コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

真カ研月例会 2月

2010-02-19 23:39:20 | 真宗カウンセリング

メインの仕事だけではこのご時世なかなか収入が心もとないので、今月に入ってから副業も始める。
今までなかった時間を作ろうと言うのだから、当然何かが犠牲になる。
まぁ無駄な時間があればそれを削ればいいんだけど…
テレビを見たり漫画を読んだりなんてのも私にとってはメリハリの”緩”で無駄とも言い切れない(と言う時点であやしいけどね)
まぁ、今の時間の使い方に慣れればもうちょっとやりくりできるだろうけど。
ということで、ネットの時間も少し削られてきていて…と、更新が少なくなってる言い訳でした。

水曜日は真カ研の月例会。
今年度読み続けてきたロジャース氏の論文「十分に機能している人間」の最後。
(来月まとめの会はあるけど)

今回の題は「自由と決定論」
その詳細はかりもん氏がブログにされているので、私はまたまた省力。

今回、仕事の荷物の発送・家の用事などもあり、またまた遅刻。
いつもは最初のチェックインには間に合うけど、今回はすでに論文の検討に入ってた。
最初に自己紹介で一言でも発するのと違い、かなり流れに乗りにくい感じ。
それでも思ったことを言ってみるも、どうも受け入れられてない感覚。
何のことはない、私のほうが流れに乗りにくいから、その意識が場に投影されて、私のほうで勝手に壁を感じているのだ。
もっとも、そのときは「受け入れてほしいなぁ」と相手側に原因を持っていくのだが。

その後の皆さんの発言にも反応しながら、私の乗りやすいところと乗りにくいところがはっきりしてくる。

論文の言葉を理解することはとても苦手だ。
しかし、そこに書かれていることを自分なりに受け止めて、自分の感覚で味わっていくことは楽だ。

で、ここでちょっと考えてしまう。
やはり論文と言う形でロジャース氏が伝えようとしている大事な話があるのだから、私がどう受け止めるかの前に、「何を伝えようとしているのか」をきっちり理解するのが大事じゃないだろうか、と。
そういう部分が私には大きく欠けている。
学術的に受けとめる方々にとっては、感覚的な私の発言は浅いだろうなと思う。

もう一方で、体験的に受け止めた感覚を、論文に記述されている言葉で「あぁ、これだ」とうなずく場面がある。
もしかしたら、それは自分の体験・身体感覚に取り込んでいる姿かもしれないが、机上の理解とは違う深みがある。


そういうことを感じながら、この「十分に機能している人間」という事を振り返ってみると、自分の内から湧き上がるもの、外部の刺激から影響を受けるもの、それらを「今の私」のところで「これが私だ」と、憂いのない受け止め方が出来ている状態じゃないかと。

学術的なアプローチが苦手で、感覚的なところがすき。
それが言い悪いじゃなくて、そういう自分が今の自分。
それを、これからどうなっていこうとか、このままじゃ駄目とかじゃなくて、今の自分は今の自分。

「どんな選択をしようが、正しい選択が出来る状態」というほどの自信はないが、どんな選択のどんな結果も、一度は受け止めることが出来る私じゃないかな。
そこに後悔や憂いは起こってくるんだけど(起こらなければ完璧かもしれない)そういう後悔や憂いもネガティブなものじゃなくて、「そういう自分」と受けていける。

まぁ、何がきっかけで、そんな今の私がひっくり返るかはわからんけど。

完璧な「十分に機能している人間」にはなりえないけれど、振り子のふれ幅の中では結構いい状態かもしれない。

明日からは華光会の研修会。
昨年真カ研でお世話になった土江先生をお招きしての研修会。
いい感じで天狗になってる状態の腹底が暴かれるかもしれません(笑)
何が出てきても受け止められるかどうか。


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