コトバヲツグムモノ

「口を噤む」のか「言葉を紡ぐ」のか…さてどちらの転がっていくのか、リスタートしてみましょう。

フォーカシング・エンカウンター 華光会司会者研修会

2010-02-24 03:11:53 | コミュニケーションワーク

先の週末は華光会で「司会者研修会」
といっても、司会術を学ぶのではなく、法座で司会をする機会のある人のための研修会。
(もうちょっとわかりやすい主旨はかりもん氏のブログで)
そう、他人との関わりを考えるには、自分との関わり方を見つめてみる事が大事だ。

そこで、今回は「心の天気を感じてごらん」著者でもある土江先生をお招きしての二日間。
私にとっては昨年に「真宗カウンセリング研究会」での研修会についで、二回目のご縁だ。

昨年の研修会では「円座禅」と称されていたが、「フォーカシング・エンカウンター」という呼称にされていた。

ワークの流れを書いても良いけど、あんまり説明が続くのも面白くない。

そこで、二日間の心の動きを振り返ろうかとも思ったけど、どうも気が乗らない。

今は振り返ることに気が乗らないわたし。

実は直後に特定の人だけが読める場(mixi)に整理しないでそのときの心境を書いてみた。
ブログにするときはそれをまとめようと思って。
そういう作業もやろうと思えば出来るし、別に隠すことでもないから。
でもそれもしたくない。

今、二日前に言葉にした気持ちをまとめなおすことをしたくないわたし。

ならば、その二日間を経験して、その上でさらに二日間仕事したり、人と会ったり、家族と触れ合ったり、同じく参加した人のいろんな言葉を受け取ったりした今のところで、何でも良いからブログにしておこうかと。

こうして書いてみながら、複数の”わたし”が出たり入ったりしている。
そのことはフォーカシング・エンカウンターの最中に浮き彫りにされ、サポーターや先生の言葉を通して「あぁ、確かにそんな動きしてる」と腑に落ちた感じ。

たとえば、
文章を書いている「今の気持ちに沿って」と考える”わたし”
と、
そんな”わたし”を「打ち込んでる時点でもう過ぎた過去の思いじゃん」と冷めてみている”わたし”
さらに「それって本当に素直な思い?冷めている自分を演出して何か判ったふりしてるんじゃない?」という”わたし”
その他時々刻々、あんな”わたし”やこんな”わたし”

あ、分裂症って言葉が頭をよぎったわたし。

こういう風に、いくつかの”わたし”が複雑に動いている事実がありながら、その時々の”わたし”が主役の時には前の”わたし”を否定して自分が”本物”と主張するから、「いくつかのわたしがある」という事実を認めようとしない、いや認める必要を感じていない感じだった。
それを、外の人の言葉で「今のあなたはこうじゃないですか?」と、言葉にして返してくださることで(この言葉も多くは私自身の中から断片的に出てくる言葉)少し離れた視点で自分を見つめることが出来る。
そういう作業を体験させてもらえたし、講義の中ではそういう「プレゼンス」のことを教えてもらっていた。
あ、今のわたしの見方が、その「プレゼンス」なのかどうかはよく判っていない。

気がついたら振り返りも含めたことを書いてるなぁと思ったわたし。

最近のカウンセリングのワークや勉強会を通じて、その時々に現れる感じ(否定的なものも含めて)を、肯定否定なしに「そのままの感じ」として受け止めることは出来てきた気がする。
それは、その時々の”わたし”がそれぞれ受け止めている…あるいは、その時々に受け止められる”わたし”になっている。
うん、いままではその「感じ」を大事にしてきている。
もちろん、そこに焦点をあてるアプローチは私にとって大事なものだし、中心に在るもの。
そこに、その「感じ」をしている「わたし」を見つめる感覚が加わった。

感じも刻々と変わるから、それを見つめて、言語化していく事が大事だけれど、その感じてる”わたし”自身刻々と変化しているんだから、それを俯瞰してみる。

このことは、今ひらめいた。

そんな時々刻々の”わたし”を見つめやすいように、象徴化していく作業とその補助。
そしてその刻々の変化(シフト)を、象徴の変化を通じて見つめていく。

これがフォーカシング・エンカウンターだと理解したつもりになると怖いけど、何かしらこの身の中に育っているものがあるはず。

ちょっといいかっこしてきたなと思ってるわたし。


他にも「甘え」や「つながり」ってことでいろいろと”学んだ”こともあるんで、書けたらそのことも話題にしていきたい。

全部じゃないけど、打ち込みながら瞬間的に浮かんできたそのときの”わたし”を言葉に出来たら、それも織り込んでみた(色違いで書いた部分)

そういえば、研修会の各セッションに5分間の黙想があるんだけど、次々浮かんでくる時々刻々の”わたし”をどんどん言語化する作業していて、目が回るような感覚に襲われていた。
それを分かち合いのときに話すために、黙想中に現れた5分分の”わたし”を覚えておこうと。
分かち合いのときには全部”過去のわたし”なのにね。
そういうクセがあることも、今回よりはっきりした。

かしこいと思われたいわたし。

結局、うまく取り繕ってるわたし(のような気がしてきた)