コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

世間にならってご挨拶

2009-12-31 17:48:19 | 日常雑感
みなさまお正月休みはのんびり過ごしておられるでしょうか。
私は新潟の明願寺(連れ合いの実家寺)で、明日の元旦会の準備を手伝いながら、のんびりしております。

あらためて、今年一年いろいろとお世話になりました。

私はあまりこういう区切りを大事にしないほうなんですが…

日付をまたいで、ほんの数時間違うだけで私の本質がそうそう変わることはありません。
「新年こそ」と何かを決意するのならば、そんな先に延ばさずに「今から」変われば良いんですしね。
年が変わった時点で、「今年こそ」って言っていても、それならばもう今年なんですし。

周りの数え方の関係で、たまたまとしが変わる…私が変わるわけじゃないんです。
変わりたいことがあるならば、さきのばしせず「今・ここ」で動けばいいと。

「これからはお念仏ひとつで…」なんて言っている人は、「これから」というのは先のことで、「今・ここ」じゃない。
これからなんて言っていないで、そういっている口ですぐさまお念仏させていただけば良いわけです。

とはいえ、過ぎてきたことを振り返るには「区切り」はいいかもしれません。
今年はわたしじしんいろいろと気づきをもらった一年でした。
それは進行形で、これからも気づき、変化していくことでしょう。
そういう時間軸でかんがえると、一年前のわたしとは大きく変わっているんでしょうね。

さて、年は変わっても、引き続きよろしくお願いいたします。

その時々の気持ちに従う

2009-12-27 01:33:34 | 日常雑感

いよいよ年末って感じになってきました。
まだ記事にしてないことがいくつか積み残しになっているのですが…
無理に掘り起こして書くよりも、書きたいことを書きたいときにと思っています。
書き損ねている話題も、そのとき(書きたい気持ちが強くなったとき)に自然に書けば良いかなと。

先日の京都支部法座に参加したとき、ちょっとした気持ちの変化を感じていました。
おそらく周りの方にはどうということのない変化でしょうし、誰も感じなかったとも思います。
でも、自分自身で振り返ってみると、思わぬ変化だったりします。


ここ数年、法座の後の懇親会にあまり出たくないという気持ちがありました。
(ワークショップや地方の法座の分かち合いは大好きですが)
その思いの底にあるものは、いろいろ自己分析してある程度認識してますが、いくつかの要因が複雑に絡まっています。
その中のひとつに(というか基本的に全部そうなんですが)人間関係の問題があります。

法座でご一緒する分には問題ないんですが、雑談的になるとしんどくなる関係があります。
いわゆるゴシップ的なものが好きな方とのやりとりで、「だれそれはああだ、だれそれはこうだ」という具合に他人の話題…多くは否定的な言葉で盛り上がる。
いや、私がそういうことを一切しないかというと、私もやっているんだろうとは思います。
そういう話題でも、まだ自分の思いや考えを聞いてほしいというのならわかりますが、人づてに聞いた話を「どう思う?」などと問われても、その話題の対象も伝えてきた人もここには居ないのですから、その情報が正確かどうかわかりません。

ちょうど話題にしようとしていたことのひとつに、先日講義を聴きに行った友久久雄先生の「仏教とカウンセリング」という公開講義があったのですが、その中である相談を受けた時に、「一方の言い分を聞いただけで判断せず、双方の主張を聞いてはじめて判断する」ということがありました。
情報は人を通して語られると、その人の意思が混じって正確じゃなくなると。
自分の子どもが「お姉ちゃんにたたかれた」と訴えてきたからといって、すぐにお姉ちゃんを怒るのでなく、お姉ちゃんの言い分も聞く。
そこにはたたく原因があるでしょうから。(もちろん、”たたく”という手段は許しません)

と、話がそれてきましたが、そういう場面に居ることがしんどくなってきた時期があり、避けるようにしていました。
今回の法座でも終わったらすぐに帰ろうという気持ちが強かったのですが、会場に向かう道中で少し今までと気持ちが違うことに気づきました。

先に決めてしまわずに、法座が終わった時点の気持ちに従おう。

もしその時点でいやだったら帰れば良いし、その後でもいやになった時点で離れれば良いと。
これで結構楽な気分になりました。

そして法座がすすんだときに、参加していたある方のお話を聞いて「もっとこの人の話を聞きたいな」という気持ちに気づきました。
もし、「すぐに帰ろう」と決めていたら、そういう気持ちも起こらなかったでしょう。
実際に少し飲みながらその方のお話、今の心境をお聞きする時間はとても楽しいものでした。
その後、別の方ともいろいろお話しする時間も持てましたし。


ここ数年、私の中に「触れられたくない、触れたくない」ものがどっかりと居座っています。
それを避けるためには、「そこにいて話題を避ける」よりも「そこにいない」を選択しています。
もし巻き込まれたくない話題がそこでなされていたとしても、いなければ聞くことはないのですから。
実際は「なにか言われているんじゃないだろうか」とモヤモヤしてるんですけどね。
でも、直面したくないという方の気持ちに正直になっています。

そこに対して、ちょっとだけやわらかくなった…そんな気がします。
他人にはどうということはないのでしょうが、私自身はそのことをそおっと受け止めて大事にしてみます。

まぁ、次の機会になるとどうなるかわかりませんが。
その時々の「私はどうしたい?」を大事にしようと。


京都支部法座 12月

2009-12-25 00:59:48 | 真宗

昨日は華光会京都支部の法座。
毎年12月の23日に行われる家庭法座。

ご法話の内容は、ご講師の「かりもん」師が詳細に書いてくださっているので割愛。

で、私のブログはお味わい中心。
「現世利益のご和讃」を中心にお話くださったが、私が求める利益ってのは自分の都合での「ああなりたい、こうなりたい」というものばかり。
それがうまくいかないときは、その原因を外に求め、自分は傷つかないようにしながら、いいとこ取りをする。
しかしその実、わが身に起こってくることの原因は紛れもなく自分自身にあり、自分の作り続けてきた「業」を果たしていくしかない。

わかりやすいところでいけば、「夫婦は業の果し合い」などというが、そういう相手と連れ添ったのも誰のせいでもない自分の「業」だし、なにかでけんかしたとしても相手だけが悪いことなどではなく、自分の作ってきた「業」が、夫婦のけんかという形で現れてきただけだ。

そういう、自分によいことがあるようにと求める利益じゃなく、私の預かりしらないところに南無阿弥陀仏の利益は働いている。
いわゆる即効薬的なものではないので、なかなかありがたみを感じないが、こうして和讃を通じて聞かせていただくとその利益の元にある「南無阿弥陀仏」の功徳がはっきりとしてくる。
利益を喜ぶのではなく、その利益もこめられた「南無阿弥陀仏」に出会わせていただくところが喜べる。

座談やあとの懇親会などでいろんな方と讃談させてもらったが、やはり積み重ねる聞き方や効果を求める聞き方をしていると、ご縁のところでうんぬんしてしまいがちだが、すでにわが身に起こっている南無阿弥陀仏の働きを、自分で判断しようとするのじゃないなと。
形としては人の促されたからするお念仏だとか、なんとなくするお念仏だったりするのかもしれないが、よくよく考えてみると、(たとえそこにこちらの欲が混じっているとしても)この私がこの口で「南無阿弥陀仏」と称えるわけがないのである。
自分では自分の意思でしているように思っているけれど、先に「お働き」があって、それがこの身で証明されているだけ。

私が求めている利益とは違うかもしれないが、私が求めても決して手に出来ない利益がこめられている。
いや、次元が違いすぎて、そんな利益を求める気さえないような大きな利益。
そして、その種が…一方では「救う気にさせずにおれない」ほどのどうしようもない私の種、もう一方では「救うための手立てが具足している願行」の種。

座談の最後に、お念仏を手渡していく時間を持っていただいた。
次々手渡され、響き渡るお念仏。
そのお念仏の前にたたされたとき、人の心配や、人に煩わされることなどの障りから放たれた感覚になった。
「ひとり」
そんな感覚。
多くの人や諸仏に囲まれているが、後生の一大事はわたし「ひとり」の問題だと。


京都支部学習会 12月

2009-12-22 04:40:35 | 「聞き方・伝え方」学習会
日曜日は京都支部の学習会。
今月は遠方からの参加者は居られなかったが、大阪から学習会は初参加の方が。
別の場所でいろいろとお悩みを打ち明けておられたのだが、意を決して寒い中バイクで参加してくださった。

毎回参加のレギュラー組が6名、プラス大阪からお一人の計7名と少なめではあったが、逆に十分目が届く感じ。
最初に黙想の後、今の感じをたずねる。
このやり方にも慣れてこられ、それぞれが自分の身体感覚や湧き出る感じを言葉にしてくださる。
また逆に集中できないのならばそれを正直に表明してくださる。
「いま・ここ・わたし」を「そのままありのまま」ということが染み渡っていく感じがして、まったくの手探りからスタートした私自身が引っ張ってもらえる感じがする。

ちょっとしたワークも用意してみたが、その持ち出し方に失敗し「テストじゃないですけど、自分の今の聞き方を見つめてみるワークをするか、いつも通り実践してみるか…」と言う言葉に、「まだテストは怖い」という気持ちを起こさせてしまった。
ということで、ペア二組と3人組がひとつの三つに分かれて「聞き手・話し手」の実践。
私はフリーにしておいてもらい、実践中に順番にお邪魔して観察役。

今までは、人数を合わせるためにどこかに入ってましたが、慣れた人がいない組にはとても不親切だったろうなと思い、今回は自由に動き、その代わり感じたことを後の分かち合いで話させていただく形に。

型にはまった聞き方というのはやはり難しいんでしょうが、それでも少しずつ意識して「聞き方」が上手になられています。
なので、もう一度基本の聞き方「うなづき」「つぶやき」などを確認し、なぜそうするかの意味を少しお話しました。
これも、実践した上で皆さんが「こういう場合は」「こういう気持ちのときは」などと積極的にたずねてくださるので、それにお答えする形で。

言葉は違いますが「相手の尊重」ということを今回はお話できたと思います。

そのあと、一人「話し手」をお願いして、私が「聞き手」になって実践の見本を。
ちょうど「放す」のが良いんじゃないかと思っていた方に、話してもらいました。

問題・課題を持っておられ、そのことを話されるのですが、私は具体的な内容はそれとして聞きながら、問題に対する「気持ち」を返すことに徹します。
私が問題の中身を解決したり、指針を与えたりすることは一切ないですから、その方の持っておられる問題は解決していないでしょう。
しかし、「話が出来た」ことで楽になられ、問題との向き合い方・距離感に変化が起こったようでした。

このことはちょうどいろんなご縁で「真宗カウンセリングって?」ということを問いかけられていた私にとってのひとつの確認にもなります。

宗教的な、あるいは生活的な「問題解決」を促すものではなく、やはり「育ちあう」というところだと思います。
宗教的に悩んでいるから「真宗カウンセリング」ということではなく、問題解決はその方の”歩み”であり、こちらは寄り添うこと。
それが相手の方の「尊重」ですね。

この辺は、またあらためて言葉にして行きたいと思います。

来年はいろんな行事の関係で、土曜日に行うことが増えそうです。
とりあえず、1月は23日の土曜日です。


今日は夜に真宗カウンセリング研究会の先生と、来年の予定や案内パンフの打ち合わせをしました。
おかげで、いろんな流れ、動きに関わらせてもらえそうです。

出していくもの・入ってくるもの…
とても面白いですね。

書き込みが滞ってます

2009-12-20 00:15:24 | 日常雑感
今週はじめからパソコンの調子が悪く、数日かけてパソコン環境を整備しています。
具体的には、トラぶったパソコンのハードディスクを交換して、一から(Windowsから)入れなおすというもの。
仕事やいろいろなデーターは別のハードディスクに入れてますから良いのですが、ネットやサイトの設定なんかはWindowsを入れなおすと全部消えちゃいますので、一から設定が必要だったりします。

で、何とか一段落。

本当なら、今週に書いたであろうブログの記事がたまってます。
日にちがたつと思いも変わるので、新鮮なところで書くことができなくなるので困るのですが…
また、後日談も交えて書いていくことにしますね。

とりあえずインデックスとして。

先週の土曜日、京都女子大学で「仏教とカウンセリング」という公開講義を受講してきました。
友久久雄先生のお話です。

明けて日曜日、華光会日曜礼拝の成道会でした。

水曜日には真カ研の月例会。
新しい方とのご縁もあり、いろいろと面白かったのでぜひ書きたいのですが。

しばらくパソコンがトラぶっていたために滞ってる仕事もありますので、今日はやめておきます。

明日は、華光京都支部の学習会。
また、あたらしいネタが増えるのですが…

日曜礼拝 12月 成道会

2009-12-14 00:59:55 | 真宗
今日は日曜礼拝の「成道会(じょうどうえ)」でした。
毎年の定例行事です。

いつもの日曜礼拝よりは早めの11時から。
ご法話を通して「成道会」が何の日かということを聞かせてもらいます。

インドでの「お悟り」ということなので、みんなでカレーライスをいただき、子どもらは分級座談とレクリエーション。
大人はじっくりと座談会です。

遠く高山から子どもさんらとお参りのOさんを含め、4人での座談とちょっと寂しめ…。
いえいえ、人数は少なくとも、そこで交わされる讃談は深いものがありました。

お釈迦様がお悟りを開いたというお祝いが成道会ですが、この「道が成る」という言葉だけでも深く味わえます。
お救いの主は阿弥陀仏ですが、お釈迦様がお悟りを開いてくださらなければ、人間の言葉で阿弥陀仏の願を伝えられることはありません。
そんなお釈迦様の一生を思わせていただくだけでも、お礼を申さずにはおれなくなりますね。


今日の座談での話題のひとつですが、家族に伝えたいとか、いろんなご縁で先生に出会ったとか、そういうことすべてが私に気づきを与えてくれます。
その気づきは、そういう家族とか先生を対象にするのではなく、それらの指す方向を見せてもらうことによって起こるもの。
指の指し示す阿弥陀仏に出会うことですよね。

でも、なかなかそうは行かないという方は、一生懸命指を指している「人」を見ている。
その人が正しいと判断できなければ、指の先を見ようとしない。
それよりも先に、指し示された先を見せてもらって、それが正しければ指差す人が正しいということなのに。


お釈迦様は、自身が悟りを開かれ、迷いを離れられたのだから、もうほかの人のことはいいはずなんです。
お釈迦様自体が救いの力を持っておられるわけじゃないんですから。
でも、自身に救う力がないにしても、その開かれた目で知ることができた真実の主を指し示すことができた。
親鸞聖人も、自らが悟りを得たのではなく、お釈迦様が指し示された先を見て信を得られた。
お釈迦様の行や瞑想をまねることはできないですし、親鸞聖人の読み解かれたことを同じように知ることはできません。
でも、指し示してくださった先を見ることは、お釈迦様や親鸞聖人と同じように、私にもできるんです。

そこに待っておられる方がいる。

「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え。」

道を成して下さっているのですから、前を向いて歩ませていただくだけですね。

ミニカン継続学習会 12月

2009-12-12 12:12:22 | ミニカウンセリング
木曜日はミニカンの継続学習会。
先月が定員割れで中止でしたし、毎週のエンカウンターにも不参加でしたので、久しぶりにゆっくり参加できた感じです。

参加者3名と世話役2人。
前半は私が外れてタイムキーパー役。
15分実践、2分+2分の振り返り、これが役柄交代してもう一セット。
40分強の時間、一人の時間をもらえました。
ちょうど来年度のスケジュールをいろいろ検討する時期なんで、ちょうどいい時間をもらった気がします。
(家でやってるとあれこれほかの事に気持ちが流れますしね)

後半はもうお一人の世話役さんが早退。
二組のペアで実践です。

すでにワンセッションされている方に対し、わたしは久々のカウンセラー。
最初は自分でもわかるくらい、聞き方が硬かったですね。
でもすぐにやわらかくなってくるのを感じながら、そおっと寄り添ってお話をうかがいます。

交代してクライエント役
最近の困ってる事例を話させてもらったんですが、聞いてもらう過程で「こちら側の理屈の押し付け」があるような気がしてきました。
話しながらそのことを眺めてみたとき、相手の立場になってみると完全に「押し付け」になっていることがわかります。
その出来事の渦中には見えていなかったことが、こうしてカウンセラーさんに聞いてもらうことで気づいていけるんですね。

そういう風に出来事を見つめなおすことで、自分の中の感情がひとつだけじゃなく、変化していくことがわかります。
最初の「こちらが困っている」から「そりゃぁ相手に悪かったよな」と。
その相手の前にたつと、また違ったものが出てくるかもしれませんが、とりあえず「相手に悪かった」という感情も持っていることがわかったんですから、再びその方と会ったときにそのことが言葉にできれば…また違った関係が作れていけるかもしれません。

カウンセリングを通じて、自分のストーリーを振り返り、客観視し、隠れていた感情も見つめてみて、そこにあるどんな自分も「受け止めてみる」

なかなか実践できませんが、この繰り返しから「関係作り」がはじまるのかもしれません。

平和をわれらに (ジョン・レノン カール・ロジャース お釈迦さま)

2009-12-09 19:11:33 | 日常雑感

12月8日…毎年いろんなことを考えます。

真珠湾攻撃の日(太平洋戦争開戦)
ジョン・レノンが射殺された日
お釈迦様がお悟りを開かれた日(成道会)

今年は、先月購入したまま未見だったジョン・レノンのドキュメンタリー映画が手元にあったので、この日に観ることにしました。
(映画自体のことは音楽ブログで紹介しています)
映画として上映されたときに劇場に足を運んで観ているのですが、今の私が見るといろいろと違った点に気持ちが留まったりします。

それは戦争やお悟りにもつながっていくものですので、ジョンの話題を中心に。


BEATLESの喧騒時代から脱却したくなった彼には、ソロに転向するきっかけとしてヨーコとの出会いがあり、さらにはさまざまな考え方を彼女とともに深めていったようです。
それは「平和への祈り」でした。

インタビューの中でかれは「ガンジー」を引き合いに出し、「非戦・不服従」ということを大事にしています。
彼はそれをさらに進めて、”積極的”にアピールしていく方法を模索します。
BEATLESのジョン・レノンという知名度を利用して、イベント的に「伝える」という方法です。

しかし、そこには「この考えは正しいから受け入れてほしい」という、押し付けに近い方法をとる姿があります。
メディアを利用している彼には、逆にメディアが”自己の利益”につながるように誘導したり、過去の逸話を持ち出したりするという行為に苛立ち、「伝えたいこと」に固執してしまいます。
聞いてほしい話が伝わらないとき、相手を非難し、嘆き、困ってしまっているようでした。

さまざまな法座やワークを通じ、身体的に攻撃することだけが暴力じゃなく、言葉の暴力があることを学んできました。
さらには、相手の思考を妨げることもまた暴力なんだと学びました。

そうすると、ジョンの行為もまたひとつの暴力となってしまっているのです。

「伝えたい」ことがあるときに、相手に納得させるのではなく、相手が自ら気づいていく形で「伝わっていく」

カウンセリングを学ぶ課程で、カール・ロジャース氏がめざした「共に成長する」ということが大事だと知りました。
ロジャース氏もまた「平和」を目指した一人です。


でも、ジョンを非難・批判しようとする気持ちは微塵もなかったりします。
彼が訴えたメッセージは、確実に私の中にあります。

All We Are Saying Is Give Peace A Chance

War Is Over If You Want It,War Is Over Now

 


この日お悟りを開かれたお釈迦様は、争いの流れから離れられない自分たちの姿を「一切皆苦」とお示しくださり、自らの悟りの姿を通して「抜苦与楽」の世界があることを教えてくださいました。

「平和」は祈るものでも、不可能なものでもない…
すべてのものが悟りの世界に入れば、争う種はなくなるのです。
その一歩は、他人をどうこうするのじゃなく、私が聞かせてもらうことから始まります。
十方衆生の救いは、この私が救われないと実現しないのですから。


さまざまな出会いを通して、私の中の「平和」というキーワードがつながっていきます。
12月8日は、それを象徴する日として…


伝えるために大事なこと

2009-12-05 01:49:47 | コミュニケーションワーク

 

今日、自動車免許証の更新に行ってきました。

過去5年の間に違反経験のある人は、ご褒美で特別な講習とビデオを見せていただく事が出来ます。
残念ながら駐車違反の検挙からまだ5年は経過しておらず、晴れて今回も講習を受けさせていただくことに…


まぁ、こういう講習はほとんどの人が「仕方なく」受講していると思います。
受講しないと交付してもらえないから…
確かに、こういう態度の人が毎日来るのですから、講師の方も大変でしょうね。
しかし、いろいろと気になる事があります。


聞く側の態度に問題があるってことは認めた上でなんですが。
この講習では「安全運転」のための大事なことを講義されます。
一応、官の側からすると、しっかり話を聞いて違反や事故を繰り返さないようにという前提があるはずです。
しかし、繰り広げられた講義には、そういう「聞いて欲しい」という気持ちが伝わってきません。

ひたすら早口で、必要なことを駆け足で羅列する…
この私ですら「早い」と思うくらいですから、年配の方には聞くのが辛かったことでしょう。
早くしゃべるうえに、口ごもった感じで進んでいきますから、余計に聞き取れません。
「時間通りにこなせばいい」というやっつけ仕事の感覚だけが残ります。


このことから、逆に「伝える」ことの大事さを感じました。
ただ情報を羅列するだけではなにも伝わりません。

ゆっくり丁寧に

当たり前と言えばこれ以上当たり前のことはありません。

私が、法座やカウンセリングで、こういう師にめぐり合えているから、そうではない伝え方が気になるのかもしれませんが。

そして、その心がけとして

相手が聞いてくれたかどうか、確認できなければ次の話題に移らない

というくらいのものが必要だと思います。

ただ「相手に言いたい」と言うだけならば、言いたいことをどんどん投げかけて言い切ってしまえばいいのかもしれませんが、「伝えたい」と言う気持ちがあるならば、自分の気持ちよりも、相手のことを大事にする必要がありますね。


親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 44

2009-12-01 22:56:50 | 親子コミュニケーション

親子コミュニケーションのちょっとした心がけ 44

先日、あるテレビ番組を録画しようとしていたときに、別の番組が目に留まり録画しました。
昨日、録画したものを見たのですが、なかなか面白かったです。
番組名は「プロフェッショナル 仕事の流儀」というNHKのプログラムで、目に留まったのは「井上雄彦」という漫画家。
「スラムダンク」というバスケマンガで一世を風靡し、その後宮本武蔵を描いた「バカボンド」という作品を連載し続けています。

この方の絵も、マンガも好きなのですが、今回はいろんな話の中で印象に残った事を。


ひとつの締切が終わったら、すぐに次の締め切りの作業に入っていくと言う厳しいお仕事。
プロフェッショナルと呼ばれるだけあって、そのこだわりはすさまじいものがあります。
身を削り、心を削り、繰り返していく作業。
そんな井上さんにスタッフが問いかけます。

「絵を描き続けるモチベーションはどこにありますか?」

井上さんは答えます。

「子どもの頃、絵をほめられたから」

家庭で色々あり、少年時代をすごした地で、祖父から言われたそうです。

「髪の毛がまるで生きてるみたいだね。」


認めてもらえるってことはとても嬉しいことですね。
その一瞬の「受け止めてもらった」感は、何かの形で残っていきます。

その一言にそんなに意味を持たせなくてもいいんだと思います。
むしろ、放つ側が思っているのと違うところで、相手に響いていたりします。

だから、ちょっとしたことでも声をかけてあげること。
ほめる言葉はとても大事だと思います。

意気込んだり、影響を考えたりせずに、そおっと一言、ほめてあげてください。

 

  43-こけてもいいよ
  42-追い込む言葉
  41-会話と言語発達
  40-31~39のまとめ
  30-21~29のまとめ
  20-11~19のまとめ
  10-1~9のまとめ

  番外編