カトリック情報 Catholics in Japan

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聖性と勉学の土台  聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ)

2017-02-28 04:37:27 | 格言・みことば
聖性と勉学を一緒に結ぶ絆、それらが建てられている土台は、徳です。愛する皆さん、偉大な真理を話したいのです。もしあなた達が品行方正であれば、聖性と勉学は確実に進歩するでしょう。

聖ヨハネ・ボスコ(ドンボスコ)

聖ワルバーガ修道院長

2017-02-28 04:35:52 | 聖人伝
聖ワルバーガ修道院長      記念日 2月25日


 ワルバーガは、イギリスのデポンシャの領主の娘として生まれ、ドーセットの修道院で教育を受けてそこの修道女になった。
 8世紀のイギリスは、熱心な宣教の中心地とも言えた。聖ボニファチオは、ドイツの改宗の為にイギリスの修道士や修道女に呼びかけたので、ワルバーガと兄のウィンバルトはそれに答えて2年間ビショスハイムでワルバーガが教理を説くと共に、医術で異教徒を助け、ウィンバルトはハイデンハイムに男性と女性のための修道院を創立して、自分は修道士を指導し、妹を修道女の長上とした。

 ウィンバルトが亡くなった時、ちょうどアイヒシュテットの司教であったもう一人の兄が、ワルバーガを修道士と修道女の2つの修道院長に任命した。

 779年にワルバーガは亡くなったが、彼女の名声はたちまちヨーロッパ中に広まった。彼女の遺骨は17世紀のバロック教会の中に納められ、現在は、その教会は宣教女であり、医者であった彼女にささげられている。

聖ヒラロ教皇

2017-02-28 04:33:37 | 聖人伝
聖ヒラロ教皇  記念日 2月28日


 449年にエフェソで司教会議があったが、あまりにも荒れたので、教皇レオ1世は盗賊的司教会議と呼んだ。教皇の2人の使節は話すことを禁じられた。コンスタンチノープルの総大司教フラヴィオは押し倒され、蹴られたり打たれたりして殺されたが、教皇使節の一人であったヒラロは逃げ出して無事にローマに帰ることができた。

 ヒラロは福音史家聖ヨハネの特別な保護によって助けられたことを信じて、ローマの聖ヨハネ・ラテラノ教会の中に感謝のしるしとして礼拝堂を建て、「解放者の福音史家聖ヨハネへ、キリストの僕で教会の司教のヒラロより」という言葉を記した。

 461年にレオ1世教皇が亡くなったとき、ヒラロが後を継ぎ、教会の自由を守るために全力を尽くし、国の最高権力者をも恐れずに公に非難した。帰天したのは468年であった。