コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

お礼参りツアー 2019晩夏 その6

2019-10-10 11:02:54 | お礼参り

この旅のあと、すでにあちこち訪れていろいろ感じていますが、その元にこの旅で感じた様々な思いがあるので、だいぶ間延びしましたが旅の記録を完成させましょう

2泊目を広島で取り、午後にお友達に会う約束ができたので(急遽お願いしてすみません)午前中はちょっと山の方に足を延ばすことに

九州への行きしなに休憩したSAで見つけた気になるもの

「三次もののけロード」なるものがあったので、スタンプラリーがてら足を延ばしてみました

前回の旅で小泉八雲や水木しげるなんかに触れていたので、その余韻もあったのでしょう

中国道を利用して、数か所のSA/PAでスタンプを集め、もののけミュージアムへ向かいます

朝の山間部は昨日までの雨で霧に包まれ幻想的

もののけミュージアムは…町おこしで頑張ってるんでしょうけど、観光地がいっぱいある京都に住んでると単体ではなぁ…という感じでした

で、目的の呉に移動です

先の記事でも書いた、ネットで多くのお寺の方とやり取りしていたころにお名前を存じていましたが。その後真宗カウンセリングを学ぶようになって何度もご一緒させていただく機会があったIさん
お寺にお参りさせていただくのは初めてです

今回の旅で「お寺の役割は?」というのも一つのテーマでしたが、真宗が篤く根強いている地域でもあり、ご住職の工夫と地域の方の協力で、「ここにこのお寺がある意味」を感じました
そこは、真宗カウンセリングを学び「目の前の方を大切にする」視点と、真宗として後進を育てる視点を兼ね備えているIさんならではのものと感じました

無理なく、目の前の「存在」と関わりながら、阿弥陀様の願いを押さえている…って感じでしょうか

ご自身もいろいろと悩める「存在」であることにも自然体で居られることも

社会的な活動にも、私がPTAでいろいろ活動したこととリンクしますし


お忙しい中、お時間をいただきありがとうございました


その帰り道に、ご近所でもある「信楽師」のお寺の前を通らせていただきました

「信楽師」の下で学ばれた方とは結構ご縁があり、師の「真宗会の現状への不満」であったり、師の思いの一部を取り上げ頑なに「排他」する門下生とのやり取りとか
これも若気の至りでしたね
そんなことを思い返しながら

また、師とは義父や西光先生と一緒にお話しさせていただく機会も何度かありました
と言っても、お三人が篤く語られるのを横で聞いているだけでしたが
でも、それも大きな学びでしたね

今思えば、このお三方は、「真宗の僧侶」という立場でありながら、宗派を超えた視点で阿弥陀様との出会いを語ってくださっていた気がします

枠にとどまらない

最近の私が感じているところも、こうやって思い返せば「自由」な諸先生に触れさせていただいたことが影響ある気がしてきました


私自身の終活
あとどれくらい刺激に出会えるかわかりませんが


お礼参りツアー 2019晩夏 その5

2019-10-10 09:53:50 | お礼参り

 

山口県をぐるりと北上して長門市に入り、仙崎港にむかいます
ここは仕事で何度か訪れてますが、キレイな道の駅ができてました

金子みすずの街

長門、仙崎にはいろいろご縁があります

20代後半、浄土真宗に出会い「信心」ということをご縁のあった方々から導いていただき、自らの体験を通じて味わったとき、ネットというものが動き出して家にいながらいろんな方と意見を交わすことができる時代になりました

連れ合いを通じて知り合った僧侶の方々とも、寝る間を惜しんで言葉を交わしたものです
というか、深夜だったら定額でネットができた…って時代ですね(笑)

「浄土真宗」という共通言語のはずが、求道中心で個人として語るものと、教団というものを背負って「お寺」として語るもの
同じ言葉を使っても「似て非なるモノ」でかみ合いません
その根底には「私が正しい、打ち負かしたい」という心があるのですが

そういう関わりの中で、お一人だけ違う視点を持った方がおられました
今の私なら、それはカウンセリング・マインドなんだろうなと思うのですが。その方だけは「受け入れる」態度でいらっしゃった

その方がご自身のホームぺージで紹介されてたのがその方の地元、長門であり仙崎であり金子みすずさんでした

今回、その方のお寺もお参りしたかったのですが、仙崎に着いたのも道の駅のお店が閉まるような時間でしたから

で、車を道の駅にとめて、歩いて「仙崎駅」から「みすずロード」を歩きます
ここはお店や、普通の家の軒先に「金子みすず」の詩が掲げてあります

 「遊ぼう」っていうと

 「遊ぼう」っていう。

 「馬鹿」っていうと

 「馬鹿」っていう。

 「もう遊ばない」っていうと

 「もう遊ばない」っていう。

  そして、あとで

  さみしくなって、

 「ごめんね」っていうと

 「ごめんね」っていう。

  こだまでしょうか、

  いいえ、誰でも。



私は彼女を、

仏様の視点で命を見つめた人

と思っています



  朝焼け小焼けだ
  大漁だ

  大羽鰮(いわし)の
  大漁だ


  浜は祭りのようだけど

  海の底では何万の
  鰮(いわし)のとむらい
  するだろう

何度も、いろんなところで見聞きしてる詩でも
この地に立って目にすると深い思いに浸れます

青梅島まで足を延ばしたかったのですが、遅くなったので港から青梅島を眺めて、この地を後にして広島まで移動しました

 


お礼参りツアー 2019晩夏 その4

2019-09-18 20:08:44 | お礼参り

 

 

本州に戻って、まずは六連島へ
目的は、浄土真宗の妙好人「おかる」さんに出会う旅
妙好人っていうのは、浄土真宗の世界で使われる言葉で、お坊さんじゃないけど熱心な信者・門信徒で、下手すりゃそこらの「お寺の息子なんでお寺継ぎました」ってお坊さんよりはるかに「信心」深い一般人(失礼があればお許しを)

この「おかる」さんは、お経を読んだり、難しい言葉を残すことはなく、ご自身が感じたことを平易な歌にして残された
(自身は文字をかけないので、お世話をしたお坊さんが書き記したとか)

聞いてみなんせ まことの道を
      無理な教えじゃ ないわいな   

きのう聞くのも 今日また聞くも
         ぜひに来いとの および声

仏法をお経などを”読み解く”難しいものと思っている人が多い中で、「そうじゃない、難しいことは阿弥陀さんがしてくれてるので、凡夫の私は聞かせてもらうだけだ」と、そして「難しいとか、学がないとか言ってないで、それが明日になろうとそんなに偉くなるもんじゃないから、”今”聞けばよい」と言うことを「昨日聴いたことと、今日又聞いてもおんなじ”仏に任せて浄土においで”」という呼び声だと。
なんと、確信をついた言葉でしょう
お坊さんの何十分かけたご法話より、端的に表してます(たびたび失礼があれば…以下略)

ということで、そんなおかるさんの育った地の空気にぜひ触れるべく、六連島連絡船の船着き場に向かいます

当初の予定は、一日目にいろいろ寄り道して下関で宿を取り、午後に知人と約束なので二日目午前中に六連島へ…だったのですが、一日目に九州まで行き、その流れで午前中九州巡り(前回までのレポート)となったので到着は午後

船着き場がなかなか見つからず、ナビを頼りにやっと着いたので駐車場らしきところで藩士を聞くと…

「今から行くんですか?
 行ったらもう帰ってくる便ありませんよ」

とのお言葉
観光で六連島に行くなら、朝6時ごろの便に乗ってゆっくりするのが”定番”なんだとか


ということで、渡航は諦め、六連島が望める場所を求めて彦島(橋で渡れる)へ
うろうろしてたら「ナイスビュー彦島」なるスポットに偶然たどり着き、スマホのMAP見ながら景色観てたらしっかりと六連島を望むことができました
なので、ここでおかるさんに思いを馳せてしばし海風に浸ります

更に車を走らせ、今まで仕事で来るときは効率考えて高速道路前提のルート選びしてたところを、「のんびり景観重視」モードでルート選択
海沿いの国道を軸に、目的地の仙崎に向かいます
途中、前日の台風で「災害迂回」なんて目にも会いましたが

都会にいると「迂回」って言われても、まっすぐ行きたいところを2・3回曲がれば元の位置に行くのですが…
地元らしい前の車について迂回路走ってたら、最初の曲がり角まで10分以上、どんどん山の中に入っていって、なんだかんだで30分以上…
やっと元の国道に戻ってきました
途中、ナビ派違う道を示しだしたんですが、あとで見たらそこまで山の中に入っていったならそのまま山を突っ切るショートカットのルートがあったようです

まぁ、そこはのんびり旅
途中で見つけた道の駅に停まったら、ちょっと回り道したら絶景のポイントがあったのですが…
さすがに、午前中ののんびり旅と、先の迂回で結構時間が経過してたんで断念
今思えばもったいないことしたと後悔してます

仙崎に行く前に寄りたかったポイント「元乃隅神社」へ
ここは何気なしに見ていたテレビ番組で取り上げられてた絶景ポイントで、海に向かっていくつもの鳥居が連なっているというところ
国道から外れて、離合の難しい道を数十分走って到着
駐車場が観光地っぽくなっていて(普通の道に「この先通行止め」なんて看板だして誘導している 怒)躊躇しましたがここまできたので
まぁ、京都の観光地の駐車場よりは安いですけどね
台風の影響で、「青空に赤い鳥居が映え」とまでは行きませんでしたが、確かに素敵な景観です
鳥居は123本あるとか
一つくぐるごとに煩悩一つ滅してくれたらおつりがくるのですが…(笑)

Img_20190829_164534 

そういえば、連れ合いと出会った時に北野天満宮に初詣に誘ったとき
「私はお寺の娘だから鳥居はくぐらないの」
などと言われ、鳥居の外側を通ってお参りに行ったことを思い出したりして
(うーん、甘酸っぱい思い出だ)

ここは通路がこの鳥居くぐりしかないんで(それでも足元おぼつかない私には苦難の道)全部くぐりましたとも
海側は切り立った岩場
東尋坊などにも似た感じ
そういえば、ここも日本海なのには変わりないですね

ちょっとのんびりした後、再び仙崎に向かいます

仙崎にも深い思いがあるので、それはまた次回に

 


お礼参りツアー 2019晩夏 その3

2019-09-12 21:25:27 | お礼参り

 

K君たちとの楽しいひと時の余韻にひたり、電車で関門海峡をくぐり下関のお宿へ
世間は台風で電車も運休だらけ…なんてことも酔いで気づかず
ほんと真酔って(迷って)いるわが身です
ただ、夜中にひっきりなしに「避難警報」がスマホからなりまくってたのはつらかったですが

明けて二日目、まずは小倉まで戻ります
ホテルの送迎者で下関駅まで戻ったら、本州側のJRはすべて運休
小倉行きはなんとか動いてました

駅で車を引き取り、お礼参り再開
まずは北九州市にある「善定寺」さんへ

私が求道を始めたころ、ここのおばあちゃんに「若いのに熱心やね」とほめてもらったことは今も忘れられず、ほめられること大好きな私はその期待の応えるべく求道に励む…そんな思い出のおばあちゃんの旧跡です
また前住職の先生は、求道や伝道で同じ時代を過ごした仲間であり、その姿からは多くのことを学ばせてもらいました
先生と組んで座談法座のお世話をさせていただいたことは、ファシリテーターということを実体験で学ばせていただく機会でしたし、のちのカウンセリングの学びに通じるものがあります
さらにこのお寺の三姉妹、同じ年代ということもあり、「青春と求道」という裏テーマで様々な考え方を実感した仲間でもあります
思い起こせば、それらすべては、家族に対して、いや家族だからこそ、(嫌われても)妥協せずに仏法の厳しさを説いたおばあちゃんの「願い」にあります

先生の体調のことや、すでに新しい世代に変わっていることもあり、お声かけはせずに外からそっとお参りさせていただきました

こういう「人」を通じてのご縁がなければ、今の私はない
当たり前と言えば当たり前ですが、決して当たり前ではない「有り難い」ことです

南無阿弥陀仏

お寺にお参りさせてもらうのは2度目かな
娘さんらとは連れ合いもご縁が深いので、連れ合いも一緒の旅行で九州も設定したいな
来年くらい元気が残ってれば実現させましょう


帰り道、せっかくだからと「とんこつラーメン」の店を探して楽しんで、九州を後にしました


お礼参りツアー 2019晩夏 その2

2019-09-10 20:25:13 | お礼参り



今回、言葉にしてみたことを細かく掘り起こしても、文章だけだとなかなか伝わらないだろうなって思いもありますが…

私自身のところで言葉にしてみましょう

まず、私は
間違いなく浄土真宗とのご縁で「阿弥陀仏」との直接的な関係を築いています
これは私と阿弥陀様「1対1」のことであり、それを他人に置き換えたり、標準化するものではありません
ただ、そのことを”味わう”のは、人間として生きる中での多くの方との出会いであり、その関わりで起こる”こころのひだ”のうごめきです
だから、引きこもって一人でいると、言葉にすると”ズレ”につながってきます

その上で
私の大問題は”死”であり、それはそこで終わりではなく「迷い続ける」というところにあります
それは祈りや行ではいかんともしがたく、ただ阿弥陀様の「お前を救わずにはおかない」という誓願を受け入れること
それは”信”であり、そこで起こる「南無阿弥陀佛」という称名です

「南無」とは、こちらから阿弥陀様に頼む「一念」であり、阿弥陀様からの”頼む”の叫びです
「阿弥陀仏」とは、その誓願が成就した証であり、「必ず救うぞ」に誓いが成立した証です

ということで、私の「迷い続ける」ことを断ち切るのは、私と阿弥陀様の「1対1」の問題です
だから、その他のものは必要ありません
たまたまそれが私に届いたのが、人間の時であり、仏教であり、浄土真宗であり、様々な善智識との出会いによるものだった

阿弥陀仏の思念を人間の言葉にしたお釈迦さまがおられ
インドの言葉から中国の言葉を経て日本語として伝わってきた
そのさなかで、この私に合っているのは修行ではなく、より簡単な方法であり、ただ「誓願を成就」した阿弥陀様の名前を呼ぶだけで良いと
ただ、漫然と呼ぶのではなく、そこに「救うぞ」という願いを受け入れる「信」を問うことは大事だと
それが私にとって、仏教であり、浄土教であり、浄土真宗だった由縁ですね


と、浄土真宗から阿弥陀様を尋ねるとあきらかになります
救われるのは「そうでしかない」と


ここで、カウンセリングが身に染みてくるともう一つの視点が表れます
相手を尊重するということ
私自身は「そうと思えない」ということも尊重します

そこに引っかかるのは、かつての私が「そう思えない」という人に対して否定・批判の態度で接していたことにあります
「阿弥陀様の救い」を純粋に突き詰めると、そこに対する「疑い」は一切認められません

私に対して「信」を示してくれた「善智識」のように、「親鸞聖人」のように「法然上人」のように
そう、生き様のほうに目が行ってしまい、そうなれない人をさげすんでしまいます

そのことがしんどくなってきて、「そうは思えない」という人も尊重したいという思い

私に対してお救い示してくださった阿弥陀仏は、「すべての生きとし生けるもの」に願いを立てておられます
ならば、浄土真宗じゃなくとも、浄土教じゃなくとも、仏教じゃなくとも、あるいは人間じゃなくとも
阿弥陀仏の願いは無条件ですから


まぁ、このことに対する落とし穴も明確になっているのですが

そのあたりが、前回の旅で
神様を畏れ大事にする人たちや
幽霊など怖れる心境の人たちや
パワースポットなどに頼る人たち
に触れて、こういう人たちにも「願い」はかかっていることを感じるにつながりましたし
それが
「信」ということに対して、「そう思えない目の前の人も尊重したい」ということにつながります

むしろ今は、そういう人たちが愛おしく、押し付けではなく「わたしはこう信じさせていただいています」と語り合いたい気持ちがあります

そのとき、私の中で「真宗 と カウンセリング」として、そこにいる存在が「真宗」と「カウンセリング」をつなぐものにあるんだな、と。

来月、真宗カウンセリングについて語る機会がもらえるかもしれないので、このことをひと月かけてもうちょっと深めてみたいと考えてます

K君、S君とのほんの数時間でこういうことが言語化されてきました
期待以上の時間でした


お礼参りツアー 2019晩夏 その1

2019-09-08 16:56:21 | お礼参り

 

 

この夏、世間がお休みのお盆は普通に仕事だったんですが。少しずれた8月終わりに8月分、9月頭に9月分のお休みが来るというラッキーな状況で「6連休」とすることができました

7月のお休みは連れ合いと日程があったので、山陰へのお礼参り小旅行としたのですが、今回は平日からスタートし、土日もあるけど連れ合いは忙しいとのことで、おひとり様のお礼参りツアーへ

その山陰旅行でいろいろ感じたことがなかなか言語化できずにモヤァっとしてたこともあり、今回は私の中にある、真宗・仏教に対する思いと、カウンセリングに対する思いを「誰かに語る」ことで言語化しておきたいなということをテーマに、この両極のことを分かち合える貴重な友人に会いに行くことに
空いてる日程を提示したところ、快く日程調整してくれたので連休最初の3日間を旅行にあて、そのまんなか29日に会うことに
彼のいる北九州を目指すことにしました

28日にあちこち寄り道しながら九州へ移動し、二日目に彼と会い、3日目にまた寄り道しながら移動
道中は車で、3日間中国地方のインターチェンジを定額で乗り降り自由のプランを使います

で、直前のやり取りで、もう一人いっしょに会う予定の知人が28日の方が都合が良いということで、。初日に一気に九州まで移動することに
先のプランの関係で、夜中2時に出発
途中、道の駅などで休憩と温泉を楽しみながら、約束の15時に小倉で落ち合います

 

 
道の駅むいかいち温泉

 

北九州で僧侶をするK君と、山口で僧侶をするS君
二人が京都にいるころ、一緒に語り合った仲間ですし、真宗カウンセリングに関しては彼らが先輩になります

初日の宿は下関で取っていたので、小倉の駐車場に車を停めて、二人と呑んだ後は電車で下関に移動、翌日また電車で小倉に車を取りに来るということに決めて、心置きなく小倉の夜に(まだ昼間のスタートですが)繰り出します

SNSなどで私の体調を心配してくれていた両名に近況を報告し、私の終活に向けた思いなどを話します
そして彼らの近況や、直面している問題などを聞き合います

そこには、仏教的なものやカウンセリング的なものを「いちいち説明せずとも」共有し尊重しあっている時間と空間がありました

何をどのような順番で話したかは忘れていますが、私の中のモヤっとしたものも言葉にすることではっきりとしてきたし、その根っこにあるものも「ちょっと重い言葉になりますが」と指摘してくれます

まさに目的としていたことを明らかにしてもらえた時間でした

その中身は次回にでも


純粋性 と 尊重

2019-08-04 10:33:54 | お礼参り

「お礼参りツアー 2019夏 その2」として、先日の旅で感じたことを言葉にしようと
なんどか打ち込んでは読み返ししっくりこず
で、言葉を足してしまうんだけど、足せば足すほど伝わらなくなってくる

なので、これはこのまま抱えて、次の出会いで明確出来ればな、と

ただ、自分への押さえのために、他の人には伝わらなくとも

出雲の旅で、小泉八雲や出雲大社、神々の郷に触れた

私は神を信じない
私は神を信じる人を受容し尊重する

私はヒーリングを信じない
私はヒーリングを求める人の気持ちを受容し尊重する

私は畏れない
私は畏れる気持ちの人も受容し尊重する

私は怖れない
私は怖れる気持ちの人も受容し尊重する


仏教・真宗の純粋性
パーソンセンタードの許容性

相反するものをも、矛盾なく私の中でうごめいている


お礼参りツアー 2019夏 その1

2019-07-22 15:32:38 | お礼参り

5月から職場での立場が変わり、また人手不足などもあって通常の休み以外に休みを取ることがなかった
やっとこの7月の休みを連休にすることができた
で、うまいこと連れ合いの休みとの重なったので、急きょお礼参りツアーを立案

ご無沙汰してるお寺への計画もしてみたけど別の予定がおありとのことで…


私が連れ合いと知り合った頃に一緒に道を求めていた仲間であり、貴重な同年代(なんせ20代前半だったし)
子どもも同年代なので、お互い家族でお付き合いのあるTさんに連絡を取り、米子旅行に決定

私は仕事で何度か訪れてるけど、連れ合いは行ったことがないらしいし

皆生温泉で宿を取り、二日目は少し西の方へ足を延ばすことに

私としても、Tさんご夫婦への感謝・お礼のツアーであり、最近思いを至らせている「真宗という枠を離れて」阿弥陀様に触れるツアーとして


1泊2日とはいえ、土曜日は予定もあり、それを済ませてからの出発
日曜が選挙日なので期日前投票をしませ、息子の懇談会へ
学校周辺の駐車場が一杯だったので、連れ合いに懇談会を任せて、少し離れたところで待機
が、懇談の予定時刻がずれこみ、結局1時間以上待たされる羽目に

そんな出発だったので、米子に行くまでに寄り道したかった予定はパスして、直接米子まで

途中、蒜山高原だけ寄ってジャージー牛乳をいただく

台風と梅雨前線の影響で天気が心配されたが、きつい雨にはたたられず
明るいうちに着けたので、キレイなお庭も眺めることができた

Tさんご夫妻と久々の再会をして会食
思い返すと30年来のお付き合いだ

彼女がいたことで、私の求道もいろいろ影響を受けたし、彼女と関わることで私がお聞かせに預かっていることをはっきりさせることができた
年配の方からいろいろ教えをいただくこともあったが、同年代の者と「同行」として膝を交えることは大きな経験だ

その後、30代になると同年代も増えたが

また、御主人に対しては、強く仏法をお勧めすることで嫌な思いをさせたのではという思いが長くあった
若気の至りで、「仏法はまことなのだから」と、相手に寄り添うことをせずに押しつけていた時期だったし

でも、そういう経験の後にカウンセリングに出会ったことで、私のしていたことは「自己中心」のモノだったことに気づくことになる

私自身の「経験」の中で、お二人との出会いは深いものだ

そんなことに対して お礼とお詫び を

子ども達の話題などもしたあと、ごく「人間的」なところでの関わり合いもした

「思い・願い」を表明すること、伝えること
「こうありたい」ということと、「そうなれていない」ということのギャップからくる葛藤

別にカウンセリングしてるわけじゃないけど、私としてはゆったり聞かせてもらえる
深いところで「一味」であるということと、それでもお互い「人間」というところで葛藤を抱えているいとおしい存在であるということ

特別に在り難い場所に身を置かずとも、こういう「日常」の関わりの中で出会えるもの

この身のことを考えると、「次」はないと思う
いやもとより「一期一会」であり、「無常」であり、次はない

素敵な時間をありがとうございました


お礼参りツアー 2018秋 その5

2018-12-31 20:55:00 | お礼参り

神通寺

ここのご住職とお連れ合い様は連れ合いの大学同級生
京都に居られるときにも何度も一緒に遊びに行きました

そして縁が深まったのはネットでのつながり
かれこれ30年前ですか(苦笑)

そのころ、私はある聞法団体で求道してました
仏法という「まこと」とピュアに向き合おうとしていたがために、その純粋性からはずれるものを受け入れるということをせず、それは儀式儀礼を重んじるお寺や、大きくなりすぎた組織護持をする教団を疑問視していました

そんな思いを発散する場が、神通寺さんが開設していたホームページの掲示板でした
限られた文字数だけで自己を表現することも、相手を理解することもできるはずがないのに、寝る間を惜しんでPCに向かっていたのを覚えています
(当時は夜間だけ通信料が定額になるプランでしたから)

他人に、自分が味わっている領解を伝えるには、自分が感覚的に味わっているものを、自己に問い直すことが必要になる
同じ主教用語を使っていても、それまでのお育てや、学術的バックボーン(その辺は真宗学を学んだ方々にかなうわけない)の浅い深いですれ違う
いや、すれ違っていると思わずに、通じていると思っているから余計に始末が悪い
でも、それこそが私にとって求道であった


お寺がなければ、教団がなければ、今の私に真宗は伝わってこなかった
これは大きな事実

儀式儀礼や、教団護持を大事にする人もいるし、そういうことを通じてでも阿弥陀仏の願いは届く
これも大きな事実

 

何十時間、何百時間を費やしたこの時が、今の私に生きているのは間違いない
真宗の枠を離れ、カウンセリングにも触れた今の私ならもうちょっと違ったアプローチもできただろうけど、それは「たられば」の世界

 

などということを考えながら、事前の約束はしてなかったので、門前でお参りとお礼だけして神通寺をあとにした

 

夜は、その30年前からの付き合いで、ともに求道時代を過ごしたソウルメイトブラザーズを呼び出して会食
懐かしい話や最近の話
そして3人の底に流れる「法の味」

「で、京ちゃん、今はどうよ?」

なんて、過去のことじゃなく、過ぎたことじゃなく、”今”のところで問いかけをくれる、稀有な存在

在りがたいことです
南無阿弥陀仏



若き頃、私らを導いてくれた大恩ある先輩方…気が付けば3人ともそういう恩師の歳になっちゃってます

こうして顔を揃えることはないかもしれんけど、行く先はっきりしてるし、ソウルはつながってるし、ね。


〆は高山ラーメンで
呑み屋&ラーメンなんて、今の私には”毒”ですが…今宵くらいはね

 (賢ちゃん、画像使わせてもらいました)


お礼参りツアー 2018秋 その4

2018-12-30 23:00:00 | お礼参り


うーん、年越しちゃいますね

いよいよ2日目です

名古屋を後にし、目的地への中間点になる可児市で朝を迎え出発です




最初の目的地は下呂温泉
高速は使わず、川沿いを走る国道41号でのんびりと


法座や仕事で何度も高山や美濃に足を運んでますが一度も立ち寄ったことありませんでした

朝早くついてまずは街をぶらぶら、天気にも恵まれきれいな紅葉


沸いてる温泉を触れるスポットや数か所の足湯でほっこりした後、開店を待って温泉「白鷺の湯」へ



ヒノキの湯舟一つと簡単な休憩場所だけだが、全面ガラスの壁は川に面しており、山と河の絶景をながめながらのんびり


下呂をあとにし再び国道41号を北上、目的の高山市へ
ここへは何度来ただろう
まずは昼食、久々の国八食堂


ちょっとお昼時間から外れたので並ぶことなく入店、ホルモン定職をいただく(昔なら焼き豆腐も追加したところだけど)


宿は町の真ん中の古式ゆかしき民宿
チェックインしたら徒歩で街をぶらぶら


古い街並みの地域や陣屋
そして、友人のお寺へ