コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

受容 と ホスピタリティ

2021-08-13 15:57:26 | コミュニケーションワーク


いろいろあって入院中です
治療のため1回につき4時間ほどベッドで寝たままです
複数の人が同じ部屋で治療を受け、看護師さんは同時に何人ものお世話
大変なことです
患者は患者で身体的にも精神的にも弱っている存在
やはりわがままになったりします

4時間することがないので音楽を聴いていることが多いのですが、人間観察すると結構面白いってことに気づきました

私の隣は年配の女性が治療を受けてます
認知症もあるのでしょうか、同じことを何度も看護師さんに問いかけます
このときの看護師さんの対応がいろいろあります

腕に針を刺して機械につながれたままの治療なんですが、動いたりして流量が変わるとアラートが鳴ります
お隣さんはじっとしてるのが苦手で、数分おきにアラートがなります
そのときに、対応する看護師さんは複数なんですが、まずは同じ問いかけ「大丈夫?」
から始まります

序盤はどの看護師さんも
「大丈夫ですよ」
と優しく対応します
しかし数回繰り返されると
そのまま受容的態度をつづける方の中に
「なんども繰り返すと遅くなるだけですよ」
と苦言を呈する人も出てきます
あげくには
「大丈夫?」
「ダメです!じっとしてなさい」
と、否定・批判の態度に変わる人がいます

「大丈夫?」
の問いかけを受け入れられたと感じたときは、次の問いかけに移ります
「もう、ご飯の時間?」
午前中の治療なので終わればお昼ご飯になります
最初はどの看護師さんも
「最後まで終わったらご飯ですよ」

これも繰り返されるうちに回答が変わってくる人がいます
「あと2時間待ってね」
「動いて止まるといつまでもご飯にならないよ」

もう一つよく繰り返されるやり取りがあります
「お手洗いに行きたいわ」
機械につながれている間にはベッドを離れられません
点滴のようなものならつないだまま移動もできるんでしょうが
なので、年配の方はおむつをされているようです
(もし私が尿意を訴えたら尿瓶を渡されるでしょう)

これに対しては
「終わるまで動けないのであとでね」
という対応が多かったです
ちょっといいなぁと思ったのは
「大丈夫、したかったらそのまましてもいいわよ」
という”受け入れる”対応でした
一方で
「気のせいですよ、お部屋でもすっとでてないでしょ」
というものがありました
行為の制限ではなく、感じたことの否定です
医療的には事実なんでしょうが、受容という点では気になります
この看護師さんは、この回答を数回繰り返すことになったあとついに
「それは気のせいです。この治療方法はおしっこがでなくなります。昨日もその前もおしっこは出てないでしょ。おしっこがしたい気になってるだけです。だめです」
事実関係を早口でイラつき気味にまくし立てていました
その患者さんのベッドサイドだけじゃなく、離れたところからでも大声でこの回答をくりかえします

この患者さんもつらいでしょうが、周りの患者もこのイライラが伝わる状況は愉快じゃありません
おそらく大半は、わがままいう患者さんに対してイライラするかもしれませんが、私はこの看護師さんが違う態度でいれば全体の雰囲気は変わったと思っています

もちろん、この看護師さんの立場に立てば、多くの患者さんのお世話なのに一人に構っていられない、こなさなければならない作業は山ほどある、という風に理解はできます

でも、できれば弱者に寄り添ってもらいたい



傾聴の視点から行けば、少し受容的にやり取りするならば
「大丈夫?」
「大丈夫って聞きたいのね、何か心配なの」
「もうご飯の時間?」
「ご飯の時間が聞きたいの?おなかがすいたのかな」
「おトイレに行きたいわ」
「おしっこが行きたい感じなのね」
って感じでしょうか
カウンセリングワークなら、問いかけや想像を交えた感想は好ましくないでしょうが、実際のコミュニケーションはそこまでは難しく時間をかけられないので、このくらいが受容的態度で寄り添う対応でしょうか

機会があればこういう職業の方に基本だけでもお伝えできればいいんですけどね

生死観    今の心境 つづき

2021-08-08 12:10:26 | 真宗
と、長々書いたのは前段で、ここからが本題

齢も50半ばを過ぎ、身体も病に蝕まれてくると、「死」が身近になってくる
いや、もともと「明日なき我が身」であって、いつ死が訪れてもおかしくないのだが、なかなかそうは思えないものが感覚的に「近づいてきた」となるのだ

では、その「死」とはなにか
私にその答えを与えてくれているのが浄土真宗の教えだ
といっても、これはあくまで私の「領解(りょうげ)」であるので、浄土真宗のなかでもいろんな側面で語られる
ましてや様々な宗教観があるなかで、この考えを押し付けるつもりもない
死生観の一つとして聞いてほしい

平均寿命ということを考えても、肉体的に衰えてくるのは明白で、実際衰えを感じる
「死」など考えずに「ポジティブに生きる」べきだ…という考え方もわかる
しかし、私は「死」は肉体的なもので、私の「本質」は肉体を離れ次のステージに移り行く
なので、死を恐れていない

ただ、その肉体の死によって、今生の関わりが尽きることには恐れを感じる
死ぬことに未練がないわけではない、未練はたらたらだ
死後の行く末が未知数ならば、その不安でいたたまれないだろう
が、私は「南無阿弥陀仏」との出会い、融合によって、その行く末がはっきりと知らされている
また、死は逃れることができず、誰にでも等しくやってくるということも認知している
なので、うろたえることなく、その日が来ることに覚悟を持っている

ではその行く末とは

地獄一定

「因果応報」と教えられた
私がこの肉体を維持するために多くの命を奪ってきた
それ以外にも、言葉や意識で相手を切り付け、殺してきた

「食べ物」という生き物はない、すべて「命」だ

恩師の忘れられない言葉だ
奪った命の分だけ、わが命が奪われていく世界
それを「地獄」と表す
ならば、私の行く末は地獄以外ない

もちろん地獄なぞ行きたくない
逃れるすべがあるなら縋りつきたい
宗教によっては、修業して罪を滅したり、祈りによって赦しを求めることもあるだろうと
「救われたい」という気持ちを人質に、宗教勧誘をビジネスにすることもある
(ひどいところでは、物品を売りつけて贖罪にするという胡散臭いものもある)

ただ、私は

因果の道理は逃れることができない

と聞いた
いまさらあがこうとも、すでに奪った命は帰ってこない

では、それでよいのか

私が阿弥陀様の願いに触れたときに、ひとつは

地獄行きでしかないわたし

という事実を受け入れることと同時に

そんなものを救うために立ち上がった阿弥陀様

という事実を受け入れた

こうして言葉にして表しているが、それは体験的なことであり、どちらが先とかあととかでもなく、どこが境目だとかでもなく、今の私は「受け入れた」状況であるとしか言えない
そのことが、「死」というものを受け入れる根底にある

できるだけそのことを他の人と共有する術のひとつに「お聖教」がある
この体験の先駆者であるお釈迦様の言葉、そして自己の体験を踏まえてそのお言葉を表してくださった親鸞聖人のお言葉
そこを頼りに語れば良いのだろうが、哀しいかな「言葉」に捉われてしまう方が多くある
私の知識技量ではそこを超えることはあきらめた

私の受け取ったものを「理解」するのが大事ではなく
私は受け取った…という事実だけが大事なのだから


生死観    今の心境

2021-08-07 16:02:35 | 真宗
私の宗教観の根源は浄土真宗
親鸞聖人の教えだ
一口に浄土真宗といっても、その立場によって受け取り方は様々

  家の宗派が浄土真宗
  本願寺といえば浄土真宗
  親鸞聖人の教えが浄土真宗

また、その関わり方も様々で

  家が代々浄土真宗だから、そのまま浄土真宗で法事を行っている
  浄土真宗の作法で先祖を供養してもらっている
  浄土真宗の寺に生まれたから、僧侶を相続している
  本願寺という「浄土真宗を商品」とするフランチャイズ組織で生計を立てる
  学問として浄土真宗という教学を学ぶ
  生死の問題を考え、宗教に答えを求めたとき浄土真宗だった
  サークルに勧誘されて、生きる目的が浄土真宗だと教えられた

これだけではないが、私が出会っただけで様々な関わり方をしている人がいる
どれが正解でどれが間違いということはない
それぞれが「その関わりしかしらない」状況なら、そこを突くのは争いにしかならない
実際、元気なころの私は、違いの「正しい浄土真宗」をかざしてずいぶん不毛な時間を過ごしたものだ

今の自分でこのことを俯瞰するならば

様々なご縁を通じて阿弥陀様に出会っている

という感覚だろうか

もう一面では

他の人はどうでもいい、私がどう関わるか

と覚めているともいえる

長くなったので続きは次回に