今日は日曜礼拝で「はなまつり」でした。
結構子どもも集まって、お祝いムードも盛り上がります。
そんななか、ご法話ではただのお祝いに収まらず、お釈迦様を通じて教えられる仏法を、子ども向けの配慮はあるとはいえしっかり聞かせていただきました。
今年は「生老病死」について。
お釈迦様の四門出遊を通じて、ただの王子から真剣に苦を見つめて仏道に歩まれるんですが、無常という事を「当たり前のように年をとって、それでもまだ先があると思っている」姿を通じて聞かせていただきました。
その後の座談会、今回はお参りも多く、時間も少なかったんですが、先にいただいたご法話を軸に話あわれましたね。
先生やお同行が、頭の理解や優等生的な受け答えで終わるのでなく、具体的な心の動きを見つめて、そこで味わっていくことの大事さを話してくださり、まだ座談経験の少ない方にもなにかが届いたんじゃないかと…
私自身、先日のブログでも書いた「剥がされていくこと」や「獲信へのこだわりが邪魔すること」を、座談の流れの中で味わいなおさせてもらいました。
もう、先の先に願われている。
四苦八苦していることもお見通しだと。
結構子どもも集まって、お祝いムードも盛り上がります。
そんななか、ご法話ではただのお祝いに収まらず、お釈迦様を通じて教えられる仏法を、子ども向けの配慮はあるとはいえしっかり聞かせていただきました。
今年は「生老病死」について。
お釈迦様の四門出遊を通じて、ただの王子から真剣に苦を見つめて仏道に歩まれるんですが、無常という事を「当たり前のように年をとって、それでもまだ先があると思っている」姿を通じて聞かせていただきました。
その後の座談会、今回はお参りも多く、時間も少なかったんですが、先にいただいたご法話を軸に話あわれましたね。
先生やお同行が、頭の理解や優等生的な受け答えで終わるのでなく、具体的な心の動きを見つめて、そこで味わっていくことの大事さを話してくださり、まだ座談経験の少ない方にもなにかが届いたんじゃないかと…
私自身、先日のブログでも書いた「剥がされていくこと」や「獲信へのこだわりが邪魔すること」を、座談の流れの中で味わいなおさせてもらいました。
もう、先の先に願われている。
四苦八苦していることもお見通しだと。