヒクソス人のどれかのところで、はじまったらしい。
 ヒッタイト人もこのなかにいれられているが、たぶん彼らは、馬の飼育をよそから学んだ。
 ハットゥシャシュでみつかった粘土板のなかに、「馬学案内書」とよばれるものがあり、馬の飼育法について書かれているが、そのなかで馬を飼育しているのはフルリ人である。
 しかしそのフルリ人も、馬の飼育の発明者かどうかはわかっていない。
 馬を飼育しはじめた人々は、このようによくわからないが、馬にひかせる戦車を改良して完成したのは、ヒッタイト人であった。これが彼らの戦力をなしたのだった。
 もう一つヒッタイト人の戦力の源については、鉄器のことがよく強調される。
 たしかに鉄はアナトリア地方に産し、そこでは製鉄術もはやく発達していて、ヒッタイト人侵入以前の紀元前二〇〇〇年ころから、鉄の剣がおこなわれていた。
 アランジャ・ヒュユックの青銅器時代初期の王墓から出土したものは、その代表的な遺物で、金製の立派な柄のついた鉄剣で、当時アナトリアに進出していたアッシリア商人の居留地カネシの遺跡(キュルテペ)出土の粘土板に、金の五倍、銀の四十倍もしたとある金属は、たぶん鉄のことであろうとされている。
 またエジプトの王は、ヒッタイトの王に鉄器をほしいと手紙をだして、断わられている。
 これらのことからヒッタイト時代でも鉄器が貴重品だったことはわかる。
 しかしその鉄器が当時、石器や青銅器より鋭利、堅牢だったという証拠はない。
 むしろ青銅器よりもろかったと考える学者もある。鉄器がのちに有利になるのは、安価に大量にできるようになったためだった。
 貴重品扱いをされていたのでは、安価でも大量でもなかったわけである。
 カデシュでは勝利をえたがヒッタイト帝国は、このころから衰微にむかう。
 紀元前十三世紀の終わりごろ、ギリシア本土にドリア人の移住があり、これに追われた先住者のなかには、小アジア、アナトリア地方にはいりこむものもあった。
 また東部地中海沿岸も諸民族に荒らされた。
 その結果、ハットゥシャシュは侵入してきた人々のために落とされ、火をつけられた。
 はげしい火が何日も燃えつづいたらしく、遺跡に大火の跡がみられる。
 こうしてヒッタイト帝国は紀元前一二〇〇年ころ滅んだ。
 しかしヒッタイト文化の余燼(よじん)はその後シリアの地で、カルケミシュを中心にして、紀元前七〇〇年ころまでのこったが、アッシリアに滅ぼされてしまった。
 そして、ふたたび発見されるまで、ヒッタイトは二千年以上も人々からほとんどまったく忘れられていたのである。

江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、38

2017-07-08 17:21:44 | ボネ神父様
江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、38

◆、告白

 ボネ神父さまのことで、忘れることのできないもうひとつの思い出は、新田原に行って、はじめて告白したときのことでした。神父さまが、最後にご自分のひざを「パーン」とたたかれると、「よし、行け、ゆるすじゃ」といわれたのには、びっくりいたしました。それまでは、ほかの神父さまがたから、ていねいなことばを聞いておりましたので、いっそうおどろいたわけです。

 しかし、しだいに回数を重ねてゆくうちに、その荒っぽいことばのなかには、あふれるような愛のこもっていることがわかりました。

労働者の権利   教皇ピオ11世

2017-07-08 17:20:11 | 格言・みことば
しかしながら、愛徳が公正真実であるためには、いつも、正義を念頭におかなければならない。使徒は、われわれに、隣人を愛する者は律法を完了した者である、と教えている。そして、その理由を説明して、次のように述べている。「姦淫してはならない、殺してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、このほかにも掟はあるが、隣人を自分のように愛せよという言葉につづまるのである」(ロマ13:9)。使徒によれば、すべての義務は愛というひとつの掟に帰一するのであるから、この徳はまた、殺してはならない、盗みを犯してはならないというような厳密な正義の義務をも支配する。労働者が厳正な権利として要求することのできる給料を、これに支払わない自称愛徳なるものは、真の愛徳とは全々ちがったものである。それは口先だけの愛徳であり、にせの愛徳である。労働者が正義の権利として要求することができるものを、施しとして与えてはならない。いくらかの贈与を慈善として与えることによって、正義の要求する重大な義務をのがれることは許されない。愛と正義とは、しばしば同一のことがらに関して、しかも、ちがった側面から義務を課することがある。労働者は、かれら自身の尊厳を意識し、他の人がかれらに果たすべき義務について、特別に敏感になる権利がある。

教皇ピオ11世「救治と手段」『ディヴィニ・レデンプトリス』1937年3月19日 (岳野慶作訳、中央出版社、1959年、pp.111-112)

聖プロコピオ殉教者   St. Procopius M.

2017-07-08 17:16:24 | 聖人伝
聖プロコピオ殉教者   St. Procopius M.    記念日 7月8日


 プロコピオは非常に厳しい苦行の生活を送っていたので、彼の同時代の教会歴史家エウゼビオは、「彼は死人のように衰えたが、神の言葉を読んで霊魂に大きな力を与えられ、体も回復した」と伝えている。プロコピオは、ほとんどパンと水だけで生きて、時々一週間断食することもあった。

 プロコピオはエルサレムで生まれ、スキトポリスで教会のために働いた。温和で謙遜であって、聖書をよく学び、シリア語にも堪能であった。

 ある日、彼は数人の仲間と共にカイザリアへの宣教に派遣された。その頃は、ちょうどドミチアヌス皇帝の迫害が始まった時で、カイザリアの総督はプロコピオに斬首の刑を宣告した。「私達の最初の迫害の年に、プロコピオは一番の早道で永遠の生命に旅立った。カイザリアにおける最初の殉教であった」と、エウゼビオは書き残している。