ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

罪がわかる祝福

2019年04月09日 | 信仰
神様ってすごい!と感動する。人智を超えた、唯一にしてまさに真の神である。三位一体が分からないと言う人も、この話は分かるのではないだろうか。
 
性善説と性悪説という言葉を子どもの時から知っていた。私の家は浄土真宗だったので、親鸞の「善人なおもって往生を遂ぐ いわんや悪人をや」の言葉は耳タコ部類だった。性悪説でなければ、親鸞も阿弥陀もないわけで、大人になって性善説の人が多いのにビックリした。
 
しかしたとえ性悪説を認めていようが、多くの人は、「それがどうした?、みんなおんなじじゃないか」の域を出ないようだ。阿弥陀仏の慈悲にすがるほどの罪意識は、持てないでいるように見える。形だけの式をあげても、さすがの弥陀もお手上げではないだろうか。
 
もちろん私はクリスチャンなので、十字架のない救いはあり得ず、残念ながらそこは天国ではないと知っている。福音を信じない多くの同胞のことを思うと断腸の思いだ。
 
本題に入る。
「あなたは罪が深く、そのままでは天国(正しくは天のエルサレム)に行けません」と言われたら、ショックだろうか? 性善説の人は怒り、性悪説の人は、ある程度受け入れるだろう。しかしそれも、法に触れる罪を犯していない人で、自分の良心に責められる人は稀に違いない。福音派と私たちが呼ぶ教会にいた私もそうだった。ただ浄土真宗ではなく、真の神を信じているクリスチャンだったのが違いだった。
 
四十歳になった頃、前妻が拒食症を発症した。当時、私の教会では教会は神から祝福を受けた人が義であり、支配層であった。クリスチャンは倫理感に富み、まじめに働くし、神から祝福されて当然で、それが証明された人が敬われて当然と言うわけだ。
それまで私は教会の責任を担う立場にあったが、妻が発病したことで、いわば祝福から落ちた者と見なされたようだった。病は神のわざが現れるため(ヨハネ9:3)ではなく、前節の「罪を犯した」扱いなのだ。思い余って牧師に癒やしの祈りを請うと、「(そんなものはないので)病院に早く連れて行きなさい」だった。
この時から、私の長い旅が始まった。はじめは私は、自分を犠牲にして家族のために頑張っている演技を続けた。癒やしのある教会も探し続けた。ほとんどそんな教会はなかった。事態は長い年月をかけて、ゆっくりと落ちていくばかりで、家族は分断され、とうとうメッキがはげ、本当の地が剥げて出てくるようになった。
 
パンドラの箱ではないが、希望を失ったと感じた私はやけになった。色欲、破壊欲に抵抗する気力もなく、どうやって派手にそれを実行しようかと・・・罪の本質が現れた時、それが罪であるとは分からないものだ。どこまでも自分を被害者扱いにし、正当化する、それが人間だと人は言うかもしれない。しかしそのような者が行くところが、天国であるはずがない。なんと私は哀れな者であろうか。こんな私を神に愛される価値があるのだろうか、それはない!
 
キリスト教においては、罪がわかることが真の救いである。十字架が罪深い自分のためであったことを悟った瞬間、それが成就する。すると、自分の正当化できない本当の罪を知らされたことは、自分の力では出来なかったことで、試練困難はこのためであった。心から悔い改め、こんな者を愛してくださる神キリストに、狂喜して自分を献げたい。神の愛がわかった瞬間でもある。罪は神のものとされる祝福となった。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ 28©2017
 
神の言葉は真実である。信仰も神によって与えられるものなのだ。
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
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