コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

DPAということ、非構成エンカウターグループということ ~DPA研究会ワークショップに参加させていただいて

2012-05-20 17:07:33 | エンカウンターグループ

DPA研究会のワークショップ「非構成エンカウンターグループ」に参加してきました。
DPAとは「Dharma-based Person-centered Approach =仏法を根底にした人間尊重のアプローチ」ということで、カウンセリングの要となる「PCA Person-centered Approach」の関わりに、そこに居る一人一人が仏法によりつながっていることを大事にする場だと認識しています。
これは真宗カウンセリング研究会でも共通のことですね。

今回、DPA研究会さんでエンカウンターグループを立案された際に、ファシリテーターとして声をかけていただきました。
私自身はDPA研究会に所属していないのですが「外部の方の方が良い」ということで声をかけたいただいたようです。
そして、真宗カウンセリング研究会の方でDPAの理念は私なりに実践していますので、そう遠い人間でもないようでした。

普段世話人しているワークショップやグループは、その役割上参加者を把握していますが、今回は一部FB上で参加表明されている方以外は当日まで誰が来るか知らないままでした。

このPCA・「人間尊重のアプローチ」ということを考えたとき、その人の経歴・立場・思想・興味などは事前に知る必要はなく、今目の前に居るその人の「ありのままの姿」と触れ合うことが大事だと考えています。
もちろん、触れ合っていく中でその方の「持ちもの」は言動の中に現れてきますし、表に出てきた「今の姿」であるならば、その方がのぞむ「こう見て欲しい」という立場や状況なども受けとめさえてもらいます。

逆に、よく知っている方が参加されているとき、ある程度「知っている」ことがありますし、それを無いものとして関わるのは無理があります。
「その方を知っている私」というのは、その時点での「ありのままの私」ですから。
ただそのことを、当人が言葉にしないのに「この方はこういう経歴で」と私が代弁することは必要ありません。
他の参加者が、今目の前で触れる「その方の姿」であればいいのです。

そこに「Dharma-based =仏法を根底にした」が加わるとどうなるのか。
残念ながら提唱された西光先生にこのことを聞かせてもらう機会がありませんでした。
なので、法座や真宗カウンセリングで西光先生と触れ合ったところから感じている、高橋我流の考えだという前提で。
真宗カウンセリングだからとか、Dharma-basedだからということで、「仏法」「真宗」の話をしないといけないということはありません。
ただ、一緒に語り合っている中で、そのお一人お一人が根底に持っている「法との関わり」は放っておいてもにじみ出てきます。
それは真宗に限らず、いろいろな形で現れます。
「法座」となると、そこに「導き」というものも入ってくるかもしれませんが、一人一人のパーソンを大事にする場とすると、そこに「否定・批判」はなく、「あなたはそう受け取っているのですね」と受けとめあいます。
また、その方がまったく仏法にかかわりが無くとも、そこに居られること、ご縁があって同じ時間と場を共有していることだけで、私には「根底に流れる仏法でつながっている」と感じられます。
私にとっての仏縁ですね。
(それがキリスト教などであっても、私の仏法に刺激を与えてくだされば、私にとっての仏縁ですから)


次に「非構成エンカウンターグループ」という要素があります。
学術的に学んでいないので申し訳ないのですが、実践してきた中で私なりの「非構成エンカウンターグループ」感というものがあります。
聞くところによると、始まりも終わりもまったく「構成されない」ものもあるようです。
私はグループで場を共有するので、ちょっとした導入の区切りや、希望があれば自己紹介などガあっても良いと思ってます。
そして始まってしまえば、話題や進み方、姿勢や態度には縛りが無く「今あなたが話したいことを話ししたいように」と尊重することだけ大事にします。
複数の方がご一緒するので、話題についていけなかったり、気持ちが乗らなかったりすることもあるでしょう。
ただ、「今発言している」方を一番に大事にしたいことだけを芯にすえ、あとは流れに乗っていない思いでも出していける場を作ることを意識しています。

よく、参加する方が「自由にと言われると難しい」とおっしゃいます。
そのとおりだと思います。
ただ、その瞬間の「ありのままの私」が許されていることだけ感じていただければいいのかなと思っています。

そんな「非構成エンカウンターグループ」のファシリテーターはとても難しいものだと思っています。
「自由にしてくださってOKです」といいますが、放ったらかしにしているのはファシリテーターじゃありません。
いちいち言動を確認して交通整理するのも(そういうのもあるのでしょうが)違う感じがします。
もちろん、参加者ひとりひとりの安全を守るのは最低限の仕事ですが、「何が起こっても大丈夫」というところは誰よりも私自身が心得ておくべきことですね。
「放りっぱなしではないが、干渉はしない」というスタンス、それを無理して役割とするのではなく、そうあっても大丈夫な私で居ること。
これは今後も学びと実践の中で経験していくことだと思ってます。


と、昨日のワークショップだけでこれだけいろんなことを振り返れました。
当然、ワークでの話題の中身もいろいろありましたが、それはここで私が触れることではないですのでね。

DPA研究会に興味を持たれた方はこちらへ。
「DPA研究会」 


名乗りを捨てる

2012-05-07 01:13:34 | 真宗カウンセリング

 

GWも終わり、明日からPTA関連が慌しく動き出す。
いろいろするべきことが山積していて、これはこれで気持ちの張り合いがあり、充実感がある。

一方で、今までの関わりとの距離感が変わってきたことはここでも何度か触れているが、中途半端な位置づけが精神的に悪影響を及ぼしていることも感じている。
気持ちの中では方向性は決まっているが、「これこれしようと思う」というだけではどうもダメなようだ。
気持ちの踏ん切りをつけることだけでは、頭では切り替えても、腹底の方のもやもや感は払拭されず、たとえば単純作業時の”妄想”に現れて心悩ます。
(おかげさまで、気になって眠れないという性格ではない)
具体的にその「方向性」を決定付ける儀式が必要なのかもしれない。
そのこともある程度決めてはいるが、まだ実行できていない。

それとは別に、ここ1ヶ月ほど気にしていたことがある。
「カウンセラー」という名乗りについてだ。
私は数年前から「相談」を受けることがあり、話を聞かせてもらうことを大事にしてきた。
「カウンセラー」とはどういう人か…「クライエントが居て、継続的に話しを聞く人」というのがひとつの定義であるので、そういう意味ではカウンセラーとしての活動はしている。
しかし、「カウンセラーの資格」を認定している団体があるが、私はその資格は有してない。
私が所属している「真宗カウンセリング研究会」もその団体に属しているから、団体に所属する「真宗カウンセリング研究会」としてカウンセラーを名乗るには、資格の有無は重要になってくる。
ちゃんと資格を取っている人と同列に「カウンセラー」と名乗るのは、ちょっとおこがましいという気がしてきた。

また逆に、私の周りで資格を有して「カウンセラー」という名乗りの元に活動されている方も多く居られる。
その一部に、「身近な人を苦しめる」ことを平気で行う人も居たりする。
また、カウンセラーとクライエントの関係を超えた、感情の関わりをしてしまったり。
クライエントが心を開けば開くほど、そこに芽生える「依存」には心を配らなければいけない。
それが、逆に依存感情を取り込んでそれを超えた感情になってしまうとそれはカウンセリングではない。
(もっとも、当人はすでにカウンセリングの関係ではなく、ただの恋愛関係になっているんだろうけど)

こうなってくると、資格があるから「カウンセラー」と名乗るのも違うと思えてくる。
私としては、”実”の部分で、相談者に寄り添う聴き手でありたいと思っている。
資格やテクニックで「カウンセラー」であろうとは思わない。

こう考えてくると、「カウンセラー」と名乗ろうとするから、資格のある人におこがましいと感じたり、およそカウンセラーらしからぬ人と同列にされたりするのを困ったりするのだろう。


広く、職業として「聴き手」であるためには、わけの分からない名乗りよりは世間で通用するカテゴリーに属するほうが親切ではある。
が、私は開業しているわけでもなく、人づてで「高橋に話を聞いて欲しい」という方と関わりを持たせてもらっている。
なので、カウンセラーという名乗りにこだわりはない。
もちろん、関わりを持たせていただくのは「カウンセラー」の仕事として、精一杯関わらせていただく。
その”実”さえぶれなければ、名乗りはさほど重要じゃない。

かつて親鸞聖人が、僧籍を捨て「非僧非俗」として立たれた。
そして行なわれた活動は、そんじょそこらの「名乗っているだけの僧侶」には出来ない、本当の伝道活動だった。
名乗りではなく、”実”だ。

私は「カウンセラー」という名乗りを捨てようと思う。
なにか良い言葉があればそれを名乗っても良いが、「愚禿」を超える良い名は思いつかない。
(僧を捨てた親鸞聖人は自らを「愚禿」(愚かなはげ)と名乗られた)

名乗りはなくとも、私にカウンセリングをして欲しい、話を聞いて欲しい、という方が居られれば、”実”のところで、しっかりと関わらせていただきます。