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フラナガン神父様の物語 永井隆

2016-10-03 12:35:30 | 格言・みことば
第一のおきて

 孤児を「己の如く愛し」ている収容所職員の多いことを私は知っている。それにもかかわらず収容所の成績が上がらないことも私は知っている。なぜうまくゆかぬのであろうか?ー

 フラナガン神父の「少年の町」がうまくっていることを皆が知っている。なぜうまくいっているのであろうか?ー

 人の守るべき最大のおきてについてイエズスは、「なんじ心を尽くし、霊を尽くし、意を尽くして、主たるなんじの神を愛すべし。これは最大なる第一のおきてなり。第二もまたこれに似たり。なんじの近き者を己の如く愛すべし」と言った。

 この第一のおきてこそは、私などが常に実行しなければならないものである。第一のおきてを守らずに、第二のおきてを正しく実行することはできない。第一のおきてを忠実に守るならば、第二のおきてはおのずから実行せずにはおられなくなるものである。

 ところが、主たる神を愛さなくても、隣人を愛することができる、と思っている社会事業家が多い。主たる神を愛するどころか、忘れてしまっている者、あるいはさらに積極的に神の実在を否定している者で、人類愛に基づく事業を企てている。神の恵みがなくても、人間の力だけで、りっぱに愛の事業ができると思いこんでいる。かぎりなき愛の泉から神を追放し、その後に己が座り、惜しみなく愛をそそぐぞと、うぬぼれているのだ。それほど思いきって神を否定しないまでも、まあ孤児の世話ぐらいは神さまの加勢を頼まなくても自分の力だけでやれる、と思っている人も多い。そんな人のそんな事業は、うまくゆかぬものである。

 なぜうまくいかないか? ー これを科学的に説明することはできない。それは超自然的なお恵みの関係するところであるから。

 しかし、事実はそうなっているのである。宗教のない収容所、無神論者の経営する収容所は、ついに失敗をしている。

 フラナガン神父の少年の町。そこではこの最大なる第一、第二のおきてが忠実に実行されている。主たる神を愛し、すべての栄光と賛美を神に帰しつつ、彼らはその町を経営している。フラナガン神父の天職は天たる神を愛し、神のみ栄えのために働くことであった。この天職を全うするために、たまたま手をつけたのが孤児の世話であった。孤児の世話は彼においては祈りであった。孤児を愛するがゆえに神を愛するのではなく、神を愛するがゆえに孤児を愛するのであった。あの町ではフラナガンという一人の男が孤児の世話をしているのではない。神を愛し、神を賛美する心が孤児の世話をしている。ー

 フララナガン神父は世間の賞賛は己の受ける筋合いのものでなく、そっくりそのまま神にささげられるものであることを知っている。町の少年からささけられる感謝も己が受けるわけがないことを知っていて、改めて神にささげさせている。

 神父はこの町によって、神の愛のこまやかで、しかも大きいことを目に見せた。そうしておいて、人もまた神に向かい、こまやかで、しかも大きな愛をささげねばならぬことを教える。少年たちは素直に、心を尽<し、霊を尽くし、意を尽くして神を愛すべきことを悟る。

 神父はこの町の経営にあたって、多くの善良な隣人が、少年をわが子のごとく思い、ひとかたならぬ愛をそそいでくれている事実を見せる。そうしておいて、町の少年市民にもまた互いに、近い者を己のごとく愛することを教える。少年は素直にうなずく。

 こうしてこの少年の町は、神を中心とする愛の町となった。超自然の愛と自然の愛、天国の愛と地上の愛とが快い調和をする楽園となった。

 この愛の町は、愛の本源たる神の御意にかない、神はかぎりないお恵みを下してお報いになる。

 上から下にそそぐ愛、下から上にささげる愛、神と少年との間に愛の流れは直結する。孤児が神と愛において直結するとき、はじめて孤児は親なし子ではなくなってくる。-天に
ましますわれらの父であるからである。

「われなんじらを孤児として遺さじ」

 このイエズスの力強い約束が想起される。孤児の救われるのは、この境地である。孤児が手に入れる幸福の白い鳥とは、この「神の愛」である。このほかに真実孤児の幸福はない。

 神のかぎりない愛の光は孤児の上に豊かにそそいでいる。フラナガン神父はただ横にあって、悪い風が吹きつけぬよう、気を配っている。

永井隆『この子を残して』(著者はカトリックの医師・医学者、被曝)